第十六話 出発の朝は、いつも静かだ
第十六話 出発の朝は、いつも静かだ
前章までのあらすじ
異世界に転生した42歳の係長・田中義則は、居酒屋で偶然出会った王様に懐かれ、気づけば王国の補佐官になっていた。
言語を習得し、貴族会議で予算を通し、勇者アレンに報告書の書き方を教え、騎士団長ロイドと連携ルートを作り、魔王軍からの停戦申し入れを受けて交渉を成立させた。
交渉相手の魔王軍渉外担当・シアから「魔王が直接話したいと言ったら来てもらえますか」と打診された田中は、王様に報告した翌日、「お前が行け」と言われた。
いつもの「かしこまりました」が、今回だけ三秒遅れた。
第一章完。
四十五日目の朝。
田中は夜明け前に目が覚めた。
いつもより一時間早かった。
別に眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めた。
天井を見た。
石造りの、城の天井。この四十五日で見慣れた天井だった。
田中は起き上がり、窓を開けた。
まだ暗かった。東の空が、少しだけ白み始めていた。
城下町の明かりがぽつぽつと見えた。
朝が早い職人か、夜番の兵士か。
田中はしばらく外を眺めてから、メモアプリを開いた。
【本日の持ち物確認】
・資料一式(停戦の合意内容、この国の現状概要、交渉用の白紙五枚)
・革の鞄
・財布(異世界の通貨、残量確認済み)
・スマートフォン(充電済み)
・着替え三日分(レオンに用意してもらった現地の服)
・この国の言語で書いた自己紹介の羊皮紙一枚
最後の項目を見て、田中は少し考えた。
魔王城では、この国の言語が通じるかどうかわからない。シアの訛りから推測すると、同じ系統の言語を使っているはずだが、確認はできていない。
念のため、身振り手振りでも最低限は伝えられるように、昨夜基本的な単語の確認をしておいた。
準備は、できている。
できていない部分は、現地で考える。
いつもそうやってきた。
田中は着替えを始めた。
今日から数日、現地の服を着ることになる。レオンが「スーツだと目立ちすぎる」と言って用意してくれた、シンプルな旅人風の服だった。
着てみると、悪くなかった。
ただ、ネクタイがない。
四十二年間、仕事に行くときはネクタイをしていた。
していない自分が、少し落ち着かなかった。
「……気にしても仕方ない」
田中は独り言を言って、鞄を手に取った。
食堂に行くと、アレンがいた。
いつもより早い時間なのに、すでに肉を食べていた。
「おはようございます」
「タナカさん、おはようございます」
「早いですね」
「見送りに来ました」
田中は向かいに座った。
運ばれてきたパンとスープを受け取りながら、田中はアレンを見た。
アレンは肉を食べながら、何か言いたそうな顔をしていた。
「何かありますか」
「……やっぱり、俺も行きます」
「昨日も断りましたよね」
「でも魔王城ですよ。一人で行くのは」
「一人の方が話しやすいです」
「危ないじゃないですか」
「シアが案内してくれます。危険なら交渉の場に呼ばないと思います」
「でも」
「アレンさん」
「はい」
「私がいない間、この城をお願いします」
アレンは少し黙った。
「……何をすればいいですか」
「王様の様子を見てください。無理をしていたら、声をかけてあげてください」
「声をかける、って、俺が?」
「アレンさんなら、変に気を遣わずに話しかけられると思います」
「タナカさんみたいには、うまくできないですよ」
「うまくやらなくていいです。隣にいるだけで十分なことがあります」
アレンはしばらく考えた。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
「あと」
「はい」
「ちゃんと帰ってきてください」
「約束します」
「三回目ですよ、その約束」
「三回とも、守るつもりです」
アレンは少し笑った。
田中はスープを飲んだ。
塩気が強くて、草の風味がした。
いつもの朝の味だった。
城門の前に、ロイドが待っていた。
今回は護衛はいない。田中一人での出立だった。
馬が一頭、用意されていた。
「荷物は少ないな」
「必要なものだけにしました」
「食料は」
「三日分、鞄に入っています」
「魔王城までは二日の道のりだ。途中で一泊する。シアが手配した宿があるはずだ」
「わかりました」
「道順は頭に入っているか」
「はい」
ロイドは田中を見た。
「一人で行くのが不安なら、言え。方法を考える」
「大丈夫です」
「大丈夫でなくても、そう言うだろうが」
「……まあ、そうですね」
ロイドは少し間を置いた。
「田中」
「はい」
「お前がこの城に来て、四十五日だ」
「そうですね」
「この城が変わった。余計な争いが減った。物事が動くようになった」
「皆さんが動いてくれたからです」
「お前が整理したからだ」
田中は何も言わなかった。
「魔王城でも、同じことをするんだろう」
「やることがあれば、やります」
「そうだな」
ロイドは短く言って、馬の手綱を田中に渡した。
「戻ってこい」
「四回目になりますが、約束します」
ロイドは少し目を細めた。
笑ったのかもしれなかったが、表情が変わらなすぎてわからなかった。
城門を出ると、レオンが走ってきた。
「タナカ、待ってください」
「どうしましたか」
レオンは息を切らしながら、羊皮紙を差し出した。
「これ、持っていってください」
「何ですか」
「魔王領の言語と、この国の言語の対応表です。昨夜作りました」
田中は受け取って、広げた。
単語が三百以上、丁寧に並んでいた。
「……一晩で作ったんですか」
「タナカが一週間で言語を習得したので、私も頑張れると思って」
「ありがとうございます」
「役に立つかどうかわかりませんが」
「役に立ちます」
田中は対応表を鞄にしまった。
レオンが言った。
「タナカ、一つだけ」
「はい」
「向こうでも、ちゃんと食べてください」
「食べます」
「ちゃんと寝てください」
「寝ます」
「無理をしないでください」
「……善処します」
「善処は無理するときの言葉ですよ」
「そうですね」
田中は少し考えてから、言い直した。
「できる限り、無理をしません」
「それでいいです」
レオンは頷いた。
目が少し赤かった。
田中は気づいたが、言わなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
田中は馬に乗った。
城門の前で、振り返った。
レオン、アレン、ロイドが立っていた。
王様の姿はなかった。
田中は前を向いた。
馬を進めた。
城門が、後ろで閉まった。
しばらく走ったところで、田中は馬の速度を落とした。
街道を、北に向かって進んでいた。
空が広かった。
この国に来て四十五日、田中は城と城下町の往復がほとんどだった。
こんなに広い景色を、久しぶりに見た気がした。
いや、最初の日に草原で目を覚ましたとき以来か。
田中はスマートフォンを取り出した。
圏外は変わらなかった。
メモアプリを開いた。
【第二章・初日メモ】
・出発:城門、夜明け後。
・目的地:魔王城。所要二日。
・本日の目標:シアが手配した宿まで到達。
・懸念事項:魔王城内の状況が不明。シアから聞いた範囲では組織が機能不全気味。どの程度かは現地で確認。
・心構え:情報収集を優先。判断は後で。
最後の項目を見て、田中は少し考えた。
心構えを書いたのは、初めてだった。
自分でも少し意外だった。
馬が街道を進んだ。
風が吹いていた。
田中は鞄の中の対応表の感触を確認してから、前を向いた。
北の空に、うっすらと山脈が見えた。
その向こうに、魔王城がある。
田中義則、四十二歳。
行ってきます。
次回「第十七話 魔王領に入ったら、空の色が違った」へつづく




