第三話 言葉が通じなくても、議事録は取れる
第三話 言葉が通じなくても、議事録は取れる
四日目の朝。
田中は部屋で目を覚ますと、まずメモアプリを開いた。
昨夜の面談メモを読み返す。王様の課題を整理する。今日やることを確認する。
問題は言語だった。
単語は少しずつ増えているが、このペースでは会話と呼べるレベルになるまでに何ヶ月もかかる。何ヶ月もかけていられない理由はまだわからないが、王様の表情を見る限り、事態はそれなりに急いでいる様子だった。
田中はメモに書いた。
【言語習得・現状と課題】
・習得済み単語:約八十語
・目標:日常会話レベルまで
・問題:単語帳がない。体系的に学べる教材がない。教師がいない。
・解決策:?
?で止まった。
田中はしばらく考えた。
言語を早く覚えるには、量より密度だ。単語を並べるより、実際の文脈の中で使う方が定着が早い。つまり、誰かとひたすら話し続けるのが一番効率がいい。
ただ、話し相手がいない。
田中はメモに書き足した。
・解決策:話し相手を確保する。できれば根気強く付き合ってくれる人物。
ノックがあった。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、あの若い男だった。三日間、田中と一緒に単語の対応表を作り続けた男だ。
男は羊皮紙の束を抱えていた。
「また来てくれたんですね」
田中は言った。
男は、田中の言葉の意味はわからないだろうが、表情は読んだらしく、少し照れた顔をした。
田中は立ち上がり、向かいの椅子を引いた。
「座ってください」
男は座った。
田中はメモアプリを開き、日本語で「名前」と入力してから、画面を男に向け、自分の胸に手を当てて「タナカ」と言った。
男は少し考えてから、自分の胸に手を当てて言った。
「……レオン」
「レオン」
田中は復唱した。
レオンは少し嬉しそうな顔をした。
「よろしくお願いします、レオンさん」
田中は頭を下げた。
レオンは目を丸くしてから、慌てて頭を下げ返した。
その日から、田中とレオンの言語学習が本格的に始まった。
レオンが羊皮紙に絵を描く。田中が日本語で答える。レオンがこちらの言語を教える。
田中は全部メモに取った。
ただ記録するだけでなく、品詞ごとに分類して、活用のパターンを探して、規則性を見つけてまとめた。
五日目には、名詞と動詞の基本形がある程度わかってきた。
六日目には、簡単な疑問文が作れるようになった。
七日目には、レオンが田中のメモを覗き込んで、目を丸くした。
「なんですか」
田中が聞くと、レオンは田中のメモを指差して、何かを言った。
田中が拾えた単語は「これ」「すごい」「なんで」の三つだった。
「整理してるだけですよ」
田中は言った。
レオンは首を傾げた。
田中はメモを見せながら、品詞の分類を指で示した。名詞の列、動詞の列、規則性をまとめた表。
レオンは見るほどに顔色が変わっていった。
驚いている、というより、困惑している顔だった。
「どうかしましたか」
「……これ、学者が何年もかけてやることだ」
レオンは、ゆっくりと、田中にもわかるように言った。
田中は少し考えてから、言った。
「仕事で使う表を作るのには、慣れていますので」
レオンには伝わらなかったが、まあいい。
八日目の夜。
また騎士が迎えに来た。
居酒屋の、奥の席。
王様は今夜もいた。今日は泣いていなかった。少し疲れた顔をしていたが、杯を持つ手は落ち着いていた。
田中は向かいに座り、果実酒を受け取った。
「お待たせしました」
田中は言った。
一週間前と同じ言葉だったが、今夜は少し発音を意識した。
王様は一瞬、驚いた顔をした。
「……言葉、覚えたのか」
ゆっくりと言ってくれたので、田中には全部聞き取れた。
「少しずつ。まだ全部はわかりません」
「一週間で、それだけ話せるのか」
「効率よくやりましたので」
王様はしばらく田中を見てから、低く笑った。
初めて聞く笑い声だった。悪くなかった。
「お前は、不思議な人間だ」
「よく言われます」
言われたことはなかったが、この流れではそう返すのが自然だった。
王様はまた笑った。
その夜は、前回よりずっと話ができた。
まだわからない単語は多かったが、わからないところはその都度確認しながら進めた。
「それはどういう意味ですか」
「もう一度言ってもらえますか」
