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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第91話 水桶の縁で止まる息

 四時の欄を書いたあとも、恒一はすぐに管理表を閉じられなかった。


 水桶前。

 鼻を寄せる。

 飲水、確認できず。


 鉛筆の文字は、夜明け前の厩舎の中でやけに黒く見えた。


 シラユキノハナは、水桶の縁に鼻先を近づけたまま立っている。桶の内側についた古い水垢の線から見ても、水位は一時の記録からほとんど変わっていなかった。


 飲んでいない。


 そう決めるには、まだ早い。


 けれど、飲んだと言えるほどの跡もなかった。


 恒一は馬房に入らず、通路側から水桶の角度と、シラユキノハナの足の置き方を見た。左後ろ脚に体重を乗せたかと思うと、すぐに右へ移す。腹を蹴るほどではない。尾を強く振るわけでもない。ただ、いつもの立ち方ではなかった。


 隣の馬房で、一歳牡馬が短く鼻を鳴らした。


「静かにしてろ」


 恒一は低く言った。


 馬に向けたのか、自分に向けたのか、すぐには分からなかった。


 シラユキノハナの耳が、わずかにこちらを向いた。目は濁っていない。汗も目立たない。呼吸も荒いとは言えない。


 ひとつずつなら、小さい。


 その小ささが、怖かった。


 美緒が事務所から出てきたのは、恒一が二度目の水位を確認している時だった。上着の前を片手で押さえ、もう片方の手には帳簿ではなく、昨夜の管理表を持っている。


「兄さん」


 声が小さい。


 シラユキノハナが立っているのを見て、美緒はほっとした顔をしかけた。だが、桶の前で止まっている鼻先を見て、その表情が途中で消えた。


「飲んだ?」


「確認できない」


 恒一は短く答えた。


 美緒は通路の途中で足を止めた。馬房に近づきすぎない位置で、管理表の端を握る。


「玲奈さん、呼ぶ?」


「呼ぶ。朝まで待つかどうかを、俺だけで決めない」


 美緒は頷き、すぐに携帯を取り出した。番号を探す指が、一度だけ滑る。


「ごめん、手が冷たい」


「落とすなよ」


「落としたら、請求書より高くつく」


 冗談の形をしていたが、声は笑っていなかった。


 美緒が電話をかける間、恒一は馬房の中を見た。


 乾草には口をつけた跡がある。飼葉桶の近くにも少し散っていた。けれど、馬房の隅に落ちている噛み切った端は、湿ったまま形を残している。口に入れて、噛んで、そこでやめたような乾草だった。


 シラユキノハナは水桶から鼻を離し、半歩だけ後ろへ下がった。


 その一歩が、いつもより遅い。


 恒一の視界に、短い表示が浮かんだ。


【受胎状態:継続】

【管理注意:高】

【飲水反応:低下】

【推奨:夜間監視/追加診察】


 原因は、出ない。


 水を飲まない理由も、腹を気にしている理由も、どこまで危ないのかも、そこには書かれていない。


 見えるのは、答えではない。


 見逃すな、という札だけだった。


「玲奈さん、出た」


 美緒が携帯を差し出しかけた。恒一は首を振る。美緒はそのまま耳に当て直した。


「すみません、美緒です。シラユキノハナ、四時の確認で飲水が取れていません。水桶前には立っています。兄さんが見ています。……はい。乾草は少し。噛んだ端が湿ったまま残っています」


