第97話 黒峰が置いた試験紙
黒峰から届いた文面は、短かった。
『例のリスト、下の方まで見ましたか。来春以降の話です。今すぐ種付けしろと言っているわけではありません』
恒一は、携帯を机に置いた。
急げとは書いていない。
だが、読めとは書いてある。
事務所の窓の外では、美緒と三浦が厩舎へ向かっていた。シラユキノハナの確認時刻だ。水桶の線、乾草の減り、馬房の湿り具合。今夜見るべきものは、配合表ではなく、馬房の中にある。
それでも、机の端で裏返しになっていた黒峰の紙は、そこに置かれたまま重かった。
恒一は表に返した。
種牡馬候補リスト。
上位には、見慣れた名前が並んでいる。市場で映える血。セリ名簿に載った瞬間、馬主や代理人が足を止める名前。銀行にも説明しやすく、買い手にも通じやすい。
紙の下へ目を落とす。
そこには、派手ではない名前があった。
種付け料は、上位候補より低い。過去産駒の平均価格も高くない。重賞実績の見映えも弱い。だが、シラユキノハナの母系と重ねると、視界の奥で別の線が浮かぶ。
恒一は、血統表を隣へ置いた。
そのさらに横には、玲奈の追加確認予定と、美緒の水桶作業表がある。
来春以降の配合を考える紙の隣に、今夜の母馬を守る紙がある。
その並びが、やけに正しかった。
美緒が厩舎から戻ってきたのは、それから数分後だった。手には管理表がある。三浦は外で一歳牡馬の通路を見ているらしい。
「水、少しだけ減ってる。乾草も、昼よりは進んでる」
「シラユキノハナは」
「耳はこっちに向けたけど、騒いではない。触ってないよ」
「ありがとう」
美緒は返事の代わりに、机の上を見た。
黒峰のリストが表になっていることに気づき、口元を引き締める。
「見たんだ」
「下の方まで見ろって来た」
「嫌な言い方」
「嫌なほどではない」
「じゃあ、上手い言い方」
美緒は椅子に座り、支払い予定表を自分の方へ引き寄せた。赤鉛筆を手に取る。先が丸くなっていたので、爪で軽く削るようにしてから紙に向けた。
「上の候補、悪くないよね」
「ああ」
「銀行にも説明しやすい。セリでも名前を出しやすい。買い手も分かりやすい。うちは、それを笑える余裕はない」
その言い方に、恒一は何も返せなかった。
美緒は市場評価の欄に赤線を引いた。
「高い血だから駄目、って話じゃない。売れる馬を作るのは、牧場を続けるためには必要だよ」
「分かってる」
「分かってる顔、あんまりしてない」
「してる」
「してない」
美緒はそう言ってから、下位候補の名前へ目を移した。
「こっちは、売る時に説明が要るね」
「かなり要る」
「セリ名簿だけで足を止めてもらえる馬じゃない」
「たぶん」
「でも、兄さんはこっちを見てる」
恒一は血統表の端を指で押さえた。
リスト上位の候補を見た時、表示は分かりやすかった。
【市場評価:A】
【馬体映え:A】
【配合相性:B-】
【母系補強:C】
【短期説明力:高】
売れる。
少なくとも、説明しやすい。
榊原ファームのような小さな牧場にとって、それは軽い価値ではない。名簿を見た人間が足を止める。銀行に資金計画を出す時、言葉が詰まりにくい。美緒の赤線も、少しだけ減る。
次に、下位の候補へ目を落とす。
【市場評価:C】
【配合相性:A-】
【心肺伝達:A】
【成長力補完:A】
【売却即効性:低】
【母系継続価値:高】
売れにくい。
しかし、血は残る。
シラユキノハナの母系を、ただ名簿の見映えで上塗りするのではなく、先へ伸ばす線が見える。
ただし、その表示の前には、もっと大きな条件がある。
シラユキノハナが無事に産むこと。
母体が戻ること。
来春以降に、もう一度配合を考えられる状態でいること。
今夜の水桶を見ないまま、来春の話だけを進めるわけにはいかない。
恒一は携帯を手に取った。
「黒峰さんに電話する」
美緒の赤鉛筆が止まる。
「今?」
「今」
「答えを出すの?」
「答えじゃない」
「じゃあ、何を聞くの」
恒一は、黒峰のリストを見た。
「なぜ、この並びで送ってきたのか」
美緒はしばらく黙っていた。
それから、帳簿の余白に細い線を二本引いた。
「聞いて。逃げたと思われるのは嫌だけど、分かったふりで選ばれる方がもっと嫌」
恒一は頷いた。
黒峰への電話は、すぐにつながった。
『下まで見ましたか』
挨拶より先に、黒峰が言った。
「見ました」
『上だけ見て返事をされるかと思いました』
「上だけなら、返事は楽でした」
『楽な返事が悪いわけではありません』
黒峰の声は、相変わらず落ち着いていた。
『市場に映える血を選ぶのは、逃げではありません。牧場を潰さないための選択です。榊原さんの規模なら、なおさらです』
恒一は否定しなかった。
否定できない。
美緒は帳簿の余白で、上位候補の種付け料と、想定売却価格の横に小さく丸をつけていた。良い意味の丸ではない。説明可能、という丸だ。
「分かっています」
『分かっているなら、上位候補でもいいはずです』
「はい」
『それでも、下が気になりますか』
恒一は血統表を見た。
シラユキノハナの名前。
その母。
さらに奥へ続く牝系の細い線。
大きな牧場なら、もっと強い血で覆える。名前の大きさで押せる。だが、榊原ファームがそれをやれば、残したかったものまで薄くなる可能性がある。
「気になります」
黒峰は少し黙った。
『なぜです』
「市場評価は低い。即効性もない。でも、シラユキノハナの母系を伸ばすなら、下の候補の方が合う」
