第96話 売った後の育成線
「今度は何だ」
三浦の声に、恒一は伏せかけた携帯をそのまま机の上へ置いた。
画面には、佐伯からの文面が残っている。
『アオバノミチの件で、三浦さんにも一度話を聞けませんか。売った後の育成記録の読み方について、確認したいです』
事務所の中に、少しだけ間ができた。
机の上には、一歳牡馬の管理表がある。短時間分離、通路馴致、母馬房側音確認、放牧地扉音確認。最後の行には、美緒の字で「長くやらない」と書かれていた。
その横に、黒峰の紙が裏返しで置かれている。
さらにその間へ、佐伯からの相談が落ちてきた。
残した馬の育成線。
売った馬の育成線。
これから作る血の話。
全部が同じ机の上に乗っている。
美緒が携帯画面を見たまま、眉を寄せた。
「これ、今すぐ返す?」
「返す」
「三浦さん、まだいるけど」
三浦は椅子に座ったまま、支払い予定表を見ていた。確認料の欄に美緒が引いた細い線を、指で一度叩く。
「俺を使うなら、馬の話だけにしろ。世間話なら帰る」
「馬の話です」
恒一はそう答え、佐伯へ電話をかけた。
呼び出し音が二回鳴ったところで、佐伯が出た。
『榊原さん、すみません。今、大丈夫ですか』
「三浦さんもいます」
電話の向こうで、短く息を吸う音がした。
『助かります。売った後なのに、ここまで聞いていいのか迷ったんですが』
恒一は机の上の一歳牡馬の管理表を見た。
売った後。
その言葉は、軽くない。
代金を受け取り、所有権が移れば、馬はもうこちらのものではない。だが、売る時に渡した紙と、言葉と、育て方への考えは残る。
残るからこそ、踏み込みすぎれば邪魔になる。
「佐伯さん」
『はい』
「売ったから、今の馬の判断はそちらのものです」
美緒がこちらを見た。
佐伯はすぐに返事をしなかった。
電話の向こうで、紙を動かす音がする。
「こちらが決めることではありません。育成先で現物を見ている人が、一番近いです」
『……はい』
「ただ、売る前にうちで見ていた癖や、記録の読み方なら伝えられます。そこまでです」
三浦が、少しだけ顎を上げた。
『その線引きでお願いします』
佐伯の声は、少し落ち着いていた。
『正直、急がせたくないんです。アオバノミチは、セリの時も派手な馬ではありませんでした。でも、歩かせた時の落ち着きと、無駄なことをしない感じが良かった。そこを壊したくない』
恒一は、机の端に置いた指を一度だけ押さえた。
「今の記録はありますか」
『あります。輸送後の食い、脚元の戻り、放牧に出した時の反応。育成先からもらった紙を、先ほど送っています』
美緒がすぐにノートパソコンを開いた。
古い画面が立ち上がるまでの数秒が長い。ファイルを開くと、佐伯から送られた記録が並んでいた。
輸送後一日目。
飼葉、半分。乾草、七割。水、通常より少なめ。
二日目。
飼葉、七割。乾草、ほぼ完食。水、戻り傾向。
三日目。
歩様、硬さ少し。左前、熱感なし。球節周囲、軽い張り。
放牧時。
入口で一度止まる。他馬へ自分から寄らず、距離を取って歩く。呼び戻しは素直。
馬房内。
飼葉桶を確認してから食べ始める。人の出入りには過敏ではない。
三浦は画面をのぞき込まず、美緒に言った。
「印刷しろ」
「はい」
プリンターが唸り、薄い紙が出てくる。
三浦は一枚目を受け取り、赤鉛筆を取った。美緒のものだった。先が少し丸くなっている。
「これは使える」
赤鉛筆の先が、輸送後の飼葉量の欄を叩く。
「これは?」
美緒が聞いた。
「使えない」
三浦は別の行を叩いた。
そこには「元気そう」とだけ書かれていた。
「元気そう、は駄目ですか」
「誰が見た元気か分からん。朝か夕方かも分からん。食った量、水の減り、歩き出しの最初の数歩。そういうのを書け」
佐伯が電話の向こうで苦笑した。
『耳が痛いです』
「馬の耳を見ろ」
三浦はそう言って、次の紙を見る。
「放牧の入口で一度止まる。これはいい。止まった後に、誰が引いたのか、自分で出たのかが欲しい」
美緒の鉛筆が動いた。
佐伯が言う。
『育成先は、もう少し動かした方が気持ちが前へ出るんじゃないか、と言っています。私は、まだ様子を見たい。でも、こちらが素人判断で止めすぎているのかもしれないと思って』