「つまり、こういうことですか」
田中は確認を挟みながら聞いた。
王様は最初、確認されるたびに少し驚いた顔をしていたが、やがて慣れてきたらしく、田中が首を傾げると自動的に言い直すようになった。
話の内容は、前回の続きだった。
魔王軍が北の国境に迫っている。迎え撃つには兵が要る。兵を集めるには金が要る。金を出すのは貴族たちだ。しかし貴族たちは、出すと言ってもなかなか実際には動かない。
「貴族たちは、何を懸念しているんですか」
田中は聞いた。
王様は少し考えてから、言った。
「勝てるかどうか、わからない。だから金を出したくない、と言う」
「なるほど」
「情けない話だ」
「いや」
田中は言った。
「合理的だと思います」
王様は眉を上げた。
「負けると思っている戦に金を出せと言われても、出し渋るのは普通の判断です。問題は、勝てる見込みをどう示すか、だと思います」
ゆっくり、慎重に、田中は言葉を選んだ。
まだ語彙が少ないから、細かいニュアンスは伝わっていないかもしれない。それでも王様は、田中の言葉を最後まで聞いていた。
「……続けろ」
「勝てる根拠を数字で示せば、動く人は動きます。全員は無理でも、一人動けば、次が動きやすくなります」
王様は黙った。
杯を持って、中の液体を眺めた。
それから言った。
「そんな話、誰もしてくれたことがなかった」
「そうですか」
「みんな、『必ずや勝利を』とか、『陛下のご英断に従います』とか、そういうことしか言わない」
「それは……使えない情報ですね」
田中は正直に言った。
王様は少し沈黙してから、また低く笑った。
「使えない情報、か。そうだな」
杯を傾けた。
「お前は正直な人間だ」
「仕事上、曖昧にしておくと後で困るので」
「仕事?」
「……元の世界での話です」
「元の世界」
王様は繰り返した。
田中が別の世界から来たことは、最初の説明でなんとなく伝わっているらしかった。王様がそれについて深く掘り下げてこないのは、性格なのか、それとも今は別のことで頭がいっぱいなのかはわからなかった。
おそらく後者だろうと、田中は思っていた。
二時間ほど話して、席を立つ前に、王様が言った。
「明日から、城で働け」
田中は一瞬止まった。
「……何をすれば」
「余の話し相手だ」
「話し相手」
「側近どもは使えん。お前は正直に言う。それだけでいい」
田中はしばらく考えた。
断る理由はなかった。城にいれば情報が得やすい。言語の習得も早くなる。食事と寝る場所は今のところ保証されている。
ただ、一点確認しておきたかった。
「あの、それは命令ですか、依頼ですか」
王様は意外そうな顔をした。
「どう違う」
「命令なら断れませんが、依頼なら条件を出せます」
王様はまじまじと田中を見た。
田中は静かに待った。
王様は少しの間考えてから、言った。
「……依頼にしてやろう。条件とは何だ」
「二つあります」
田中は指を立てた。
「一つ。私が確認や質問をしたとき、ちゃんと答えてもらえること」
「ふむ」
「二つ。私が『それは難しいです』と言ったとき、理由を聞いてもらえること」
王様は、難しい顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「……わかった」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」
田中は頭を下げた。
騎士が「この人間、何をやっているんだ」という顔をしていた。
田中には、その感想はよくわかった。
自分でも、今自分が何をやっているのか、よくわからなかった。
ただ、目の前にやることリストが積み上がっていくのは、いつもと同じだった。
田中は城に戻りながら、メモアプリを開いた。
【王様との面談メモ・第二回】
・国の課題:軍資金不足、貴族の非協力、勝ち目の不透明感
・今回の論点:貴族が動かない理由は感情ではなく合理的判断の可能性あり
・提案:勝てる根拠の可視化(要詳細)
・決定事項:明日から城勤め開始
・条件:質問への回答、「難しい」発言の尊重
・懸念:「話し相手」の定義が曖昧。業務範囲が不明確。要すり合わせ。
田中は少し考えてから、最後にもう一行書き足した。
・所感:王様、意外と話が通じる。育てられるかもしれない。
次回「第四話 業務範囲を明確にしたい」へつづく




