第90話 今いる母を守る
管理表の一枚目は、昼前にはもう半分ほど埋まっていた。
接触人数。
乾草。
水。
体温。
立ち位置。
排便。
尾の動き。
美緒が引いた線は、少し曲がっている。定規を使う余裕がなかったのだと、恒一は何も言わずに見ていた。
事務所の机には、黒峰の種牡馬候補リストが伏せて置かれている。レッドアークの名前は、紙の下に隠れていた。その上に、シラユキノハナの新しい管理表が広げられている。
赤い付箋は、請求書から剥がされ、管理表の右上に貼り直されていた。
美緒は、その赤い四角を見たまま言った。
「これ、またお金かかるよ」
声は責めていなかった。
だから、余計に重かった。
「かかる」
恒一は頷いた。
「夜の確認、玲奈さんの追加診察、記録用の紙。三浦さんにも負担が増える。飼料は変えないにしても、見る回数は増える」
美緒は帳簿を閉じなかった。開いたままのページには、すでに何度も鉛筆で足し引きした跡がある。消しゴムで薄くなった数字の上に、新しい数字が重なっていた。
「今月、余ってないよ」
恒一はその数字を見た。
乾草代。
獣医代。
削蹄代。
受胎後管理。
そして、今日から増える確認。
何かを増やすということは、別の何かを削るということだった。
「見学希望は止める」
恒一は言った。
美緒の指が止まった。
「黒峰さんの後に来てる分?」
「全部止める。シラユキノハナの近くに入れる必要はない。外から見せるのもやめる」
「それ、信用落ちない?」
「落ちるかもしれない」
「今、落とす余裕ないよ。せっかく、タチカゼで見てもらえるようになってきたのに」
美緒の声は細い。けれど、引いてはいなかった。
恒一は管理表の端に、見学停止、と書き込んだ。
「ここで無理に見せて、馬に何かあったら、信用どころじゃない」
美緒は帳簿の赤い数字を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「うん。そこは、そう」
その返事だけで、十分だった。
三浦が事務所に入ってきたのは、それからすぐだった。
長靴の底についた敷料が、入口のマットに落ちる。手には、シラユキノハナの馬房札があった。
「札、替えるんだろ」
三浦はそれを机に置いた。
古い馬房札には、シラユキノハナの名前と、受胎管理中の文字が書かれている。端は少し削れていた。毎日の掃除と出入りで、木の表面が丸くなっている。
「接触制限を入れます」
恒一が言うと、三浦は顎を引いた。
「誰まで入れる」
「俺、美緒、三浦さん、玲奈さん。あとは必要が出た時だけ」
「馬房に入るのはもっと絞れ」
美緒が顔を上げた。
「私も?」
「お前、心配になると紙を持ったまま馬房の前で固まる」
「……見てたんですか」
「見える場所で固まるな。馬が見てる」
三浦の言い方は荒くない。ただ、逃げ場もなかった。
美緒は作業表を胸の前に寄せかけて、途中でやめた。
「分かりました」
恒一は馬房札を引き寄せた。
シラユキノハナ。
その名前の下に、新しい文字を書き足す。
受胎継続。
管理注意。
接触制限。
鉛筆ではなく、油性ペンで書いた。
一度書けば、簡単には消えない。
三浦がその字を見て、目を細めた。
「餌は変えないんだな」
「変えない。玲奈さんも急に変えるなと言ってました」
「なら、量もいじりすぎるな。食わないからって、あれこれ足したら余計に分からなくなる」
「はい」
「水桶は?」
「今まで通りです。ただし、減り方を時間で見ます」
「桶を替えるなよ。匂いが変わる」
恒一は頷いて、管理表に書き足した。
桶、変更なし。
三浦はそれを見てから、窓の外へ目を向けた。
「夜は俺が一回見る」
「負担が増えます」
「増えるな」
「それでも頼むことになります」
三浦は鼻で息を吐いた。
「頼む前に、時間を言え」
「二十二時。俺が一時。明け方は俺がもう一度見ます」
「お前、寝る気あるのか」
「あります」
「嘘をつく顔じゃないが、守る顔でもないな」
玲奈と同じようなことを言われて、恒一は黙った。
美緒が横で少しだけ笑いそうになり、すぐにやめた。
三浦は管理表を指で叩いた。
「一時は美緒にしろ。お前が全部抱えたら、明日の朝の判断が鈍る」
「でも」
「でもじゃない。高齢の受胎馬を見るんだろ。寝不足の目で見るな」
恒一は言葉を飲んだ。
馬房の中の小さな違いを拾うには、目がいる。焦った目、眠っていない目、思い込みの入った目では、見落とす。
能力があっても、見に行く人間が崩れれば意味がない。
美緒が帳簿の端を押さえた。
「一時、私が見る」
「起きられるのか」
「兄さんよりは、馬房の前で固まらない」
三浦が短く笑った。
「なら決まりだ」
恒一は管理表の夜間確認欄を書き直した。
二十二時 三浦。
一時 美緒。
四時 恒一。
朝 玲奈確認。
夜間確認欄は、四行で埋まった。
牧場側の名前は、三つしかない。
増やせる人員も、押せる機械もない。
榊原ファームにあるのは、人の手と紙と、眠い目をこすって見る時間だけだった。
玲奈から電話が入ったのは、昼前だった。
『夕方にもう一度寄れます。夜は電話で状況を見て、必要なら動きます』
「お願いします」
『人の出入りは?』
「止めました。接触は四人までに絞ります」
