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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第95話 母の音から離す一歩

「……こいつ、耳だけ母馬房の方へ残してるな」


 三浦の声は低かった。


 叱っているわけではない。褒めてもいない。馬房の前に立ち、ただ見たものを置いたような声だった。


 一歳牡馬は、三浦を見ている。


 鼻先は入口へ向いている。目も、人を避けてはいない。けれど、耳の片方だけが、通路の奥へ流れていた。


 シラユキノハナの馬房がある方だ。


 その奥で、水桶が小さく鳴った。


 一歳牡馬の首が、すっと高くなる。


 逃げようとはしない。


 ただ、意識がそちらへ持っていかれる。三浦の前に立っている体と、母馬房側へ残っている耳。そのずれが、通路の冷えた空気の中で妙にはっきり見えた。


 三浦はすぐに近づかなかった。


 馬房の入口に手をかけたまま、足の置き方を見ている。前脚の開き方、後肢の踏み替え、首の高さ。何もしていないようで、目だけが忙しい。


「怖がってるわけじゃない」


 恒一が言うと、三浦は頷きもしなかった。


「怖がってないから、面倒なんだ」


 美緒が管理表を胸に抱えたまま、少し眉を寄せた。


「怖がってない方が、いいんじゃないですか」


「いい。ただ、怖がってないのに頭がこっちへ来てない。こっちを見る余裕はある。でも残ってる。そういう馬は、動かすと途中で切れる」


「切れる?」


「集中が」


 三浦は短く答え、馬房の扉を半分だけ開けた。


 一歳牡馬は一歩引かなかった。


 目は三浦を見る。鼻先も近づく。だが、母馬房側でシラユキノハナが乾草を噛む音がした瞬間、耳がまた流れた。


 三浦はそこで手を止めた。


「今、入ったら、こいつは俺を見る。でも音が鳴ったら、俺を置いていく」


 恒一はその言葉を聞きながら、表示を見た。


【心肺:A】

【成長力:A】

【精神成熟:C+】

【環境変化耐性:C】

【育成推奨:短時間分離環境/通路馴致/輸送練習は段階後】


 心肺はいい。


 成長力もある。


 その二つだけ見れば、進めたくなる。北斗へ出して、環境を変えて、育成のレールに乗せる。外から見れば、そちらの方が分かりやすい。


 だが、表示の下にある二つが、通路の一歩を重くしていた。


 精神成熟。

 環境変化耐性。


 数字ではなく、耳が先に答えを出している。


 三浦が扉を開けたまま、恒一を見た。


「出すか」


「出します」


「引くなよ」


「分かってます」


「分かってる顔をするやつほど引く」


 美緒が小さく息を漏らした。


 恒一は無口と曳き綱を取った。


 一歳牡馬は無口を嫌がらなかった。首を上げるが、暴れない。恒一の指の動きを見ている。革の匂いを嗅ぎ、鼻を鳴らし、口を少し動かす。


「出るぞ」


 恒一は綱を短く持ちすぎないようにした。


 馬房から一歩。


 蹄が通路の床に乗る。


 二歩目。


 肩の出方は柔らかい。馬体は十分にある。背中も悪くない。若さはあるが、力の使い方そのものは汚くない。


 そこで、母馬房側から水桶の音がした。


 首が上がる。


 前脚が止まる。


 美緒の手が、管理表の端を握った。


 恒一は綱を引かなかった。


 三浦が横から低く言う。


「今は待て」


 一歳牡馬の鼻が、母馬房側へ向く。


 シラユキノハナの馬房から、乾草を噛む音が続く。母馬は仔を呼んでいない。ただ、自分の馬房で乾草を食べているだけだ。それでも、一歳牡馬の中では、その音がまだ強い。


 恒一は声を落とした。


「急がなくていい」


 一歳牡馬は耳を動かした。


 片方は母馬房側。片方は恒一。


 そこから、ゆっくりと鼻先が戻る。


 三浦が短く言った。


「今」


 恒一は一歩だけ進ませた。


 一歳牡馬は歩いた。


 たった一歩。


 けれど、その一歩は、引いて作ったものではなかった。


 自分で戻って、自分で出た一歩だった。


 美緒が管理表に何か書いた。


 三浦はそれを横目で見た。


「何を書いた」


「水桶音で停止。声かけ後、自発的に一歩」


「時間も入れろ」


「はい」


 美緒はすぐに時計を見た。


 恒一は一歳牡馬を通路の中央まで連れていった。母馬房からは十数メートルしか離れていない。だが、馬にとっては距離だけではない。音の届き方、匂いの薄さ、人の位置、その全部が変わる。