『見立ての話ですか』
恒一の指が、血統表の端を押さえた。
「血統表の話です。歩きと、これまで見てきた産駒の癖の話でもあります」
『便利な言い方ですね』
「便利ではないです。金になりにくいので」
電話の向こうで、わずかに息が漏れた。
笑ったのかもしれない。
『そうです。金になりにくい。そこを見落としていないなら、話はできます』
美緒がこちらを見た。
黒峰の声は、少しだけ硬さを変えた。
『上位候補は、悪くありません。むしろ現実的です。見映えもある。買い手も説明を聞く前から理解しやすい。銀行への資料にも載せやすいでしょう』
「はい」
『ただ、シラユキノハナの母系を伸ばすという点では、下の候補に劣る。心肺と成長力の補完も弱い。産まれた仔が売れたとしても、榊原ファームの血として残るかは別です』
恒一は何も言わなかった。
電話の向こうの黒峰は、こちらの沈黙を待っている。
リストは親切ではない。
試験紙だ。
どの候補を選ぶかではなく、何を見て、何を諦めるかを測っている。
「黒峰さん」
『はい』
「このリストは、うちに何を選ばせるためのものですか」
『選ばせる?』
「上か下かを聞いているだけなら、もっと簡単な送り方があるはずです。市場評価の高い順に並べて、これが無難です、と言えばいい」
美緒の鉛筆が止まった。
恒一は続けた。
「でも、下に置いた候補は、無視できない。見ないふりをすれば楽ですが、見れば迷う。そういう位置にあります」
黒峰はすぐに答えなかった。
窓の外で、三浦の声がした。
「止めろ、そこでいい」
一歳牡馬の通路馴致だろう。
母馬房側で金属音が鳴る。水桶か、扉の金具か。少し遅れて、若馬の蹄が通路を踏む音がした。
恒一は電話を持ったまま立ち上がった。
美緒が目で問いかける。
「水桶を見てくる」
「今?」
「今」
黒峰に聞こえたらしい。
『どうぞ。待っています』
恒一は携帯を耳に当てたまま、厩舎へ向かった。
シラユキノハナは馬房の奥で乾草を噛んでいた。水桶の青い線を確認する。前回の線から、わずかに下がっている。
急な回復ではない。
だが、止まってはいない。
美緒の管理表に、確認時刻と水位を書き込む。三浦は通路の向こうで、一歳牡馬を馬房へ戻していた。
「電話しながら水桶を見るな」
三浦が言った。
「すみません」
「見るなら見る。話すなら話す」
恒一は携帯を少し離し、シラユキノハナを見た。
母馬は乾草を噛みながら、耳だけをこちらへ向けた。腹は静かだ。人の事情など知らない顔で、ゆっくりと口を動かしている。
「黒峰さん」
『はい』
「今腹の仔を無事に産ませることが先です」
『当然です』
「シラユキノハナの母体が戻らなければ、来春以降の配合はありません」
『それも当然です』
「だから、今は正式には決めません」
黒峰は黙った。
恒一は続けた。
「ただ、下の候補を見なかったことにはしません。上位候補が現実的だということも、下の候補が母系を伸ばすということも、どちらも紙に残します」
『紙に残す』
「うちの判断材料としてです。今夜の水桶の横に、来春の配合候補を置きます。順番を間違えないように」
電話の向こうで、黒峰が小さく息を吐いた。
『いい答えですね、と言うほど甘くはありません』
「はい」
『ですが、悪い答えでもない』
恒一は、シラユキノハナの水桶から目を離さなかった。
『市場評価Aを選ぶことは、逃げではありません。そこは忘れないでください』
「忘れません」
『下の候補を選ぶなら、もっと忘れてはいけないことがあります』
恒一は黙って聞いた。
『売れない一年を抱える覚悟が要りますよ。もちろん、シラユキノハナが無事に次へ進めるなら、ですが』
電話は切れた。
恒一はしばらく、水桶の前に立っていた。
青い線は、前回よりほんの少しだけ下がっている。
その少しを、飛ばしてはいけない。
手の中の携帯は、もう何も言わなかった。だが、黒峰の言葉だけが、馬房の湿った空気の中に残っている。
売れない一年。
美緒が厩舎へ入ってきた。手には黒峰のリストと血統表がある。事務所から持ってきたらしい。
「何て?」
恒一は、水桶から目を離さずに答えた。
「下の候補を選ぶなら、売れない一年を抱える覚悟が要るって」
美緒の足が止まった。
血統表の紙が、胸の前で少しだけ曲がる。
シラユキノハナは乾草を噛んでいる。
水桶の青い線は、まだ一つも消えていない。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:A-
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A+
- 牧場再建度:54%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低下
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:注意信号継続
- 自家保留育成費:圧迫継続
- 配合方針:検討深化
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:母体管理継続/飲水微増/環境固定
- シラユキノハナ一歳牡馬:通路馴致継続/急がせない方針
- 黒峰リスト:市場評価A候補/市場評価C候補を比較継続
- 次の勝負:売れない一年を、帳簿に落とせるか




