第二十九話 北の足跡の話を聞いて、王様が珍しく黙った
第二十九話 北の足跡の話を聞いて、王様が珍しく黙った
前話までのあらすじ
月次情報交換の第一回。シアが食べ物を持ってきて、仕事の前に雑談になった。
シアの好きなものは川。田中の好きなものはスープ。
情報交換では、北の動向として山脈東端に未確認の足跡が発見されたことが報告された。三本指、人の倍の大きさ。向こうの偵察の可能性がある。
帰り道、田中は初めてメモに「好きなもの」を書いた。
翌朝。
田中はまず王様に報告した。
執務室に入ると、王様は書類を見ていた。
「昨日の情報交換の報告です」
「聞こう」
田中は議事録を渡した。
王様は読んだ。
停戦の状況確認、双方の現状報告、次回の日程。
そこまでは、普通に読んでいた。
北の足跡の部分で、手が止まった。
黙った。
田中は待った。
三十秒ほど、黙っていた。
王様が顔を上げた。
「これは、どういうことだ」
「山脈の東端に、人のものではない足跡が見つかりました。三本指で、人の足の倍の大きさです」
「向こうの偵察、とシアは言っているのか」
「可能性として。魔王陛下もそう判断されています」
「向こうの生き物が、山脈を越えてきた、ということか」
「足跡だけなので、確認はできていません。ただ、道が開く前に偵察に来ている可能性があります」
王様はしばらく窓の外を見た。
田中は王様を見た。
王様が黙るのは珍しくないが、今日の黙り方は少し違った。
考えているのではなく、受け止めている、という感じだった。
「陛下」
「……なんだ」
「大丈夫ですか」
王様は田中を見た。
「大丈夫かどうかを聞くのか、お前が」
「いつもと少し様子が違ったので」
「……そうか」
王様はしばらく黙った。
「田中、正直に言う」
「はい」
「怖い」
田中は少し止まった。
「怖い、ですか」
「そうだ。魔王軍との戦いなら、まだわかる。剣で戦う相手だ。でも、向こうの生き物が山脈を越えてくるというのは、想像ができない」
「そうですね」
「想像できないものは、怖い」
「正直に話してくださってありがとうございます」
「お前に隠す理由はない」
田中はメモを取りながら、少し考えた。
「陛下、一つだけ言っていいですか」
「言え」
「怖いのは、正しいと思います」
「正しい?」
「想像できないものを怖いと思うのは、正常な反応です。怖くない方が、おかしい」
「お前は怖くないのか」
「怖いです」
「顔に出ていないぞ」
「出さないようにしているので」
「なぜ出さない」
「出すと、周りも怖くなるので。怖さは伝染します」
王様はしばらく田中を見た。
「……お前は、怖くても出さないで動いてきたのか、ずっと」
「そうかもしれません」
「辛くないのか」
「慣れました」
「慣れることか、そういうことに」
「慣れるしかなかったので」
王様は少し黙った。
「田中、一つ頼んでいいか」
「はい」
「たまには、怖いと言え」
「……はい?」
「隠さなくていい。余の前では、怖いと言っていい」
田中は少し止まった。
「……それは、どういう意図ですか」
「お前がいつも平静なのは助かるが、お前も人間だろう。怖いものは怖いと言った方が、余も一緒に考えやすい」
田中はしばらく考えた。
「……わかりました。今は、少し怖いです」
「何が怖い」
「北の問題の規模が、まだ見えていないことです。見えていないものに向かって準備をしているのが、正しいかどうかわからないことが怖いです」
王様は頷いた。
「余も同じだ」
「そうですか」
「見えていないものへの準備は、難しい」
「はい」
「ただ」
「はい」
「やることがある、とお前は言う」
「はい」
「それを聞くと、少し、動けそうな気がする」
田中はしばらく王様を見た。
「……そうですか」
「そうだ。お前が怖くても動くなら、余も動ける」
「買いかぶりですよ」
「買いかぶっていい。それが余の判断だ」
田中は少し考えてから、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「お前が礼を言うのは珍しいな」
「珍しい言葉をいただいたので」
午後、ロイドを訪ねた。
議事録を渡した。
ロイドは読んだ。
北の足跡の部分で、ロイドも止まった。
ただ、王様と違う止まり方だった。
眉が少し動いた。
目が細くなった。
「……これは、本当か」
「シアからの報告です。信用できる情報だと思います」
「三本指で、人の倍の大きさ」
「はい」
「足跡だけか」
「目撃情報はありません」
「足跡の数は」
「一組だけ、と聞いています」
「一体だけが来た、ということか」
「今のところは」
ロイドはしばらく考えた。
「田中、軍事的に考えると、偵察が来たということは、本格的な動きの前兆である可能性がある」
「そう考えています」
「タイムラインが早まるかもしれない」
「最悪の場合は、そうなります」
「最悪の場合、いつだ」
「まだわかりません。ただ、今まで三〜五年と言っていたのが、三年を切る可能性が出てきました」
「三年を切るとなると、周辺国への働きかけを急がないといけない」
「そうです」
「今の段階で、周辺国に何か動きはあるか」
「まだです。停戦の実績を作ってから、と考えていましたが、タイムラインによっては順番を変える必要があります」