 一歳牡馬の首は高い。


 だが、鼻息は荒くない。


 三浦は通路の壁を指で叩いた。


 軽い音が鳴る。


 一歳牡馬の耳が動く。


 体は跳ねない。


「音は聞く」


 三浦が言った。


「でも、体は飛ばない」


 恒一が答える。


「飛ばないからって、詰めるな。頭の中は忙しい」


 通路の奥で、放牧地へ続く扉の金具が風に鳴った。


 乾いた、薄い音だった。


 一歳牡馬の耳がそちらへ動く。首も少しだけ伸びる。外へ出たいというより、母馬房の音とは違うものを確かめようとしている動きだった。


 三浦は扉の方を見て、首を振った。


「今日は外まで出さない」


「扉の音は聞かせますか」


 恒一が聞いた。


「聞かせるだけだ。扉を開けるな。外の匂いまで入れたら、情報が増えすぎる」


 美緒が管理表に書き足した。


 放牧地扉音、反応あり。外出しなし。


 三浦は今度、通路の奥を顎で示した。


「母馬房から見えない角まで行くな。今日はここまででいい」


「ここまで?」


 美緒が思わず聞いた。


 三浦は美緒を見ない。


「欲を出したら壊す」


 通路の空気が少しだけ固くなった。


 恒一は一歳牡馬の首筋を見た。汗はない。筋肉も硬くなりきっていない。まだ進めそうに見える。


 だから、危ない。


 心肺がある馬は、身体だけなら先へ行ける。頭が追いついていなくても、体は動く。そのまま進ませれば、あとで反動が来る。


 三浦が低く言った。


「心肺があるなら、なおさら焦るな」


 恒一の手が止まった。


 三浦は恒一を見ていた。


「体がついてくる馬ほど、人間が勘違いする。行けると思う。馬の頭が追いついてないのに、脚だけ先に行かせる」


 恒一は返事をしなかった。


 表示を見ていたことを、言われた気がした。


 三浦は続ける。


「こいつは悪くない。むしろいい。だから、最初に変な覚え方をさせるな。母馬房の音が鳴ったら止まる。人が引いたら進む。そう覚えたら面倒になる」


「じゃあ、どうします」


「母の音が鳴っても、自分で戻るのを待つ。戻ったら一歩。今日はそれだけだ」


「それだけ」


「それだけを、毎回同じにやる」


 美緒が管理表を見た。


「毎回って、何回くらいですか」


「最初は一日二回。短く。通路に出す。音を聞かせる。戻ったら一歩。戻らなければ戻す。長くやるな」


「長くやった方が、慣れるわけじゃないんですね」


「疲れて諦めるのは、慣れたのとは違う」


 美緒の鉛筆が止まった。


 帳簿の赤線を見ている時と同じ顔だった。


 一歳牡馬が鼻を鳴らした。


 恒一の袖の匂いを嗅ぎ、少しだけ首を下げる。


 三浦が言った。


「戻せ」


 恒一は馬房へ戻した。


 帰り道、一歳牡馬は母馬房側を一度見た。だが、行きのように止まりきらない。耳は流れる。首も上がる。けれど、恒一の横へ戻るまでの間が、ほんの少しだけ短かった。


 馬房に入ると、一歳牡馬はすぐ乾草へ行かず、入口で恒一を見た。


「今日は終わりだ」


 恒一は首筋を撫でた。


「欲張らない。お前も、俺も」


 一歳牡馬は鼻を鳴らした。


 馬房の外で、美緒が管理表を見直していた。


「これ、進んだって言っていいの?」


「進んだ」


 三浦が言った。


 美緒は顔を上げた。


「一歩だけでも?」


「一歩だけだから進んだんだ」


 その返事に、美緒はすぐに書き足せなかった。


 たぶん、数字の欄に置きにくい進捗だった。


 恒一は一歳牡馬の馬房から離れ、シラユキノハナの方を見た。


 シラユキノハナは乾草を噛んでいた。耳だけが、こちらへ向いている。仔を呼ぶわけではない。騒ぐわけでもない。


 母馬もまた、音を聞いている。


 玲奈の言う環境固定は、母馬のための管理だった。だが、その静かな管理の中で、一歳牡馬の馴致も始まろうとしている。


 同じ厩舎にいる以上、どちらかだけを切り離せるわけではない。


 三浦がシラユキノハナの馬房をちらりと見た。


「母馬の方も、耳は残ってるな」


「はい」


「仔離れしてないって話じゃない。音の道が太いんだ」


「音の道」


「目で見えなくても、耳と匂いでつながってる。そこを急に切ると、こいつはたぶん崩れる。母の方にも余計な反応が出る」


