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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第94話 先に払う命

 シラユキノハナの馬房の前に、新しい紙が貼られた。


 接触者固定。

 見学停止。

 飼料変更なし。

 水桶交換なし。

 記録時刻厳守。


 美緒の字だった。


 紙の右下には、小さく日付が入っている。貼ったばかりの紙なのに、すでに厩舎の湿気を吸って、端がわずかに丸まっていた。


 水桶には青いテープが増えていた。


 昨日の夜。

 今朝六時。

 九時二十分。

 昼前。


 線の間隔は狭い。けれど、誰が見ても同じ水位を読めるように、同じ幅のテープで貼られている。


 三浦に言われた通りだった。


 シラユキノハナは乾草に口をつけていた。


 噛む音は、昨日より少しだけ長い。だが、いつものように迷いなく食べているわけではない。時折、口を止めて、耳だけを通路へ向ける。腹を強く気にする動きはない。水桶にも、短く鼻を寄せる。


 戻った、と言うには早い。


 でも、昨夜よりは、紙に残せる変化がある。


 恒一は馬房の外から、その様子を見ていた。


【受胎状態:継続】

【管理注意:中〜高】

【食欲:回復傾向】

【推奨:環境固定】


 管理注意は、少しだけ下がった。


 少しだけ。


 その言葉に、油断してはいけない。


 玲奈は馬房の前で手袋を外した。いつもよりゆっくり外す。急いで終わらせる診察ではなく、診た後の言葉を選んでいる時の動きだった。


「急変の兆候は、今のところありません」


 美緒の肩が下がる。


 玲奈は、その下がった肩を見てから続けた。


「ただ、管理を緩めるには早いです。食欲は戻りかけていますが、戻ったわけではありません。飲水も、まだ通常量ではない。今日明日で接触を増やすのは避けてください」


「明日も、このままですか」


 恒一が聞いた。


「はい。環境を固定したまま、もう少し見たいです」


 玲奈は馬房の紙を見た。


「この管理表は続けてください。水位の線も、このままで。変えないことが、今は一番の管理です」


 美緒が管理表の端を押さえた。


「診る回数を減らせば、紙の上では安くなりますよね」


 その声は、玲奈を責めてはいなかった。


 ただ、帳簿の線を知っている声だった。


 玲奈は少しだけ目を伏せた。


「安くなるのは、請求書だけです」


 厩舎の通路に、乾草を噛む音が落ちる。


「今この子を見る回数を減らせば、見逃す変化が増えます。何も起きなければ、結果として高く見えるかもしれません。でも、何かが起きた時に遅れたら、その時に払うのは診察費だけでは済みません」


