第三十七話 アレンが山脈で何かを見た
第三十七話 アレンが山脈で何かを見た
前話までのあらすじ
ガルドがシアに詰め寄った。懸念は「田中がいなくなったら停戦は続くのか」という本質的な問いだった。
田中は懸念を正面から受け取り、仕組みの継続性についてガルドと話し合った。
ガルドは「仕組みとお前自身の両方が必要だ」と言った。
田中は初めて、自分がいることの価値を少し受け取れた気がした。
アレンが戻ってきたのは、夕方だった。
いつもは城門を元気よく入ってくるアレンが、今日は少し静かだった。
馬から降りて、田中を探した。
田中は中庭にいた。
「タナカさん」
「お帰りなさい。どうしましたか」
「見ました」
「何をですか」
「山脈で、何かを」
田中はメモアプリを開いた。
「部屋に行きましょう。ゆっくり話してください」
田中の部屋。
アレンは椅子に座った。
田中は向かいに座って、メモを取る準備をした。
「順番に話してください。どこで、いつ、何を見たか」
「はい」
アレンは少し息を整えた。
「山脈の東端から少し南に入ったところ、岩場があります。前回の偵察で足跡を見つけた場所の近くです」
「はい」
「今日の昼過ぎ、その岩場に差し掛かったとき、音がしました」
「どんな音ですか」
「石が転がる音です。大きい石が、ゆっくり転がるような音」
「続けてください」
「馬を止めて、音の方向を見ました。岩場の上の方に、何かがいました」
「何かが、というのは」
「大きかった。人の三倍くらいの大きさで、四本足で立っていました。毛が生えていなくて、皮膚が岩みたいな色でした。頭が大きくて、目が……目が、こっちを見ていました」
「こちらを見ていた」
「はい。しばらく、お互いに動かなかったです」
「どのくらいの時間ですか」
「わかりません。長かった気がしますが、実際はそんなに長くなかったかもしれません」
「その後はどうなりましたか」
「向こうが動きました。ゆっくりと、岩場の上の方に戻っていきました。こちらに来なかった」
「攻撃してきましたか」
「しませんでした」
「逃げましたか」
「逃げた、というより、立ち去った感じでした。こちらを確認して、戻っていった」
「観察しに来た、ということですか」
「そう思います。向こうも、こちらを見ていた。でも、攻撃はしなかった」
田中はメモを取り続けた。
「アレンさん、その生き物の特徴を、できる限り詳しく教えてください。大きさ、形、動き方、目の位置、音」
アレンは一つずつ話した。
田中は書いた。
三本指の足跡と一致する生き物。四本足。皮膚が岩の色。大きな頭。目がある。音を立てて動く。攻撃せず、観察して立ち去った。
「アレンさん、怖かったですか」
「怖かったです。ものすごく」
「それで、どうしましたか」
「タナカさんに言われていたので、攻撃しませんでした」
「向こうが攻撃しない限り、こちらからも仕掛けないと言っていましたね」
「はい。剣に手をかけたんですが、思い出しました。攻撃するな、観察しろ、と」
「それで観察しました」
「しました。怖かったですが、剣を抜きませんでした」
田中はアレンを見た。
アレンは少し疲れた顔をしていたが、目が落ち着いていた。
「アレンさん、よくやりました」
「そうですか」
「怖い状況で、判断を変えなかった。それは、簡単なことではないです」
「でも、手が震えていました」
「震えていても、行動を変えなかった。それが大事です」
アレンはしばらく黙った。
「タナカさん、あれは何だったんでしょうか」
「わかりません。ただ、向こうから攻撃してこなかったことは、重要な情報です」
「重要ですか」
「はい。攻撃しない、ということは、向こうにも何らかの判断がある可能性があります。ただの獣なら、目が合えば攻撃するかもしれない。でも、観察して立ち去った」
「何かを考えていた、ということですか」
「可能性として」
「……怖いですね、それ」
「そうですね。ただ、話が通じる可能性もあります」
アレンは少し目を丸くした。