 美緒が小さく息を吸った。


「じゃあ、母馬房から離した方がいいのに、離しすぎても駄目」


「そういうことだ」


「難しいですね」


「難しくない馬は、だいたい高い」


 三浦の言い方はいつも通りだった。


 それでも、美緒は少しだけ笑った。


 事務所に戻ると、机の上には支払い予定表と黒峰の紙が残っていた。


 美緒は管理表を新しく書き直す。


 短時間分離。

 通路馴致。

 母馬房側音確認。

 放牧地扉音確認。

 外出しは次段階。

 戻ったら一歩。

 長くやらない。


 最後の行で、美緒の鉛筆が止まる。


「“長くやらない”って、育成メニューに書くと変ですね」


「一番大事だ」


 三浦が言った。


「人間は長くやった方が仕事した気になる」


 恒一は管理表の一行を見た。


 長くやらない。


 短い字の方が、今の馬房には重かった。


 美緒はその行を消さず、横に小さく線を引いた。


 三浦はそれを見て、ようやく椅子に座った。


「北斗へ出すのは、まだだ」


 恒一は頷いた。


「再確認してからですね」


「俺がもう一回見る。短時間分離を何日かやって、母馬房側の音で止まる時間が短くなるかを見る。それからだ」


「輸送練習は」


「まだ早い。車の前に、通路だ」


 美緒が支払い予定表へ線を引いた。


「三浦さん、今日の確認料と、次の再確認分。先に条件を決めさせてください」


 三浦は美緒を見た。


「安くしろって話か」


「違います。払える日と金額を先に言う話です」


 三浦は少しだけ眉を動かした。


「言い方は覚えたな」


「怒られましたから」


「誰に」


 美緒は恒一を見た。


「兄さんに、ではないです」


 三浦はそれ以上聞かなかった。


 恒一は、黒峰の裏返した紙を見た。


 配合方針の返答。


 今はまだ返せない。


 だが、今日一歩だけ進めた馬の管理表は、返答よりも先に机の中央へ置かれていた。


 その時、携帯が震えた。


 黒峰ではない。


 佐伯だった。


 恒一は画面を開いた。


『アオバノミチの件で、三浦さんにも一度話を聞けませんか。売った後の育成記録の読み方について、確認したいです』


 美緒が画面を見て、息を止めた。


 三浦は支払い予定表から顔を上げる。


「今度は何だ」


 恒一は携帯を伏せなかった。


 黒峰の紙。

 一歳牡馬の管理表。

 佐伯からの相談。


 残した馬の育成線と、売った馬の育成線が、同じ机の上で重なり始めていた。


---


榊原恒一の現状


- 牧場経営力:A-

- 配合読解:B+

- 繁殖観察:A

- 若駒評価:A

- 現場判断:A

- 資金繰り判断:A

- 交渉・信頼:A

- 牧場再建度:52%


榊原ファーム経営状況


- 現金余力:低下

- 資金繰り危険度:高

- 繁殖牝馬群期待値:注意信号継続

- 自家保留育成費:圧迫

- 牧場ブランド:B+

- 倒産危険度:高


補助表示


- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意中〜高/環境固定継続

- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先

- シラユキノハナ一歳牡馬:心肺A/成長力A/精神成熟C+/環境変化耐性C/短時間分離開始

- 一歳牡馬育成方針:通路馴致/母馬房側音確認/放牧地扉音確認/外出しは次段階/戻ったら一歩/輸送練習は段階後

- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続

- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中

- アオバノミチ:佐伯側相談継続/三浦への確認要望発生

- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留

- 黒峰:配合方針確認要求継続/返答保留

- 三浦:段階的馴致メニュー提示/再確認予定

- 次の勝負:売った後の育成線を、どう信用に変えるか

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