 美緒は何も言わなかった。


 帳簿ではなく、馬房の床を見ている。


 恒一はシラユキノハナを見た。


 高齢の繁殖牝馬。

 腹の中には、まだ見えていない命がある。

 その命を守る金は、売上には変わっていない。請求書だけが先に来る。


 それでも、ここを削れば、牧場は牧場でなくなる。


「払います」


 恒一は言った。


 玲奈がこちらを見る。


「今日と明日の追加確認分は確保します。必要なら、その次も相談します。だから、見るべき時は言ってください」


 美緒が息を吸った。


 止めるためではない。


 数字を組み直すための息だった。


「じゃあ、他を削る」


「削る」


「どこから」


「一歳牡馬の本格預託は、今は始めない」


 美緒の指が、管理表の紙の端を強く押した。


「でも、止めないんだよね」


 恒一は、少し離れた一歳牡馬の馬房を見た。


「三浦さんの出張確認は残す」


「最低限の馴致も」


「必要な分だけ始める」


 玲奈は口を挟まなかった。


 獣医としての範囲を越えない。ただ、シラユキノハナの馬房と、少し離れた一歳牡馬の馬房を見比べていた。


「どちらも後回しにはできないんですね」


 玲奈が静かに言った。


「はい」


 恒一は答えた。


「でも、同じ払い方はできません」


 その言葉を口にすると、腹の奥に冷たいものが落ちた。


 命を守る金。

 未来を育てる金。


 どちらも必要だ。


 だが、今日先に払う順番は、一つしかない。


 事務所に戻ると、美緒は古いノートパソコンを開いた。画面の端に、銀行の振込予約ページが映る。


 天城動物診療所。

 追加確認分。

 振込予定日、明日。


 美緒は金額を打ち込み、確認画面で指を止めた。


「これを入れると、三浦さんへの出張費と確認料は払える。でも、北斗の初期預託金は無理」


 恒一は画面を見た。


「今月中に本格預託へ切り替えるのも、ほぼ無理」


 美緒は続ける。


「桐生さんの支払いを一回延ばしても、余白はこれだけ」


 手元の支払い予定表には、赤鉛筆で小さな四角が囲まれている。


 余白。


 その言葉の中に、牧場で働く人の時間も、馬の餌も、予備の治療費も、全部入っている。


 恒一は支払い予定表を見た。


 数字は嘘をつかない。


 けれど、数字は馬房の匂いも、乾草を噛む音も、母馬房側へ耳を向ける若馬の迷いも書いてくれない。


「ここを残す」


 恒一は、玲奈の追加確認の欄に指を置いた。


 美緒は振込予約の確認ボタンを押した。


 画面に、予約完了の文字が出る。


 その下に、美緒が赤い付箋を貼った。


 玲奈さん追加確認分、先払い。


 字は小さいが、強く押されていた。


「こっちも、線は切らない」


 恒一は、三浦の出張確認の欄へ指を移した。


「切らないけど、太くもしない。今できる線だけ引く」


 美緒は電卓を置いた。


「兄さん、それ言葉だと綺麗だけど、紙にすると厳しいよ」


「知ってる」


「本格預託を止めると、育成は遅れる」


 恒一は北斗の初期預託金についた保留の丸を、指先でなぞった。


「北斗の通常枠、後ろにずれるかもしれない」


 丸の線が、少し濃くなる。


「三浦さんが見て、まだ早いって言ったら、もっと遅れる」


「それでもいい」


 美緒は眉を寄せた。


「よくないでしょ」


「よくはない」


 恒一は支払い予定表の隅に、短く書いた。


 先に払う。


 その下に、もう一行書く。


 止めない。


「シラユキノハナは、今削れない。一歳牡馬も、止めきれない。だから、払い方を変える」


 美緒はその二行を見た。


「それ、私が毎月見る紙に書くの、ずるいね」


「消してもいい」


「消さない」


 美緒は赤鉛筆で、北斗の初期預託金に保留の丸をつけ直した。次に、三浦出張確認の欄へ細い線を引く。


「こっちは通す」


 恒一は頷いた。


「ただし、三浦さんが追加で必要って言ったら、また組み直し」


「その時は、その時に頭を下げる」


「兄さんの頭、最近安くなってるね」


「安くても、下げる場所は選ぶ」


 美緒は少しだけ笑いそうになり、すぐにやめた。


 机の端には、黒峰の配合方針確認が裏返しのまま置かれている。


 今、返せば早い。


 返さなければ、遅れる。


 だが、その紙を表にする前に、外で車の音がした。


 砂利を踏む音が、事務所の窓まで届く。軽トラックではない。聞き慣れた低いエンジン音だった。


 三浦だ。


 到着予定より少し早い。


 美緒が管理表を持って立ち上がった。


「早い」


「馬を見る人間は、だいたい早い」


「兄さんも?」


「俺は、早く行っても迷惑がられる側だ」


「分かってるなら、直して」


 そのやり取りの途中で、三浦が事務所の戸を開けた。


 帽子を脱がない。挨拶も短い。


「馬は」


「厩舎です」


 恒一が答える。


 三浦は机の上の紙を一瞥した。玲奈の振込予約メモ、支払い予定表、北斗の見積もり、裏返された黒峰の紙。


「金の話は後でいい。先に馬を見る」


 美緒が管理表を差し出した。


「シラユキノハナの状態です。水位、食い、後肢体重移動、接触者、全部入れてます」


 三浦は紙を受け取った。


 歩きながら読む。


 読み終わっても、褒めない。


「線が揃ってるな」


「はい」


「なら読める」


 それだけ言って、厩舎へ向かった。


 シラユキノハナの馬房の前で、三浦は足を止めた。


 馬房には入らない。


 水桶の目印を見て、乾草の減りを見て、寝藁の乱れを見た。次に、シラユキノハナの耳を見る。耳は恒一たちの方を一度向き、それから乾草へ戻った。


「昨日よりは食ってる」


「はい」


 玲奈はすでに帰っていたが、管理表の字が残っている。三浦はその字と馬房の中を見比べた。


「触りすぎてないのはいい」


 美緒が少しだけ息を吐いた。


 三浦は一歳牡馬の馬房へ向かった。


 恒一はその後ろを歩く。


 これが本番だった。


 出張確認だけで済むのか。

 最低限の馴致を始められるのか。

 それとも、今はまだ見るだけで終わるのか。


 一歳牡馬は、三浦が近づく前に首を上げた。


 人を怖がってはいない。


 ただ、初めての人間を見る目をしている。鼻を伸ばすほど近くはない。逃げるほど遠くもない。耳が三浦へ向き、次に、シラユキノハナの馬房側へ一瞬だけ戻った。


 三浦はそこで止まった。


 すぐには近づかない。


 馬房の前に立ち、黙って見た。


 恒一の視界に表示が浮かぶ。


【馴致適期:接近】

【過負荷リスク:中】

【推奨:軽負荷開始】


 馴致適期は近い。


 ただし、押しすぎれば崩れる。


 紙の上なら、今日から軽負荷開始と書ける。けれど、目の前の一歳牡馬は、耳だけを母馬房側へ残している。


 三浦は馬の首の高さを見た。


 足の置き方を見た。


 馬房の奥から入口までの距離を見た。


 それから、何か言いかけた。


 口が少し開く。


 だが、言葉は出なかった。


 三浦は一度、奥歯を噛むように口を閉じた。


 恒一は待った。


 美緒も、管理表を胸の前で抱えたまま動かない。


 一歳牡馬の耳が、三浦へ戻る。


 そしてまた、母馬房側へ流れる。


 三浦が低く言った。


「……こいつ、耳だけ母馬房の方へ残してるな」


---


榊原恒一の現状


- 牧場経営力:A-

- 配合読解:B+

- 繁殖観察:A

- 若駒評価:A

- 現場判断:A

- 資金繰り判断:A

- 交渉・信頼:A

- 牧場再建度:51%


榊原ファーム経営状況


- 現金余力:低下

- 資金繰り危険度:高

- 繁殖牝馬群期待値:注意信号継続

- 自家保留育成費:圧迫

- 牧場ブランド:B+

- 倒産危険度:高


補助表示


- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意中〜高/食欲回復傾向/環境固定継続

- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先

- シラユキノハナ一歳牡馬:馴致適期接近/過負荷リスク中/軽負荷開始推奨

- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続

- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中

- アオバノミチ:佐伯側相談継続/来場延期

- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留

- 黒峰:配合方針確認要求継続/返答保留

- 三浦:出張確認開始/一歳牡馬の反応を確認

- 次の勝負:母馬房の音から離す最初の一歩

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