『四人でも多いです。実際に馬房に入る人は、もっと絞ってください』
恒一は管理表を見た。
「触るのは、三浦さんと玲奈さん中心にします。俺と美緒は確認だけです」
『その方がいいです。榊原さんは、見たい時ほど一歩下がってください』
「はい」
『返事はいいです。行動でお願いします』
電話越しなのに、玲奈の視線が見えるようだった。
恒一は少しだけ背筋を伸ばした。
「分かりました」
電話を切ると、美緒がこちらを見ていた。
「玲奈さん、兄さんの扱いに慣れてきたね」
「慣れなくていい」
「慣れてもらわないと困るよ。兄さん、馬のことになると聞き分け悪いし」
恒一は否定しようとして、やめた。
否定する紙が、机の上に一枚もなかった。
午後、恒一は馬房札を掛け替えた。
シラユキノハナは奥に立っていたが、朝より少しだけ首を低くしていた。乾草は、細く減っている。食べてはいる。ただ、勢いはない。
水桶の縁には、鼻を寄せた跡があった。
恒一は馬房の前で止まりすぎないよう、通路の反対側から見る。
「入らないの?」
美緒が後ろから言った。
「入らない」
「えらい」
「馬に言うみたいに言うな」
「馬の方が聞き分けいい時あるし」
美緒の声は軽く作られていた。
だが、手に持つ管理表の角は曲がっている。何度も握り直した跡だった。
シラユキノハナの一歳牡馬が、母の馬房の方へ首を向けた。
耳を立て、鼻を少し伸ばす。柵には届かない。それでも、母のいる方を見て、しばらく動かなかった。
恒一は、その姿を見た。
人の言葉など分からない。
受胎継続も、管理注意も、接触制限も、分かるはずがない。
だが、母の息がいつもと違うことは、馬房の中で一番近くにいたこの仔が感じているのかもしれない。
恒一は馬房札を見た。
シラユキノハナ。
受胎継続。
管理注意。
接触制限。
その下に、小さく書き足した。
静かに見る。
美緒が横から覗き込んだ。
「それ、札に書くこと?」
「俺に書いてる」
美緒は何も言わなかった。
ただ、作業表の端を親指で押さえた。
夕方、玲奈が来た。
体温、立ち位置、食べ残し、水の減り。ひとつずつ確認していく。触れる手は朝と同じように静かだった。
「強く悪化している印象はありません」
その言葉に、美緒が少しだけ息を吐く。
玲奈はすぐに続けた。
「でも、戻ったとは言いません。今夜の確認を続けてください」
「はい」
「水の飲み方を見たいです。飲んだ量だけではなく、飲むまでの時間も」
三浦が腕を組んだ。
「桶の前に立って飲まない時間も書くか」
「お願いします」
「面倒だな」
「面倒なところに変化が出ます」
三浦は一瞬だけ玲奈を見て、口の端を少し上げた。
「獣医にそう言われたら、やるしかないな」
玲奈は軽く頭を下げた。
「お願いします」
日が落ちると、厩舎の温度は少し下がった。
恒一は事務所の明かりを落とし、必要なところだけを点けた。明るすぎる通路を避け、馬房の前へ立つ時間も短くする。足音を抑え、声を落とす。
二十二時の欄には、三浦の太い字が並んだ。
乾草、少し減。
水、減りわずか。
立ち位置、奥寄り。
尾、硬さ残る。
排便の欄には、小さく丸がついている。
一時、美緒が起きた。
髪をひとつに結び直し、上着の前を押さえながら厩舎へ向かう。恒一も起き上がりかけたが、美緒に睨まれた。
「寝て」
「でも」
「四時、兄さんでしょ」
美緒はそれだけ言って、事務所を出た。
戻ってきた管理表には、細い字が増えていた。
乾草、口をつける。減り少。
水桶前、一分ほど立つ。飲水確認できず。
鼻息、静か。
一歳牡馬、母側を見る。
恒一はその文字を見た。
眠気が消えた。
四時前、目覚ましより早く起きた。
厩舎の空気は、夜の底に沈んでいる。通路の明かりを弱く点けると、敷料の匂いが先に来た。馬房の中で、シラユキノハナは立っていた。
シラユキノハナは水桶の前にいた。
鼻先を、水桶の縁に近づけている。
恒一は足を止めた。
飲め。
言いそうになって、飲み込んだ。
声をかけたい。近づきたい。首筋に触れて、安心だと確かめたい。だが、玲奈の声が頭に残っている。
見たい時ほど、一歩下がってください。
シラユキノハナは、水桶の縁に鼻を寄せたまま、しばらく動かなかった。
水面は揺れない。
ただ、白い息だけが、桶の縁に薄く落ちた。
恒一は管理表を開いた。
鉛筆の先を置く。
四時。
水桶前。
鼻を寄せる。
飲水、確認できず。
最後の文字を書いた時、隣の馬房で一歳牡馬が小さく鼻を鳴らした。
恒一は顔を上げた。
シラユキノハナは、まだ水桶の前にいた。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:注意信号
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意上昇/夜間飲水に不安
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/母馬の変化に反応
- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留
- 黒峰の種牡馬候補リスト:一時停止
- 次の勝負:飲まない夜をどう越えるか