 美緒の声は、紙に書く時より少し硬い。


 電話の向こうで玲奈が何かを言った。


 美緒は管理表を見ながら頷いた。


「立ち位置は奥寄りから、水桶前です。排便は二十二時に少量、一時は確認なし。尾は……硬さ残る、です」


 美緒はそこで少し黙った。


「はい。兄さんは馬房に入ってません。今のところは」


 余計な一言だった。


 恒一は反論しなかった。


 美緒が電話を切る。


「来るって。準備して、って」


「何を」


「体温計、手袋、ライト。あと、兄さんは焦って入らない」


「最後のは玲奈さんか」


「私もそう思う」


 美緒は管理表を胸の前で抱えたまま、馬房の前から一歩下がった。


「あと……お金の話、今する?」


 恒一はシラユキノハナから目を離さなかった。


「言え」


「追加診察になる。夜間になる。たぶん、朝もまた見る。支払い予定、昨日組み直したばかりだけど、またずれる」


 美緒の声は、馬房に入らないように抑えられていた。


 それでも、言葉は重かった。


「閉じても請求書は減らないから」


 恒一は少しだけ目を伏せた。


 それは、美緒が自分に言い聞かせている言葉でもあった。


「閉じなくていい」


「うん」


「ただ、今は水位も書け。乾草も、糞も、立ち位置も。金の欄は、あとで俺も見る」


「あとで逃げない?」


「逃げたら、馬房に貼れ」


 美緒がほんの少しだけ息を漏らした。


「貼るよ。大きく」


 シラユキノハナが鼻を鳴らした。


 その小さな音だけで、二人は同時に黙った。


 玲奈が来たのは、空が白み始める前だった。


 車の音は厩舎の手前で止まり、足音はすぐに小さくなった。玲奈は白衣ではなく、動きやすい上着に手袋を挟んでいる。顔に眠気は見えたが、声は乱れていなかった。


「入る前に、反応を見ます」


 玲奈はそう言って、馬房の前に立った。


 恒一は半歩下がる。


 玲奈はその動きを見たが、何も言わなかった。代わりに、管理表へ目を落とす。


「水位は?」


「一時からほとんど変わっていません」


「乾草」


「口はつけています。でも、噛み切った端が湿ったまま残っています」


「立ち方は?」


 美緒が答えかけて、言葉に詰まった。恒一が引き取る。


「後ろ脚の体重を何度か替えています。腹を蹴るほどではありません。けど、いつもの楽な立ち方じゃない」


 玲奈は頷き、ライトを弱くしてシラユキノハナの目を見た。


「シラユキノハナ」


 声は低く、余計な力がない。


 シラユキノハナの耳が動いた。玲奈はすぐに馬房へ入らず、その耳の向き、目の動き、首の高さを見ている。


 それから、ゆっくり扉を開けた。


 敷料が小さく沈む音がした。


 玲奈の手が首筋に触れる。シラユキノハナは逃げなかった。ただ、腹の方へ意識が残っているのか、後ろ脚をまた一度、置き換えた。


 恒一は手を握りしめた。


 入るな。


 自分に言う。


 玲奈が体温を測る間、美緒は通路側で管理表を支えていた。鉛筆の先が紙の上に置かれているが、まだ動かない。


 厩舎の奥で、一歳牡馬が柵越しに首を伸ばした。


 三浦が顔を出したのは、その時だった。


「車、見えた」


 声は低い。


 玲奈は振り向かずに答えた。


「すみません。早朝から」


「謝ることじゃない」


 三浦は馬房に近づきすぎない位置で止まった。通路の端に落ちていた乾草を靴先で避け、シラユキノハナの後ろ脚を見て、目を細める。


「替えてるな」


「はい」


「水は?」


 恒一が桶を見る。


「ほとんど減ってません」


 三浦は舌打ちをしなかった。


 その沈黙が、かえって重かった。


 玲奈が体温計を抜き、数字を確認する。美緒の鉛筆が紙の上で止まる。


「高熱ではありません」


 美緒の肩が少しだけ落ちた。


 玲奈は続けた。


「でも、戻ったとは見ません」


 美緒の肩が、また固まる。


 玲奈は手袋を替え、腹部に短く触れた。強く押さず、反応だけを拾う。


 シラユキノハナは暴れなかった。ただ、触れられるたびに耳の向きが変わった。


 玲奈は水桶と乾草の残りをもう一度見てから、恒一の方へ向いた。


「今すぐ危険とまでは言いません」


 声は低かった。


「でも、ここで“朝まで様子見”だけにする変化でもありません」


 美緒の鉛筆が、ようやく動いた。


 追加確認。

 注意継続。


 玲奈は管理表の文字を見て、頷いた。


「原因はまだ断定しません。疝痛と決めつけるには早い。受胎の方も、今すぐ崩れている所見ではありません。ただ、高齢で、受胎中で、飲水が落ちて、食いも鈍い。そこに立ち方の変化が重なっています」


