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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第92話 様子見に払う金

 朝になっても、シラユキノハナは倒れていなかった。


 その事実だけなら、悪くない。


 だが、恒一は管理表の前で、鉛筆を置けなかった。


 六時半。

 水桶前滞在、二分弱。

 飲水確認、少量。

 乾草、口をつけるが減り遅い。

 後肢体重移動、あり。

 糞、少量。


 一時、四時、六時半の欄が、同じ紙の上に並んでいる。紙の端はすでに柔らかくなり、何度も持ち直した跡で角が丸くなっていた。


 水桶の外側には、美緒が貼った細いテープがある。


 一時の水位。

 四時の水位。

 六時半の水位。


 青いペンで小さく線が引かれている。誰が見ても、どれだけ減ったのか分かるようにするためだった。


 水は、減っている。


 だが、いつもの朝ほどではない。


 シラユキノハナは乾草に口を伸ばし、少し噛んで、また首を下げた。食べてはいる。けれど、飼葉桶の横に落ちた乾草の端は、湿ったまま残っている。


 良くなった、と書くには足りない。


 悪化、と書くには早い。


 その間にある線を、恒一はじっと見ていた。


【受胎状態:継続】

【管理注意:高止まり】

【ストレス反応:中】

【接触許容量:低下】


 悪化ではない。


 それなのに、胸の奥に重く残る。


 良くなっていない、という表示は出ない。だが、馬房の中のシラユキノハナが、それを先に見せていた。


「飲んではいるんだよね」


 美緒が、桶の線を見ながら言った。


「少しな」


「少しでも、飲んだって書いていい?」


「書いていい」


 恒一は答えたあと、少し間を置いた。


「でも、戻ったとは書くな」


 美緒は頷き、管理表に小さく書き込んだ。


 飲水、少量。

 通常量には戻らず。


 その字は、いつもの帳簿の字より細かった。


 玲奈は馬房の前で、シラユキノハナの耳と目を見ていた。すぐに触れない。入る前に、馬がどこを気にしているのかを拾っている。


 三浦は通路の端に立ち、寝藁の乱れ方を見ていた。大きく荒れてはいない。ただ、水桶の前と馬房の奥に、踏み直した跡が多い。


「寝てないな」


 三浦が低く言った。


「立ったままの時間が長いですか」


 玲奈が尋ねる。


「長い。横になって起きた乱れ方じゃない」


 玲奈は頷き、ゆっくり馬房へ入った。


 首筋に触れ、体温を測り、腹部を短く確認する。強く押さない。シラユキノハナの耳が動くたび、玲奈の手も止まる。


 恒一は扉の外で見ていた。


 入りたい、と思った。


 けれど、入らない。


 昨日から何度も言われた言葉が、通路の床に杭のように刺さっている。


 見たい時ほど、一歩下がる。


 玲奈が体温計を抜いた。


「高熱ではありません。強い疝痛を疑う動きも、今は出ていません」


 美緒の肩がほんの少し下がった。


 玲奈はすぐに続ける。


「ただ、飲水と食いは戻りきっていません。後肢の体重移動も残っています。数日は接触を絞った方がいいです」


「数日」


 美緒が繰り返した。


 その二文字が、紙代や獣医代よりも重く聞こえた。


「見学は止めてください。シラユキノハナの周辺に外の人を入れないこと。接触する人も固定します。飼料は急に変えない。水桶も変えない。乾草も、量をいじりすぎないでください」


