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第一話 まず現状確認から入るのが社会人というものだ

42歳、係長。上司に怒られ、部下は辞め、毎日終電。

気づいたら会社のエレベーターから異世界に飛ばされていた。


 草原だった。

 田中義則は、仰向けに倒れた状態で、まず天井を探した。

 なかった。

 あるのは空だった。青い空。白い雲。視界の端に、名前も知らない鳥が横切っていった。

 田中はゆっくりと上半身を起こした。

 一面の草原。地平線まで続く緑。遠くに山。どこかで風が草を揺らす音がしている。

 田中は自分の頬をつねった。

 痛かった。

「……痛い」

 もう一回つねった。

 また痛かった。

「……痛い」

 三回目は少し強めにつねった。

「……普通に痛い」

 夢ではないらしかった。

 田中は立ち上がり、ズボンについた草と土を払いながら、とりあえず状況を整理することにした。整理するのは得意だ。十五年間、整理できない案件を整理し続けてきた。これもきっと整理できる。

 【現状確認リスト】

 ・場所:不明。草原。ビルなし、道路なし、自動販売機なし。

 ・時刻:不明。空の明るさから午前か昼前後か。

 ・体調:異常なし。頬が少し痛い(自業自得)。

 ・所持品:確認要。

 田中はスーツの内ポケットに手を入れた。

 スマートフォン。

 画面を点けると、圏外だった。電波が一本もない。それどころか、右上の通信会社名の表示が消えている。完全に電波を見失っている顔をしていた。

「そうだよな」

 地図アプリを開いた。現在地を取得しようとして、固まった。GPSも繋がっていないらしく、画面の中の地図が「現在地を確認中……」のまま動かなくなった。

 田中は電源ボタンを長押しして電源を落とし、また入れた。

 再起動中の画面。

 待っている間、財布を取り出した。

 革の二つ折り財布。五年前に妻に貰ったやつだ。最近あまり会話していないが財布は使い続けている。

 開いた。

「……ん?」

 お札が入っていた。

 ただ、見たことがないお札だった。

 縦長で、深い緑色をしていて、中央に何かの紋章が刻まれている。文字が書いてあるが、読めない。数字のようなものも書いてあるが、日本語でも英語でもアラビア数字でもない。

 田中は一枚取り出して、透かして見た。

 透かしが入っていた。精巧だ。偽札ではなさそう、というかそもそも何の札かわからない。

 小銭入れを開いた。

 コインも全部知らないやつだった。丸いもの、六角形のもの、中央に穴が開いているもの。素材も銀色、金色、銅色とバラバラだ。

「……財布ごと変わってる」

 田中は財布の外側を確認した。革の質感、縫い目、角の擦れ方、全部いつもの財布だった。中身だけが完全に入れ替わっていた。

「丁寧だな」

 誰に言うでもなく、田中は呟いた。

 スマートフォンの再起動が完了した。

 圏外だった。

 変わらなかった。

 田中はスマートフォンをポケットにしまい、財布の中の謎の紙幣を数えた。大きい紙幣が三枚、中くらいのが五枚、小さいのが八枚。コインが十数枚。

「価値がわからん」

 使えるかどうかも、そもそも通貨なのかどうかも、わからない。

 ただ、腹は減っていた。

 金曜の深夜に串八で飲んでいたから、最後に食べたのは二十二時頃だ。今がいつかわからないが、体内時計的にはだいぶ空腹だった。

 田中は遠くを見た。

 さっきから気になっていた、地平線の少し手前あたりに上がっている煙。焚き火か、それとも煙突か。どちらにしろ、人がいる可能性が高い。

 田中は歩き始めた。


 三十分ほど歩いたところで、道に出た。

 舗装されていない、土を踏み固めただけの道。でも道だった。轍がある。馬車か何かが通っているらしかった。

「馬車」

 田中は呟いた。

 馬車が走っているということは、車がいないということで、車がいないということはかなり文明レベルが違うということで……

「異世界か」

 今更ながら声に出した。

 言葉にすると少し実感が出た。ただ、パニックにはならなかった。なぜかというと、「異世界に来てしまった」という事実より、「腹が減った」という事実の方が今は切実だったからだ。

 田中は道なりに歩いた。

 小一時間も歩くと、集落が見えてきた。

 石造りの建物が並んでいる。街道沿いに露店が出ている。人が歩いている。服装は中世ヨーロッパ風というか、ファンタジーというか、田中が想像する「異世界の村」そのものだった。