「あれと、話すんですか」
「わかりません。ただ、攻撃してこなかった相手とは、話せる可能性がゼロではないです」
「タナカさんって、本当に何でも話し合おうとしますね」
「話し合える相手なら、その方が良いので」
「魔王軍とも話し合って、ランセルとも話し合って、今度はあれとも話し合うんですか」
「まだわかりません。ただ、選択肢として持っておきます」
アレンはしばらど考えた。
「……タナカさん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あれを見て、北の問題が、もっと現実になった気がします」
「そうですね」
「怖いですか」
「怖いです」
「でも、やることがある」
「あります」
「何がありますか」
「今日の報告を王様とロイド卿とシアに伝えること、アレンさんの報告書を作ること、次の動きを決めること」
「それだけですか」
「それだけです。今夜できることは、それだけです」
アレンはしばらど田中を見た。
「タナカさん、俺、今日怖かったけど、帰ってきてタナカさんに話したら、少し落ち着きました」
「そうですか」
「なんでですか」
「話すと、整理されるからだと思います」
「整理されると、落ち着く」
「そうです」
「タナカさんがよくメモを取るのも、同じですか」
「同じです。書くと整理される。整理されると、動ける」
「なるほど」
アレンは立ち上がった。
「報告書、書きます」
「ありがとうございます。今日見たことを、できる限り詳しく」
「はい」
「絵が描けますか。見た生き物の形を」
「下手ですが、描けます」
「下手でいいです。形がわかれば」
「わかりました」
アレンは部屋を出た。
田中はメモを見た。
今日アレンが見たものの記録が、画面に並んでいた。
少し、手が止まった。
北の問題が、また一段階、現実になった。
足跡から、姿へ。
次は何になるのか、わからない。
田中はメモを閉じた。
王様のところに行かないといけない。
謁見の間に行くと、王様は書類を見ていた。
「陛下、アレンから報告が来ました。山脈で、向こうの生き物を目視しました」
王様が顔を上げた。
「目視、したのか」
「はい。アレンが直接見ました」
「どんな生き物だった」
田中はメモを読みながら、説明した。
王様は黙って聞いた。
「攻撃してこなかったのか」
「はい。観察して、立ち去ったそうです」
「それは……どういうことだ」
「わかりません。ただ、向こうにも判断がある可能性があります」
王様はしばらど考えた。
「田中、これは、どのくらい深刻な状況だと思うか」
「深刻です。ただ、パニックになる状況ではないと思います」
「なぜだ」
「攻撃してこなかった。これが今日一番重要な情報です。道が開く前から攻撃してくる意思があるなら、攻撃していたはずです。攻撃しなかったということは、何かを待っているか、探っているかのどちらかです」
「何を待っている」
「わかりません。ただ、こちらも同じように、探っていればいいと思います」
「探る、とは」
「観察を続けます。情報を集めます。シアとランセル公国にも共有します。動きがあれば、その都度対処します」
「やることが決まっているのか」
「決まっています」
王様は少し息をついた。
「田中、余は今、少し怖い」
「わかります」
「怖くても、やることがある」
「あります」
「お前の言葉を、余も使えるようになったな」
「そうですか」
「怖くても、やることがある。この言葉、最初はお前だけが言っていた」
「今は、皆さんが言うようになりましたね」
「そうだ」
王様はしばらど田中を見た。
「田中、お前が来て、この城が変わった。余が変わった。それだけでなく、皆の言葉が変わった」
「皆さんが変わったのは、皆さん自身の力です」
「また同じことを言う」
「事実なので」
「まあいい」
王様は立ち上がった。
「ロイドに伝える。今夜、緊急の会議を開く」
「わかりました。アレンの報告書が完成したら、持参します」
