第十七話 魔王領に入ったら、空の色が違った
第十七話 魔王領に入ったら、空の色が違った
前話までのあらすじ
四十五日目の朝、田中は魔王城へ向けて一人で出発した。
アレンに「城をお願いします」、ロイドに手綱を渡してもらい、レオンから一晩かけて作った魔王領の言語対応表を受け取った。
城門を出て、北に向かって馬を進めた。
心構えをメモに書いたのは、初めてだった。
山脈の向こうに、魔王城がある。
街道を北に向かって半日走ると、景色が変わり始めた。
最初に気づいたのは、木の種類だった。
この国の街道沿いには、葉の広い木が並んでいた。緑が明るくて、風が吹くたびに葉がさらさらと音を立てた。
それが、いつの間にか、針葉樹に変わっていた。
細くて、暗い緑の木が、街道の両側に密に立っている。
風の音が変わった。
さらさらではなく、低くざわざわとした音になった。
田中は馬を進めながら、周囲を観察した。
メモに書いた。
・植生の変化:広葉樹から針葉樹へ。境界は出発から約半日地点。
・気温:若干下がった感覚。
・人の往来:減った。午前中は数組の行商人とすれ違ったが、午後からは一人も会っていない。
街道は続いていた。
舗装はされていないが、轍がある。人が使っている道だ。
ただ、最近使われた形跡が薄かった。
田中は馬の速度を少し落とした。
夕方近くになって、小さな集落に差し掛かった。
十軒ほどの家が街道沿いに並んでいた。
煙が上がっていた。夕食の準備をしているらしかった。
田中は馬を降りた。
シアが手配した宿は、この集落にあるはずだった。
手紙に書いてあった目印を探した。
街道の端に、青い布を掛けた建物があった。
近づいて、扉をノックした。
中から、老人が出てきた。
田中はレオンが作ってくれた対応表を取り出した。
「すみません、シアの紹介で来ました」
老人は田中を見て、少し目を細めた。
それから、この国の言語に近い言葉で言った。
「シアの客か。聞いていた。入れ」
言語は通じた。
訛りが強かったが、聞き取れた。
田中は安堵しながら、中に入った。
宿は小さかった。
部屋が三つあって、食事が出て、馬を繋ぐ場所がある。それだけの宿だった。
老人は田中に部屋を案内しながら、ちらちらと田中を見た。
「あんた、この国の人間じゃないね」
「そうです。遠い場所から来ました」
「スーツ、じゃないけど、なんか違う服だね」
「現地の服に着替えてきました」
「でも鞄が変だ」
田中は鞄を見た。
革の二つ折り鞄。現代日本のビジネスバッグだ。確かに浮いていた。
「……そうですね」
「まあいい。シアの客なら悪い人間じゃない」
「シアさんはここをよく使うんですか」
「時々ね。北と南を行き来するときに寄っていく」
「渉外担当なので、移動が多いんですね」
「渉外ってのが何かは知らんけど、よく動いている人だよ」
老人は部屋の扉を開けた。
「飯は日が暮れたら出す。それまで休め」
「ありがとうございます」
田中は部屋に入った。
部屋は狭かったが、清潔だった。
ベッドと小さなテーブルと、燭台。
田中は鞄を置いて、椅子に座った。
スマートフォンを取り出した。
圏外だった。
メモアプリを開いた。
【本日の記録】
・移動:出発から約八時間。予定通り宿に到着。
・言語:老人と会話できた。訛りはあるが同系統の言語で問題なし。レオンの対応表は未使用だったが、念のため手元に置く。
・観察:集落は小規模。住民は十〜二十人程度。魔王軍の兵士の姿はなし。住民の表情は穏やか。戦時下という緊迫感は感じられない。
・気になった点:街道の人通りが少ない。国境に近いため警戒しているのか、それとも別の理由があるのか。
田中はメモを閉じて、窓を開けた。
外は暗くなっていた。
星が出始めていた。
この国に来て初めて、城の外で夜を迎えた。
静かだった。
虫の音がした。
田中はしばらく外を眺めてから、窓を閉めた。
明日、国境を越える。
魔王領に入る。
田中は特に緊張していなかった。
していないはずだった。
ただ、なぜか、夕食が来るまでの間、メモアプリを何度も開いたり閉じたりした。
夕食は、素朴だった。
野菜のスープと、黒いパンと、干した魚。
田中は食堂のテーブルに座って、老人と向かい合った。
他に客はいなかった。
「一人で旅しているのか」
「はい」
「魔王城まで行くのか」
「はい」
「度胸があるね」
「そうでしょうか」
「普通の人間は魔王城に行こうとは思わない」
「シアさんが案内してくれるので」
「シアが案内するなら安全だ。あの子は信用できる」
田中は少し気になった。
「シアさんをご存知なんですか」
「何年も前から寄っていく。最初は若かった。今は少し疲れた顔をしている」
「渉外担当は大変なんですね」
「上と下の板挟みだと言っていたよ」