「戻らないからって、足さない」


 三浦が言った。


「はい。食べないからといって、いきなり好きなものを足すと、何が原因か分からなくなります」


 美緒が管理表に書く。


 見学停止。

 接触固定。

 飼料変更なし。

 朝夕記録強化。


 その下に、小さく書き足した。


 寝藁交換、増。


 恒一はその字を見た。


 寝藁を替える回数が増えれば、手間も金も増える。記録を増やせば、誰かの時間が削れる。玲奈を呼べば、診察費が増える。


 様子を見る。


 その言葉は、何もしないという意味ではなかった。


「追加検査は」


 恒一が聞いた。


「今すぐ大きな検査に進める状態ではありません。ただ、今日の昼までに飲水がさらに落ちる、食いが止まる、腹を気にする動きが増えるなら、次を考えます」


「費用は」


 美緒が言いかけて、口を閉じた。


 玲奈はそちらを見た。


「必要な分だけにします。安心のためだけに検査を増やすことはしません。でも、必要になった時に遅らせるのは危ないです」


 美緒は頷いた。鉛筆の先が、管理表の端で止まったままだった。


 三浦が水桶のテープを見た。桶の下に落ちていた乾草を指でつまみ、湿った端を少しだけ潰す。


「これは美緒か」


「はい。ずれてます?」


「いや。見やすい」


 美緒は少しだけ目を瞬かせた。


 三浦はそれ以上褒めず、桶の縁を見てから言った。


「貼り足すなら、同じ幅でやれ。太さが変わると、見間違える」


「分かりました」


 美緒はすぐにメモした。


 同じ幅。


 その短い字を、恒一は横から見た。


 帳簿だけを見ていた手が、馬房の水位を測る手になっている。けれど、その手に乗っている重さは変わらない。むしろ増えていた。


 事務所に戻ると、机の上には三種類の紙が並んでいた。


 玲奈の追加診察費の見込み。

 飼料業者の請求書。

 黒峰から届いていた種牡馬候補リスト。


 その端に、美緒が新しく作った管理表が置かれる。


 水位。

 乾草。

 糞。

 寝藁。

 立ち位置。

 接触者。


 紙が一枚増えるたびに、払うものも増えた。


 美緒は帳簿を開き、赤い付箋を一枚剥がした。


「昨日の夜間、今朝の診察、明日の確認。寝藁も増える。あと、三浦さんの夜の確認も、ただで増えるわけじゃない」


「俺のはいい」


 事務所の入口で三浦が言った。


 美緒は振り返らない。


「よくないです。そういうのを全部“いい”にしたら、最後に誰かが倒れます」


 三浦は黙った。


 恒一は美緒の横顔を見た。


 いつもなら、ここで三浦が軽く流す。美緒もそれ以上は押さない。けれど、今日は帳簿の上に乗っているのが金だけではなかった。


「見学を止めるって、売れるかもしれない話も止めるってことだよ」


 美緒は赤い付箋を、黒峰のリストの上に置いた。


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


「黒峰さんだけじゃない。佐伯さんの方も、見たいって話が来てた。アオバノミチの件で、うちの管理を見たいって。そういうのも止めるんだよ」


 アオバノミチの相談は、売った後も榊原ファームを頼るという小さな信用だった。


 だが、そのために馬房の前に人を増やすことはできない。


「売らない馬を見せるために、母馬を崩したら意味がない」


 美緒はすぐには返さなかった。


 鉛筆の先で帳簿の端を押す。紙が少しだけへこんだ。


「売らない馬でも、見せたら信用にはなる」


「ああ」


「その信用で、来月の話が変わるかもしれない」


「ああ」


「それでも?」


 恒一は黒峰のリストを見た。


 紙の下には、レッドアークの名前がある。市場に映えない血。けれど、シラユキノハナの母系を伸ばす可能性のある血。


 いま開けば、また未来を考えられる。


 恒一は、その紙に手を伸ばさなかった。


「それでも止める」


 美緒は目を閉じた。


 怒っているわけではなかった。計算している。何を削るか、どこへ頭を下げるか、どの支払いを待ってもらうか。そういう顔だった。


 玲奈は二人の間に割り込まなかった。


 馬房から戻ってきたばかりの手袋を片づけながら、静かに言った。


「今のこの子には、人の事情が一番邪魔です」


 美緒の鉛筆が止まった。


 恒一も、何も言わなかった。


 玲奈は続けない。


 その一言だけで十分だった。


 恒一は携帯を取った。


 まず佐伯への返信を打つ。


 シラユキノハナの管理を優先するため、今週の来場は延期させてください。

