第93話 削る紙、削れない馬
黒峰からの返信は、まだ携帯の中に残っていた。
『見学延期は承知しました。では、来春以降の配合方針だけでも聞いておきたいですね』
画面を閉じても、消えるわけではない。
恒一は携帯を伏せ、机の上の紙を見た。
玲奈の追加診察費の見込み。
飼料業者から届いた請求書。
北斗トレーニングファームの育成見積もり。
三枚とも、白い。
だが、並べると色が違って見えた。
玲奈の紙には、シラユキノハナの名がある。
飼料業者の紙には、牧場全体の量がある。
北斗の見積もりには、シラユキノハナの一歳牡馬の初期預託金がある。
どれも必要だった。
だから、悪かった。
「全部払うと、ここ」
美緒が帳簿の余白に赤鉛筆で線を引いた。
現金残高の欄の下、これ以上下げたくない線の、さらに下だった。
「ここまで落ちる」
恒一はその線を見た。
赤鉛筆の先が、紙の繊維を少し削っている。
「玲奈さんを減らす選択肢はない」
恒一は、玲奈の紙を机の端へ動かした。削らない側に置く。
「飼料も止められない」
飼料業者の請求書も、その隣へ移した。
美緒は北斗の見積書を指で押さえた。
紙が机に張りつくような音がした。
「じゃあ、残るのは、この子の育成開始を遅らせること」
恒一はすぐに答えなかった。
事務所の外では、風が乾草置き場のシートを揺らしている。厩舎からは、馬が床を踏み直す小さな音がした。
美緒は続けた。
「一か月遅らせたら、初期預託金は今月から外せる。最低限、玲奈さんの追加確認と寝藁と飼料分は守れる」
「一か月で済むか」
「分からない。でも、今月は越せる」
その言い方が、いちばん重かった。
今月は越せる。
来月は、まだ分からない。
恒一は北斗の見積書を手に取った。紙の端には、預託開始時の初期費用、馴致、環境確認、輸送、装蹄確認の項目が並んでいる。どれも削れば形だけは安くできる。けれど、その削った分は、馬のどこかに返ってくる。
「兄さん」
美緒の声が少しだけ低くなった。
「私、また待てって言ってる」
「美緒」
「兄さんが残すって言った馬に、私が待てって言う役ばっかりだね」
恒一は謝れなかった。
謝れば、美緒の仕事を責めることになる。謝らなければ、妹だけに現実を言わせていることになる。
美緒は帳簿を閉じなかった。
閉じれば終わる紙ではないからだ。
「責めてるんじゃないよ」
「分かってる」
「でも、言うの、嫌なんだよ」
恒一は北斗の見積書を裏返した。
空いた白い面に、鉛筆で短く書く。
止めない。
美緒がその字を見た。
「兄さんが残したい馬のこと、私も分かってる。でも、数字を見ると、待ってって言うしかない。私だけ、毎回ブレーキ踏んでるみたいになる」
赤鉛筆の芯が、ぽきりと折れた。
美緒はそれを見て、短く息を吐いた。
「紙は削れるのにね」
恒一は机の横に置いてあった古い封筒を見た。
父の代から残っている機材の一覧だ。使っていない草刈り機、予備の古い水桶、壊れかけた扇風機、鉄の棚。値段がつくものと、処分費がかかるものが混じっている。
削る紙はある。
けれど、馬は削れない。
「見に行く」
恒一は立ち上がった。
「どこに」
「一歳牡馬」
美緒は何も言わず、折れた赤鉛筆を拾った。
厩舎に入ると、シラユキノハナの馬房の前にはまだ管理表が掛かっていた。
水桶の青いテープ。
乾草の噛み残し。
糞の状態。
後肢体重移動。
欄は増えたままだ。
シラユキノハナは乾草に口をつけている。勢いは戻っていないが、朝よりは少し長く噛んでいた。玲奈からは、昼まで大きな悪化はないと連絡が入っている。それでも、接触固定と見学停止は続いていた。
その少し離れた馬房で、一歳牡馬が首を上げた。
まだ名前のない、シラユキノハナの仔。
もう母からは離れている。離乳も済んでいる。だが、母馬房側で水桶が鳴ると、耳がそちらへ向く。乾草の匂いが流れると、鼻を伸ばす。通路に出すと、最初の数歩はまっすぐ出るが、母馬房側で物音がすると、集中が切れる瞬間がある。
恒一は無口と曳き綱を持ち、馬房の前に立った。
「出るぞ」
一歳牡馬は耳を動かし、恒一の手元を見た。
逃げるわけではない。嫌がるわけでもない。ただ、こちらへ気持ちが来るまでに、半拍遅い。
恒一は急がせなかった。
無口をかけ、通路へ出す。
蹄が床を叩いた。まだ体を持て余すような若さがある。首は高い。目は悪くない。歩き出せば、肩の出方は柔らかく、息も深い。
いい馬だ。
その言葉が喉まで出て、恒一は飲み込んだ。
いい馬だから、急がせてはいけない。
母馬房の方で、シラユキノハナが水桶に鼻を当てた。小さく、金属が鳴る。
一歳牡馬の耳が、そちらへ飛んだ。
首が止まる。前脚も止まる。体は通路にあるのに、意識だけが母馬房へ戻っていく。
「急がなくていい」
恒一は綱を引かなかった。
少し待つ。
一歳牡馬は鼻を鳴らし、もう一度、恒一の方を見た。
そこから歩き出した。
視界に表示が浮かぶ。