三浦は紙から目を上げた。
「現物を見てない俺が、強度を決める話じゃない」
『はい』
「ただ、紙を見る限り、輸送後に食いが戻り切るまで少し時間がかかってる。脚元も、熱はないが張りが出てる。放牧で他馬へ寄らずに距離を取るなら、頭の中は慎重だ」
佐伯は黙って聞いていた。
「気持ちを前へ出すために動かすのはいい。だが、疲れさせて前へ出たように見せるのは違う」
美緒の鉛筆が止まった。
昨日、一歳牡馬の通路で聞いた言葉と同じ形をしていた。
疲れて諦めるのは、慣れたのとは違う。
恒一は画面の中のアオバノミチの名前を見た。
そこに馬はいない。
馬房の匂いも、歩き出しの蹄の音も、今の目つきも、ここにはない。
アオバノミチがこの牧場にいた時、恒一は歩き方も、食いの波も、成長を待つべき線も見ていた。セリで派手に映らない代わりに、崩れにくい静かな芯がある馬だった。
だが、今ここにあるのは、過去の記録と、佐伯から送られてきた紙だけだ。
恒一は、佐伯へ向けて言った。
「今のアオバノミチについて、こちらから断定はしません」
『断定』
「はい。今は見ていないので」
佐伯に渡せるのは、答えではない。
見るべき場所だ。
「ただ、確認すべき項目は渡せます」
三浦が赤鉛筆を置いた。
「書け」
美緒が新しい紙を出した。
恒一は言葉を選びながら言った。
「飼葉を残す時、どこから残すか。最初から食べないのか、途中で止まるのか、硬いものだけ残すのか」
美緒が書く。
「歩き出しの最初の五歩。馬房から出た直後と、放牧地入口で違いがあるか」
三浦が頷いた。
「脚元は、熱感だけじゃなく、左右差と、翌朝の戻り。動いた直後だけ見ない」
『翌朝ですね』
「放牧地で、他馬との距離を自分で選べているか。追われて離れているのか、自分で離れているのか」
佐伯の紙をめくる音がする。
「人が急がせた時と、待った時で、首の高さがどう変わるか」
三浦が口を挟んだ。
「あと、入口で止まった時に引くな。止まった理由を見ろ。外が怖いのか、他馬を見てるのか、足元を見てるのか、音を聞いてるのか」
美緒はそのまま書いた。
止まった理由を見る。引かない。
佐伯はしばらく黙っていた。
『榊原さん』
「はい」
『これ、買う前にもらった資料と同じですね』
「同じではないです」
恒一は言った。
「今は佐伯さんの馬です。だから、こちらが売るために見せる資料ではありません。佐伯さんと育成先が判断するための確認項目です」
『……そうですね』
電話の向こうの声が、少しだけ柔らかくなった。
三浦が赤鉛筆を持ったまま、紙の端を叩いた。
「でも、売る前の紙が使えるなら、それは現場の武器になる」
佐伯が黙った。
三浦は続けた。
「売るためだけに綺麗な言葉を並べた紙なら、今ごろ邪魔になる。だが、歩きと食いと癖を書いてあるなら、育成先でも使える。そういう紙なら持って行け」
美緒が、わずかに目を伏せた。
アオバノミチの売却時資料を作った時、美緒は何度も紙を直した。見映えをよくするためではない。買った後に困らないようにするためだった。
その紙が、売った後に戻ってきている。
直接の売上ではない。
美緒が小さく言った。
「これ、相談料って取れないですよね」
三浦が美緒を見る。
「俺の確認料は取れ」
「それは払います」
「ならいい」
美緒は少し困った顔をした。
「よくはないです。榊原ファームの時間は使ってます」
恒一は、その言葉を否定しなかった。
机の上には、シラユキノハナの水桶確認表もある。次の確認時刻に、美緒が青い丸をつけていた。厩舎へ行く人間、記録する人間、電話を受ける人間。全部同じ牧場の時間だ。
「今回は取らない」
恒一は言った。
美緒が顔を上げる。
「今後、売却後の相談対応を全部ただで受けるわけじゃない。けど、今回は売った時に渡した記録の読み方だ。そこまでは、うちの責任で返す」
「責任」
「売った馬を、売った瞬間に紙ごと捨てる牧場にはしたくない」
美緒は反論しかけて、やめた。
その代わり、支払い予定表の端に小さく書いた。
売却後対応。時間記録。
「時間は残す」
「それでいい」
佐伯が電話の向こうで言った。