 アオバノミチの育成記録については、後ほど整理して送ります。


 送信。


 次に、黒峰への返信画面を開く。


 指が一度止まった。


 黒峰には曖昧な言葉は通じない。見学延期だけならまだいい。種牡馬候補リストへの返答を止めるとなれば、こちらが市場の流れから遅れることも、向こうには分かる。


 美緒が横から覗き込まない。


 ただ、帳簿の上で鉛筆を止めている。


 恒一は打った。


 シラユキノハナの体調管理を優先するため、再見学は延期させてください。

 来春以降の種牡馬候補についても、母馬の状態確認を優先し、現時点では正式判断しません。


 送信。


 画面が静かに戻る。


 美緒が小さく息を吐いた。


「強い返事したね」


「弱く書いたら、迷ってると思われる」


「迷ってないの?」


 恒一は事務所の窓から厩舎の方を見た。


 迷いはある。


 黒峰を怒らせたくはない。見学の機会を止めたくもない。レッドアークの返答も、遅らせれば枠を逃すかもしれない。


 だが、その迷いを馬房へ持ち込むわけにはいかなかった。


「迷っても、今見る順番は変えない」


 美緒はそれを聞いて、管理表の上に赤い付箋を貼った。


 優先管理。

 見学停止。

 返答保留。


「これ、全部お金かかるね」


「ああ」


「様子見って、嫌な言葉だね」


「何もしないみたいに聞こえるからな」


「何もしない方が安いのに」


 美緒はそう言ってから、すぐに首を振った。


「違うか。何もしなかった分、あとで高くつくこともある」


 恒一は頷いた。


 その時、厩舎の方から三浦の声がした。


「恒一」


 呼び方だけで、二人は顔を上げた。


 事務所を出ると、三浦がシラユキノハナの馬房の前に立っていた。中には入っていない。水桶の方を顎で示す。


「少し飲んだ」


 美緒が管理表を握り直した。


 恒一は馬房に近づきすぎない位置で止まり、水桶のテープを見た。


 水位は、ほんの少しだけ下がっていた。


 大きな改善ではない。


 けれど、記録できる変化だった。


 美緒が鉛筆を走らせる。


 九時二十分。

 飲水、少量確認。


 その下に、小さく線を引いた。


 玲奈が後ろから見て、頷いた。


「こういう変化を積みます」


 恒一はシラユキノハナを見た。


 シラユキノハナは水桶から顔を離し、奥へ戻る途中で一度だけ後ろ脚を置き換えた。まだ楽ではない。まだ戻ってはいない。


 それでも、美緒の貼った小さなテープが、わずかな変化を逃さず残していた。


 事務所へ戻ると、携帯が震えた。


 黒峰からだった。


 恒一は画面を開く。


 短い返信が届いていた。


『見学延期は承知しました。では、来春以降の配合方針だけでも聞いておきたいですね』


 美緒が横で黙った。


 管理表の上には、まだ乾いていない鉛筆の字がある。


 飲水、少量確認。


 恒一は黒峰の返信を閉じなかった。


 だが、返事も打たなかった。


---


榊原恒一の現状


- 牧場経営力:A-

- 配合読解:B+

- 繁殖観察:A

- 若駒評価:A

- 現場判断:A

- 資金繰り判断:A

- 交渉・信頼:A

- 牧場再建度:51%


榊原ファーム経営状況


- 現金余力:低下傾向

- 資金繰り危険度:高

- 繁殖牝馬群期待値:注意信号

- 牧場ブランド:B+

- 倒産危険度:高


補助表示


- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意高止まり/飲水少量確認

- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先

- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/外部見学停止

- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続

- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中

- アオバノミチ:佐伯側相談継続/来場延期

- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留

- 黒峰:見学延期了承/配合方針確認要求

- 次の勝負:増えた管理費と一歳牡馬の育成費をどう両立するか

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