【心肺:A】
【成長力:A】
【精神成熟:C+】
【環境変化耐性:C】
【推奨:急がせない馴致/段階的育成】
数字だけなら、出したくなる。
心肺も成長力も、いい。ここで育成へ移せば、形になるかもしれない。外の環境に慣れれば、もっと伸びるかもしれない。
だが、耳の動きが遅れている。
母馬房側の音に、体より先に気持ちが持っていかれる。環境が変われば、その反応が強く出る可能性がある。
完全に止めるのは損だ。
無理に出すのは、もっと損だ。
恒一は通路の端で一歳牡馬を止め、首筋を軽く撫でた。
「今じゃない、って顔をするな」
一歳牡馬は鼻を伸ばし、恒一の袖の匂いを嗅いだ。
「でも、止めっぱなしにもできない」
美緒が少し離れた位置から見ていた。手には帳簿ではなく、管理表の予備用紙を持っている。
「どう?」
「能力はある」
「それは、前から言ってる」
「急がせたら崩れる」
「それも、前から言ってる」
美緒はそこで紙を胸に抱えた。
「じゃあ、待つ?」
恒一は一歳牡馬の耳を見た。
また、シラユキノハナの方を向いている。
「完全には待たない」
「北斗に出すの?」
「本格預託は今は無理だ」
「じゃあ」
「三浦さんに相談する。通常預託じゃなくて、段階的な馴致メニューを作れないか。短期で見てもらって、今どこまでやるべきかだけ確認する」
美緒は目を伏せた。
「それでも、お金はかかる」
「ああ」
「頭も下げる」
「ああ」
「いつも通りに預けるより、面倒な頼み方になる」
恒一は一歳牡馬の鼻先に手を添えた。
「面倒でも、こいつの順番を間違えるよりはいい」
美緒は返事をしなかった。
恒一は一歳牡馬を馬房へ戻した。
戻す時、一歳牡馬は一度だけ母馬房側へ鼻を伸ばした。恒一が止める前に、自分で顔を戻す。その小さな戻り方を、恒一は見逃さなかった。
まだ、育つ余地がある。
だからこそ、雑に預けられない。
事務所へ戻ると、美緒は帳簿の横に新しい紙を置いた。
削るもの。
削らないもの。
上にそう書いた。
「これ、嫌な表だね」
「でも必要だ」
「うん」
美緒は最初に、玲奈の追加診察費の欄へ線を引かなかった。飼料代にも線を引かない。寝藁にも、最低限の人手にも線を引かない。
北斗の本格預託開始費には、保留の丸をつけた。
「ここを削るんじゃなくて、形を変える」
恒一が言った。
「短期確認」
「ああ」
「三浦さんに、普通の預かりじゃなくて、見るだけでも来てもらう」
「来てもらえるかな」
「頼む」
「頼む、って便利だね」
美緒の声に刺はあった。
恒一は受けた。
「便利に使わないようにする」
美緒はそこで少しだけ視線を上げた。
「どうやって」
「払うものは払う。払えない分は、条件を先に言う。黙って甘えない」
「……それならいい」
机の隅で、携帯が黒い画面のまま伏せられていた。
黒峰への返事は、まだそこにある。
見えないだけで、消えてはいない。
恒一はその携帯を横目で見てから、父の代からの機材一覧を引き寄せた。
古い草刈り機。
予備のウォーターカップ。
使っていない鞍置き。
曲がった鉄柵。
錆びた扇風機。
売れるものは少ない。
それでも、何もしないよりはましだった。
美緒が草刈り機の欄を見た。
「これ、お父さんが直して使ってたやつだよね」
「ああ」
恒一は倉庫の隅にある草刈り機を思い出した。
持ち手には、黒いビニールテープが斜めに巻かれている。父が最後に巻き直した部分だけ、他より少し新しかった。刃を外す時に使っていた小さなレンチも、工具箱の底に入ったままだ。
「売るの」
「今は使ってない」
「使ってないけど」
美緒はそこで言葉を止めた。
使っていないものでも、残っていれば父の手の跡がある。捨てれば、倉庫は少し広くなる。売れば、紙の上の数字が少しだけ戻る。
得るものは小さい。
失うものは、金額より大きい。
「残しておいても、馬の餌にはならない」
恒一は言った。
美緒は返事をしなかった。
代わりに、草刈り機の横へ小さく丸をつけた。
売却候補。
その字は、いつもより少し遅かった。
恒一は次に、飼料業者の請求書を取った。
桐生飼料。
父の代から付き合いのある業者だ。支払いが遅れれば信用を削る。だが、黙って遅らせるより、先に頭を下げる方がまだいい。
「桐生さんに電話する」
美緒が顔を上げた。
「今?」
「今」
「兄さんが?」
「俺が」
「私じゃなくて?」
「今回は俺が言う」
美緒は少しだけ黙ってから、帳簿を開いた。
「じゃあ、言う金額、間違えないで。今月ここまで。残りはいつ。次の入金予定はこれ。曖昧に言うと、向こうが困る」
恒一は、美緒が差し出した紙を受け取った。
「あと、“すみません”だけで押し切らないで」
「逃げたら、馬房に貼れ」
美緒は鉛筆を持ったまま、少しだけ口元を緩めた。
「今回は、請求書に貼る」
恒一は電話をかけた。
桐生は三度目の呼び出しで出た。声はいつもと同じだったが、納品先で忙しいのか、背後でトラックのドアが閉まる音がした。