田中はスープを一口飲んだ。
上と下の板挟み。
「魔王軍の上というのは、魔王ですか」
「そうだろうね。下というのは、現場の兵士たちだろうね。シアは両方の話を聞かないといけない立場なんだろう」
「……そうですか」
「あんたも似たような仕事をしているのか」
田中は少し考えた。
「似ていると思います」
「大変だろう」
「慣れました」
老人は少し笑った。
「シアと話が合いそうだ」
「そうかもしれません」
田中は黒いパンをちぎった。
固かったが、噛んでいると麦の味がした。
老人が言った。
「魔王城に行って、何をするんだ」
「話し合いです」
「魔王と?」
「たぶん」
「魔王と話し合いができると思っているのか」
「話し合いができない相手は、今のところいなかったので」
老人はしばらく田中を見た。
「……変わった人間だね」
「よく言われます」
「何回目だ」
「数えていません」
老人は声を上げて笑った。
田中は少し驚いた。
老人はまだ笑いながら言った。
「シアが言っていたとおりの人間だ」
「シアさんが私のことを?」
「『今度、話が通じる人間が来る』と言っていた。あの子がそう言うのは珍しい」
田中は少し考えた。
「シアさんは、話が通じる人間が少ない環境にいるんですね」
「魔王城はそういう場所だよ」
「どういう場所ですか」
老人はパンをちぎりながら、少し考えた。
「力が全ての場所だよ。強い者が正しくて、弱い者は黙っている。シアみたいに話し合いで物事を進めようとする人間は、少数派だ」
「それで苦労しているんですね」
「苦労どころか、何度か危ない目にも遭っていると思うよ。詳しくは話さないけど」
田中はメモに書き足した。
・シア:魔王城内では少数派。話し合いで物事を進めようとするタイプ。城内で孤立気味の可能性あり。
「あんた、今メモを取ったね」
「はい。情報は記録しておかないと忘れるので」
「魔王城でもメモを取るのか」
「取ります」
「魔王の前でも?」
「必要があれば」
老人はまた笑った。
「面白い人間だ。シアが気に入るわけだ」
食事を終えて、部屋に戻った。
田中は布団に横になりながら、天井を見た。
石造りではなく、木の天井だった。
老人が言っていた言葉が、頭に残っていた。
力が全ての場所。強い者が正しくて、弱い者は黙っている。
そういう場所は、元の世界にもあった。
田中が最初に配属された部署は、そういう部署だった。
声が大きい人間が正しくて、実績より存在感が評価される。誰も議事録を作らなくて、後から「言った言わない」が日常的に起きる。
田中はそこで十五年、やってきた。
力がなくても、整理することはできる。
記録することはできる。
話を聞くことはできる。
それで、少しずつ変わってきた部分があった。
全部は変わらなかった。でも、少しは。
田中は目を閉じた。
魔王城がどんな場所かは、明日見ればわかる。
見てから考える。
いつもそうやってきた。
虫の音が続いていた。
田中は、思ったより早く眠れた。
翌朝。
田中は夜明けに起きた。
老人が朝食を出してくれた。パンとスープ、昨夜と同じ構成だった。
食べながら、老人が言った。
「今日、国境を越えるのか」
「はい」
「国境の印は石柱だ。見ればわかる。越えたら、道なりに北に進めば魔王城に着く。迷うような道じゃない」
「ありがとうございます」
「一つだけ言っておく」
「はい」
「魔王城では、余計なことを言うな。力が全ての場所では、言葉が凶器になることがある」
「わかりました」
「ただ」
老人は少し間を置いた。
「シアが連れてくる人間は、余計なことを言うから面白いんだよな」
田中は少し考えてから、言った。
「善処します」
「さっき、善処は無理するときの言葉だと誰かに言われましたか」
「昨日、言われました」
老人はまた笑った。
田中は宿代を払い、馬に乗った。
老人が見送ってくれた。
「気をつけていけ」
「ありがとうございました」
田中は馬を進めた。
街道を北に向かって。
しばらく走ると、老人が言っていた石柱が見えてきた。
両側に一本ずつ、無骨な石の柱が立っていた。
刻まれた文字は読めなかったが、意味はわかった。
ここから先は、魔王領だ。
田中は馬を少し止めた。
石柱を見た。
特別なことは何も感じなかった。
ただ、メモアプリを開いて、一行書いた。
・国境通過:午前。特に問題なし。
馬を進めた。
石柱を越えた。
風の感触が、少し変わった気がした。
気のせいかもしれなかった。
北の空に、昨日より近くなった山脈が見えた。
その手前に、何かが見えた。
まだ遠くて、輪郭しかわからない。
ただ、大きかった。
田中は目を細めた。
魔王城だ、と思った。
馬を進めた。
次回「第十八話 魔王城は、想像より事務的だった」へつづく