「今夜のまま、見ますか」


「見ます。ただし、見るだけでは足りません。記録の間隔を増やします。朝、もう一度診ます。必要なら日中も来ます」


 美緒が帳簿を持っていない手を、ぎゅっと握った。


 恒一はその手元を見た。


 金の話を、美緒は飲み込んでいる。


 飲み込ませているのは、自分だ。


「お願いします」


 恒一は言った。


「追加で、朝も」


 美緒は何も言わなかった。


 その沈黙を、恒一は反対とは受け取らなかった。反対できないくらい、数字がきつい沈黙だった。


 三浦が管理表を覗いた。


「次は何時だ」


「六時半。そこから朝の診察です」


 玲奈が言う。


「その間、水桶の前に立つ時間も見てください。飲んだかどうかだけではなく、飲もうとしてやめるかどうかも」


 三浦が頷いた。


「面倒な方か」


「面倒な方です」


「だろうな」


 美緒が小さく息を吸った。


「紙、足します」


 恒一は事務所の方を見た。


 黒峰の種牡馬候補リストは、机の上に伏せたままだ。レッドアークの名前も、市場評価の高い候補も、今は紙の下にある。


 開けば、考えられる。


 来春の配合も、セリでの見せ方も、銀行に説明する言葉も、いくらでも考えられる。


 だが、馬房の中でシラユキノハナは、腹の重さを逃がすように後ろ脚を置き換えている。


「美緒」


「何」


「黒峰さんのリスト、今日は開かない」


 美緒は一度だけ事務所の方を見た。


「返事、遅れるよ」


「遅らせる」


「怒らせるかも」


「それでもいい」


 美緒はすぐには頷かなかった。


 管理表を抱えたまま、シラユキノハナを見る。水桶の縁に残っていた白い息は、もう消えていた。


「閉じても請求書は減らないって言ったけど」


「ああ」


「開いても、この子は飲まないね」


 恒一は答えなかった。


 美緒は鉛筆を握り直した。


「じゃあ、今はこっち書く」


 管理表に、新しい欄が足された。


 水桶前滞在。

 飲水確認。

 乾草の噛み残し。

 後肢体重移動。

 糞状態。


 玲奈は体温計を拭きながら、その欄を見た。


「いいです。誰が見ても同じように残してください。怖い時ほど、言葉を曖昧にしない方がいい」


「玲奈さん」


 恒一は、馬房の中のシラユキノハナを見たまま言った。


「腹の仔は」


 玲奈は、すぐには答えなかった。


「今、悪いと決める所見はありません」


「……はい」


「だからこそ、母体を崩さないことです。ここから先は、母馬を守る判断がそのまま仔馬を守る判断になります」


 玲奈の言葉は、静かだった。


 恒一は管理表の一番上に、油性ペンで書いた。


 優先管理。


 美緒が横から見た。


「太いね」


「消えないように」


「消せないように、じゃなくて?」


 恒一はペンのキャップを閉めた。


「どっちもだ」


 外が白み始めた。


 厩舎の隙間から入る薄い光が、水桶の縁を照らす。シラユキノハナはそこに鼻を寄せたまま、ゆっくり息を落としている。


 水面は、まだ揺れなかった。


 玲奈が拭き終えた体温計をケースに戻した。


「朝まで待てる状態です」


 恒一も、美緒も、三浦も、誰もそこで息を緩めなかった。


 玲奈は続けた。


「でも、朝に“変わっていない”ことを祈る状態です」


---


榊原恒一の現状


- 牧場経営力:A-

- 配合読解:B+

- 繁殖観察:A

- 若駒評価:A

- 現場判断:A

- 資金繰り判断:A

- 交渉・信頼:A

- 牧場再建度:51%


榊原ファーム経営状況


- 現金余力:やや低

- 資金繰り危険度:高

- 繁殖牝馬群期待値:注意信号

- 牧場ブランド:B+

- 倒産危険度:高


補助表示


- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意高/飲水反応低下

- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先

- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/母馬の変化に反応

- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続

- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中

- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留

- 黒峰の種牡馬候補リスト:未回答/再確認停止

- 次の勝負:様子見に払う金をどう確保するか

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