『榊原さんか。どうした』
「今月分の支払いで相談があります」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
『悪い相談か』
「いい相談ではありません」
『正直だな』
「遅らせたい分があります。ただ、黙って遅らせるつもりはありません。今月払える額と、残りを払う日を先に伝えます」
美緒が横から紙を滑らせる。
金額。
日付。
次の入金予定。
恒一はそれを一つずつ伝えた。
桐生は途中で口を挟まなかった。
『シラユキノハナか』
「はい」
『噂だけなら聞いてる。見学止めたんだろ』
「止めました」
『金にならんことをするな』
言葉はきつい。
だが、声には怒りだけではなかった。
「金にする前に、守るものがあります」
『それを言えるうちは、まだ牧場主だな』
恒一は黙った。
桐生が息を吐く。
『一回だけだ。日付は守れ。次にずれたら、先に電話しろ。黙るな』
「ありがとうございます」
『礼はいい。馬を減らすな。餌の量を変なところで削るなよ』
「削りません」
『ならいい』
電話が切れた。
美緒が帳簿に日付を書き込む。
「通った?」
「一回だけ」
「一回だけ、か」
「ああ」
「一回が増えると、信用は減るね」
「だから増やさない」
恒一は携帯を置き、次に三浦へのメッセージを開いた。
文面はすぐには決まらなかった。
通常預託ではない。
金がないから安くしてほしい、ではない。
馬を止めたくない。
でも急がせたくない。
その全部を、短く書かなければならない。
美緒が横から言った。
「強く書かない方がいいよ」
「黒峰さんの時は強く書けって言ったろ」
「あれは迷ってると思われたら困る相手。三浦さんは、甘えてると思われたら困る相手」
恒一は美緒を見た。
「分かってきたな」
「帳簿ばっかり見てるからね」
美緒はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
恒一は打った。
シラユキノハナの一歳牡馬について相談があります。
本格預託を今すぐ開始する資金余力が厳しくなりました。
ただ、育成を完全に止めたくありません。
現在、母馬房側の音や匂いに反応して集中が切れる場面があります。
段階的な馴致メニュー、または短期確認だけでも相談できないでしょうか。
費用条件も先に相談させてください。
送信。
画面が戻る。
返事はすぐには来なかった。
その間に、恒一と美緒は机の上の紙を並べ替えた。
玲奈の追加診察費。
飼料業者の支払い条件。
機材売却候補。
北斗トレーニングファームの見積もり。
三浦への相談メモ。
黒峰の配合方針確認。
どの紙も、消えてはいない。
ただ、置き方だけが変わった。
「削れた?」
美緒が聞いた。
「紙は」
「馬は?」
「削らない」
恒一は答えた。
美緒は帳簿を閉じなかった。閉じずに、表紙の上へ手を置いた。
「じゃあ、まだ続くね」
「ああ」
携帯が震えた。
三浦からだった。
恒一は画面を開く。
『見に行く。けど、預かれるかどうかは馬を見てからだ』
短い文だった。
優しくはない。
だが、扉は閉じていなかった。
美緒が画面を見て、ゆっくり息を吐いた。
「見るだけで終わるかもしれないね」
「ああ」
「それでも、見てもらうんだね」
「見るところからしか、始められない」
厩舎の方で、一歳牡馬が鼻を鳴らした。
母馬房側の音に反応したのか、それとも、ただ乾草を欲しがっただけなのかは分からない。
恒一は机の上の紙を一枚だけ裏返した。
黒峰の配合方針確認。
今は、返せない。
代わりに、三浦からの返信を管理表の横に置いた。
紙はまだ減らない。
それでも、削る順番だけは決まった。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低下
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:注意信号
- 自家保留育成費:圧迫
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意高止まり/追加管理継続
- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先
- シラユキノハナ一歳牡馬:心肺A/成長力A/精神成熟C+/環境変化耐性C/段階的馴致推奨
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- アオバノミチ:佐伯側相談継続/来場延期
- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留
- 黒峰:配合方針確認要求継続/返答保留
- 三浦:短期確認予定/正式預託は馬を見て判断
- 次の勝負:先に払う命と、止めない育成の線引き