『無償で当然とは思っていません。今後、継続して相談するなら、きちんと条件を決めさせてください』
美緒の表情が少しだけ変わった。
恒一は答えた。
「ありがとうございます。今回は、確認項目だけ送ります。調教の強度や進め方は、育成先と佐伯さんで決めてください」
『分かりました』
「その代わり、記録は残してください。食い、水、歩き出し、脚元の戻り、放牧入口、他馬との距離。できれば同じ時刻で」
『榊原さん』
「はい」
『アオバノミチを買って良かったと思っています』
その言葉が、事務所の中へ静かに入ってきた。
美緒の鉛筆が止まる。
三浦は何も言わない。
恒一は窓の外を見た。
厩舎の方で、シラユキノハナの馬房前に貼られた紙が見える。水桶の線はまだ増え続けている。一歳牡馬の管理表も、今日から新しい欄が増えた。
「ありがとうございます」
恒一は言った。
「アオバノミチの今の状態を見ているのは、佐伯さんたちです。だから、迷った時は、今の馬を見て決めてください。うちの紙は、その助けにしてください」
『はい』
電話が切れた。
事務所には、プリンターの熱の匂いと、赤鉛筆の削れた粉が残っていた。
三浦が椅子から立った。
「変なことを言わなかったな」
「褒めてますか」
「余計なことを言わなかったと言ってる」
「それは、褒めてますか」
三浦は返事をしなかった。
美緒が、佐伯へ送る確認項目の紙を整えた。
水桶確認表。
一歳牡馬の通路馴致表。
アオバノミチの確認項目。
支払い予定表。
紙が増えるほど、牧場の仕事は増える。
だが、紙がなければ、信用は形にならない。
美緒はアオバノミチの確認項目の上に、細い付箋を貼った。
売却後対応。初回。無償。時間記録あり。
恒一はそれを見て、何も言わなかった。
言えば、美緒はたぶん怒る。
言わなくても、美緒が牧場の時間を守ろうとしているのは分かった。
厩舎から、金属が鳴る音がした。
水桶かもしれない。
恒一が立ち上がる前に、美緒が時計を見た。
「シラユキノハナ、確認時刻」
「行く」
「兄さんは佐伯さんへの文面。私が先に見る」
「一人で?」
「見るだけ。触らない。水位と乾草だけ」
三浦が帽子を取った。
「俺も行く。ついでだ」
美緒は少しだけ口を尖らせた。
「ついでが多いですね」
「馬がいる場所へ行く理由なんか、ついででいい」
三浦はそう言って、事務所を出た。
恒一は佐伯へ送る確認項目を見直した。
断定はしない。
今の馬を見ている人に委ねる。
それでも、売る前に残した紙で助ける。
それが、売った後の育成線だった。
文面を打ち終えた時、携帯がもう一度震えた。
佐伯ではない。
黒峰だった。
画面に、短い文が表示されている。
『例のリスト、下の方まで見ましたか。来春以降の話です。今すぐ種付けしろと言っているわけではありません』
恒一は、裏返した黒峰の紙を見た。
机の中央には、アオバノミチの確認項目がある。
その横には、一歳牡馬の管理表。
窓の外では、美緒と三浦がシラユキノハナの馬房へ向かっている。
売った馬の紙が、戻ってきた。
残した馬の紙が、増えていく。
その先に、まだ選んでいない配合の紙がある。
黒峰の文面は、急げとは言っていない。
だが、待ってもくれない文だった。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A+
- 牧場再建度:53%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低下
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:注意信号継続
- 自家保留育成費:圧迫継続
- 売却後対応信用:上昇
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:母体管理継続/水桶確認継続/環境固定
- シラユキノハナ一歳牡馬:通路馴致継続/北斗移動は再確認後
- アオバノミチ:確認項目共有/売却後対応信用上昇
- 黒峰:配合方針確認要求再提示/リスト下位候補への誘導
- 次の勝負:黒峰が置いた配合リストを、どこまで読むか