ロイドは腕を組んだ。
「田中、正直に聞く」
「はい」
「この状況、対処できると思うか」
田中は少し考えた。
「わかりません」
「わからないか」
「ただ、やることはあります」
「それだけか」
「今は、それだけです」
ロイドはしばらく田中を見た。
「……お前が『わからない』と言うのは、珍しいな」
「この問題は、わかることとわからないことの境界が、まだはっきりしていないので」
「わかることとわからないことを分けることが、まず必要だということか」
「そうです」
「では、今わかっていることは何だ」
「足跡が一組あった。一週間以内の新しいものだ。これだけです」
「わかっていないことは」
「その生き物が今どこにいるか。何を目的としているか。一体なのか、複数なのか。山脈を本格的に越えることができるのか」
「全部わかっていないな」
「全部わかっていません」
「それで動けるのか」
「動けます。わかっていないことを把握することが、次のやることです」
ロイドは少し考えた。
「……なるほど。わからないことのリストを作ることが、まずやることということか」
「そうです」
「それなら、動ける」
「はい」
ロイドは立ち上がった。
「田中、一つ提案がある」
「聞かせてください」
「東街道の見張りを増やす。また、山脈に近い場所に定期的に偵察を出す。足跡が増えていないか、別の痕跡がないか、確認する」
「それは良い提案だと思います」
「アレンにも頼めるか」
「アレンに村の巡回と合わせて、山脈方向の観察も追加で頼みます」
「頼む」
「わかりました」
田中はメモに書いた。
・ロイド提案:東街道の見張り増員、山脈近くへの定期偵察。了承。
・アレンへの追加依頼:山脈方向の観察。
夕方、アレンを探した。
中庭にいた。
「アレンさん、追加でお願いがあります」
「なんですか」
田中は北の足跡の話を説明した。
アレンは聞きながら、表情が変わっていった。
最初は普通の顔だった。
三本指という話で、少し固まった。
人の倍の大きさという話で、完全に固まった。
「……タナカさん、それ、何ですか」
「わかりません」
「わからないんですか」
「わかりません。ただ、足跡が一組あったことはわかっています」
「俺、そういうのと戦ったことないです」
「戦う前に、まず観察してください」
「観察」
「村の巡回の際に、山脈方向に何か異変がないか確認してください。足跡があれば記録する。音がすれば記録する。戦わなくていいです」
「戦わなくていいですか」
「今は情報が最優先です。戦うかどうかは、情報が揃ってから判断します」
アレンはしばらく考えた。
「……わかりました。ただ、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「タナカさんは、怖くないんですか」
田中は少し止まった。
今日、同じ質問を二回された。
「怖いです」
「でも、普通に説明してましたよね」
「怖いのと、説明できるのは別の話なので」
「どうやったら、そうなれるんですか」
「慣れるしかないと思います」
「慣れるか……」
「アレンさんも、怖い相手と戦うことがあるでしょう」
「あります」
「それでも行けるのは、なぜですか」
「……行かないといけないから、ですかね」
「それと同じだと思います」
アレンはしばらく考えた。
「タナカさんの『行かないといけない』は、剣を持って戦うのとは違うけど、同じ感じがします」
「同じだと思います」
「俺、剣は持てるけど、タナカさんみたいなことはできないです」
「私は剣が持てないので、お互い様です」
「お互い様か」
「はい」
アレンは少し笑った。
「わかりました。山脈方向、ちゃんと見てきます」
「よろしくお願いします。何か見つけたら、すぐ報告してください」
「報告書、ちゃんと書きます」
「楽しみにしています」
夜、田中は部屋でメモを整理した。
今日一日で、王様、ロイド、アレンの三人に同じ情報を伝えた。
三人の反応は、それぞれ違った。
王様は「怖い」と言った。
ロイドは「わかっていないことのリストを作る」と動いた。
アレンは「お互い様」で落ち着いた。
三人とも、最終的には前を向いていた。
田中はメモに書いた。
【本日の完了事項】
・王様への報告:完了。「怖い」という言葉を受け取った。こちらも「少し怖い」と伝えた。
・ロイドとの連携:東街道増員、山脈偵察の追加を了承。
・アレンへの追加依頼:山脈方向の観察を依頼。了承。
・次のアクション:周辺国へのアプローチのタイミングを見直す必要あり。要検討。
田中はリストを見た。
次のアクションが、また増えた。
ただ、今日は少し違う感触があった。
王様が「怖い」と言った。
田中も「怖い」と言った。
二人で同じものを怖がっていた。
それは、一人で怖がっていたときより、少し、軽かった。
田中はメモを閉じた。
窓を開けた。
北の空に、山脈のシルエットが見えた。
大きかった。
でも、今夜は少しだけ、向き合える気がした。
田中は窓を閉めた。
明日もやることがある。
ただ、今夜は少し早く寝ようと思った。
初めて、そう思った。
次回「第三十話 周辺国への根回しは、また別の話だ」へつづく