 田中は立ち止まり、自分の服装を見下ろした。

 グレーのスーツ。白いワイシャツ。紺のネクタイ。革靴。

 完全に浮いていた。

「まあ、仕方ない」

 田中は歩き始めた。

 目的は食事だ。食事ができるところを探す。それだけ考えれば今は十分だ。

 露店の前を通り過ぎると、野菜を売っている老婆と目が合った。老婆は田中を見て、目を丸くして、何かを言った。

 言語が違った。

 ただ、雰囲気で「なんじゃあのひと」と言っていることはわかった。

「すみません、ご飯食べられる場所ってありますか」

 当然通じなかった。

 田中はジェスチャーをした。手を口に持っていって、もぐもぐする動作。

 老婆は少し考えてから、道の奥を指差した。

「ありがとうございます」

 田中は深々と頭を下げ、指差された方向に歩いていった。


 老婆が指差した先には、木造の建物があった。

 扉が開いていて、中から話し声と、何かを焼く匂いが漏れている。

 看板に文字が書いてあったが読めない。ただ、扉の横に木製の杯と皿の彫刻があしらわれていた。

 飲食店だ、と田中は判断した。

 中に入った。

 テーブルがいくつか並んでいて、昼間から数人の客が飲んだり食ったりしていた。全員が田中を見た。当然だった。

 カウンターの奥に、恰幅のいい中年の女性がいた。たぶん店主だろう。

 田中は近づき、ジェスチャーを駆使した。

 指を一本立てる(一人)。椅子に座る動作。食べる動作。

 店主は少し目を細めて田中を見てから、カウンターの端の席を指差した。

「ありがとうございます」

 田中は座った。

 しばらくすると、パンとスープと何かの肉が運ばれてきた。田中には何の肉かわからなかったが、肉であることはわかった。

 代金はどうするか。

 田中はとりあえず食べることにした。食べながら考える。その間に店内を観察して、他の客がどうやって払っているか確認する。

 スープを一口飲んだ。

 塩気が強くて、草の風味がした。不味くはなかった。

「……食べられる」

 とりあえず毒ではないらしかった。

 パンをちぎって食べた。固かったが、噛んでいると小麦の味がした。

 肉は歯ごたえがあって、タレのような液体で煮てあった。

「悪くない」

 田中は黙々と食べた。

 隣の席で、若い男二人が何かを話し合っていた。言語はわからない。でも雰囲気で、仕事の愚痴っぽいことを話しているのはなんとなくわかった。

 世界が変わっても、昼間の居酒屋で愚痴を言い合う人間はいるらしかった。

 少し、安心した。


 食べ終わった頃、田中は財布を出した。

 硬貨を数枚、カウンターに並べた。

 店主は硬貨を一瞥して、一枚だけを取り、残りを田中に返した。

「……これ一枚か」

 コインの価値は、一枚でそれなりに食事できる金額らしかった。

 田中は返ってきた硬貨をしまいながら、頭の中で計算し始めた。

 今手元にある硬貨が何枚。一食分がコイン一枚なら……ただ、食事の相場がこれだけかどうかはわからない。紙幣の価値もまだわかっていない。

 まず、通貨の種類と価値を把握しないといけない。

 次に、言語を覚えないといけない。

 その次に、この世界の常識を把握しないといけない。

「……やること多いな」

 田中はパンの最後のひとかけらを口に入れながら、呟いた。

 知らない土地で、やることリストを作っている自分が、なんとなく可笑しかった。

 スーツ姿の四十二歳が一人、異世界の居酒屋でパンをかじっている。

 客観的に見たら、だいぶ滑稽な絵面だ。

 ドアが開いた。

 どかどかと、騒がしい足音で数人が入ってきた。

 その中の一人が、入り口に立ったまま、田中を指差して何かを叫んだ。

 店内の全員が、田中を見た。

 田中はスープの最後の一口を飲み終えて、顔を上げた。

 騎士みたいな格好をした男たちだった。剣を腰にぶら下げている。全員が田中を見ている。

 なんか、捕まえに来た顔をしていた。

「……は」

 田中は、口の中のパンを飲み込んでから、静かに手を上げた。

「あの、何かご用でしょうか」

 当然、通じなかった。

 騎士たちはずかずかと近づいてきて、田中の両腕を掴んだ。

「あ、ちょっと待ってください、確認させてください、これは任意ですか強制ですか」

 強制だった。


次回「第二話 王様は居酒屋で大泣きしていた」へつづく

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