「頼む」
「あと一点、シアとランセルにも今夜中に使者を出したいのですが」
「出せ。署名が必要なら持ってこい」
「夜分になりますが」
「構わん」
「ありがとうございます」
夜、緊急会議が開かれた。
王様、ロイド、田中、アレン、レオンが集まった。
アレンが描いた絵と報告書が回覧された。
ロイドはアレンの絵を見て、しばらく黙った。
「アレン、これを見て、攻撃しなかったのか」
「はい」
「なぜだ」
「田中さんに言われていたので」
「田中に」
「攻撃するな、観察しろ、と」
ロイドは田中を見た。
「田中、これは正しい判断だったか」
「正しかったと思います。攻撃していれば、向こうの反応がわからなかった。攻撃しなかったことで、向こうも攻撃しないという情報が得られました」
「なるほど」
「ただし、次に遭遇したとき、向こうが攻撃してくる可能性はゼロではありません」
「対処方法は」
「向こうが攻撃してきた場合は、アレンが対処する。ただし、できる限り距離を取って、逃げることを優先する」
「戦わないということか」
「今は情報が足りない。情報が足りない相手と戦うと、予測外のことが起きます」
「わかった」
ロイドはアレンを見た。
「アレン、よく帰ってきた」
「ありがとうございます」
「怖かったか」
「ものすごく怖かったです」
「それで攻撃しなかった。立派だ」
アレンは少し驚いた顔をした。
「ロイド卿に立派と言ってもらえるとは思いませんでした」
「田中に鍛えられたな」
「鍛えられました」
「田中は、剣を持たない人間の鍛え方を知っている」
田中は少し考えた。
「鍛えたつもりはないですが」
「お前がそう言うのはわかっていた」
全員が笑った。
田中は笑わなかったが、部屋の空気が和らいだのは感じた。
会議が終わった後、田中はシアとランセルへの使者の手紙を書いた。
アレンが見た生き物の特徴、攻撃しなかったこと、今後の観察継続の方針。
レオンが翻訳を手伝った。
「タナカ、今日は大変な一日でしたね」
「そうですね」
「怖いことがありましたが、皆が落ち着いて動きました」
「そうですね」
「一年前のこの城だったら、どうなっていたと思いますか」
「パニックになっていたと思います」
「今はならなかった」
「皆さんが変わったからだと思います」
「タナカが来たからです」
「皆さんが動いてくれたからです」
「また同じことを言う」
「事実なので」
レオンは少し笑った。
「タナカ、一つだけ」
「はい」
「今日、アレンが怖かったけど帰ってきてタナカに話したら落ち着いた、と言っていました」
「聞きました」
「私も同じです」
「そうですか」
「タナカに話すと、整理されます。整理されると、落ち着きます」
「それはレオンが整理できる人間だからです」
「またそう言う」
「事実です」
「……ありがとうございます」
「レオンが礼を言うのは珍しいですね」
「大事なことを言ってもらったので」
二人は少し笑った。
手紙が完成した。
使者に渡した。
田中は部屋に戻った。
窓を開けた。
北の空に、山脈が見えた。
大きかった。
でも今夜は、一人で見ていなかった。
向こう側にも、同じ山脈を見ている人がいる。
そして今日、山脈のさらに向こうから来た生き物が、こちらを見ていた。
三方向から、同じ山脈を見ていた。
田中はメモアプリを開いた。
【本日の完了事項】
・アレンの報告:山脈東端で向こうの生き物を目視。攻撃なし。観察して立ち去った。
・緊急会議:王様、ロイド、アレン、レオン。今後の方針確認。
・シアとランセルへの使者:今夜発送。
・アレンの報告書と絵:作成完了。記録保管。
最後に一行書き足した。
・所感:北の問題が、また一段階現実になった。ただ、皆が落ち着いて動いた。それが、この一ヶ月の積み上げだと思う。
田中は窓を閉めた。
明日もやることがある。
ただ今夜は、積み上げてきたものが、少し、形になった気がした。
次回「第三十八話 第二章完結・田中が次の扉の前に立つ」へつづく




