第89話 静かな異変
天城玲奈は、シラユキノハナの馬房の前で待っていた。
白い息が、薄く厩舎の空気に混じっている。
恒一が駆け込むと、玲奈はすぐに手を上げなかった。慌てて近づくな、という合図だった。恒一は足を止め、通路の途中で息を抑えた。
馬房の中で、シラユキノハナは立っていた。
倒れてはいない。
荒く汗をかいているわけでもない。
腹を蹴る仕草も、今はない。
それでも、いつもの場所ではなかった。
シラユキノハナは馬房の奥に寄り、腹を壁側へ向けるようにして立っている。耳は伏せきっていないが、こちらへ向ける時間が短い。尾の動きも、普段より少し硬かった。
大きな異常ではない。
だからこそ、厄介だった。
「玲奈さん」
恒一が声を落とすと、玲奈は馬房の中を見たまま頷いた。
「すぐ命に関わる、という状態ではありません。そこは先に言っておきます」
その言い方で、恒一の喉が余計に狭くなった。
美緒が少し遅れて通路に入ってきた。手には作業表を握っている。紙の端が湿っていた。外の冷気か、指の汗か、分からない。
「乾草は?」
恒一が聞くと、美緒は作業表ではなく、馬房の床を見た。
「減ってる。でも、端がいつもと違う」
飼葉桶の近くに落ちた乾草の束は、食べ残しとしては多くない。だが、噛み切られた端がいつもより湿っていた。口に入れて、噛んで、途中でやめたような跡がある。
水桶も空ではない。
縁には濡れた跡があり、水位は昨日より下がっている。飲んでいないわけではない。
ただ、減り方が遅い。
がぶりと飲んだ跡ではなく、鼻を寄せて、少しずつ時間をかけて減らしたような水面だった。
玲奈はその水桶の前でしゃがみ、縁の濡れ方と床の湿りを見た。
「水は入っています。飲んではいます。ただ、飲み方が遅い。喉を鳴らして一気に飲んだ感じではありません」
美緒の指が作業表の端を握り込む。
「それ、悪いんですか」
「悪いと決めるには早いです」
玲奈はすぐに答えたが、安心させる声ではなかった。
「ただ、いつもと違います」
恒一は馬房の柵に手をかけた。木の表面が冷たい。
シラユキノハナは、こちらを見ない。
目は濁っていない。息も荒すぎない。腹の動きも乱れてはいない。それなのに、馬房全体がいつもより少し狭く感じた。
恒一は低く声をかけた。
「シラユキ」
シラユキノハナの耳が、わずかに動いた。
それだけだった。
隣の馬房で、一歳牡馬が鼻を鳴らした。母の方へ首を伸ばし、柵の近くで止まる。いつもなら乾草へ戻るところで、そのまま通路を見ていた。
美緒が小さく言った。
「あの子も、変だって分かってるのかな」
「決めつけるな」
恒一はそう返したが、声は強くならなかった。
玲奈は手袋をはめ直した。
「触ります。ただ、いきなり深く触診する前に、反応を見ます」
「お願いします」
恒一は一歩下がった。
玲奈は馬房に入る前、扉の金具に手をかけたまま止まった。シラユキノハナの立ち位置と、壁側へ向けた腹と、尾の動きを見比べる。
その手が、すぐには動かなかった。
「玲奈さん?」
美緒が呼ぶ。
玲奈は返事をしないまま、視線だけを少し下げた。
それから、ゆっくりと言った。
「疝痛と決めるには早いです。胎盤炎を疑う所見も、まだ強くはありません」
恒一は息を止めていたことに気づいた。
疝痛。
胎盤炎。
言葉だけで、馬房の湿った匂いが重くなる。
玲奈はそこで一度、言葉を切った。
シラユキノハナが、乾草へ顔を向けた。口先で触れる。だが、すぐには食べない。湿った端を選ぶように鼻で動かし、また顔を上げる。
玲奈はその仕草を見て、声を落とした。
「でも、高齢の受胎馬でこの変化を“様子見”だけにするのは怖いです」
恒一の視界に、淡い表示が浮かんだ。
【受胎状態:継続】
【管理注意:上昇】
【推奨:接触制限/追加確認】
継続。
その二文字に、恒一は一瞬だけ救われかけた。
だが、次の表示がそれを許さなかった。
管理注意、上昇。
推奨、接触制限。追加確認。
「危ないの?」
美緒が聞いた。
作業表の紙が、指の中で少し歪んでいる。
玲奈はすぐには答えなかった。
馬房の中でシラユキノハナが体重を移す。大きな動きではない。左後肢を少し置き直し、また腹を壁側へ向ける。
玲奈はその動きを最後まで見てから、美緒へ向いた。
「危ないと言うには早いです。でも、安心と言うには雑です」
美緒は唇を噛んだ。
「それが一番困るやつですね」
「はい」
玲奈は短く頷いた。
「いま一番駄目なのは、問題ないと決めて普段通りにすることです。逆に、騒ぎすぎて余計な刺激を入れるのもよくありません」
「何を減らしますか」
恒一の声は、自分で思ったより低かった。
玲奈は馬房の扉を半分だけ開けた。
「まず人の出入りを絞ります。見学、外部の接触、不要な確認は止めてください。飼料は急に変えない。水と乾草の減り、体温、立ち位置、排便、尾の動きは、時間を分けて記録します」
美緒が作業表の裏を見た。
「欄、足りない」
「別紙を作れ」
恒一は即答した。
美緒が顔を上げる。
「兄さん、今月の紙代まで嫌がってたのに」
「紙で済むなら安い」
美緒は何か言い返そうとして、やめた。
玲奈は手袋の指先で、シラユキノハナの首筋へそっと触れた。シラユキノハナは嫌がらない。ただ、耳だけが少し動く。
触診は急がない。
暴れさせない。
安心させすぎない。
玲奈の手つきは静かだった。
恒一はその手を見ていた。
レッドアークの名前。
黒峰のリスト。
市場評価C。
シラユキノハナの一歳牡馬の未来。
ほんの少し前まで、机の上で次の配合を見ていた。
だが今、目の前にいる母馬の呼吸が、すべてを押し戻している。
次の血を選ぶ前に、今いる母を守れなければ何も残らない。
「玲奈さん」
「はい」
「今夜、追加で見てもらえますか。料金は……」
恒一はそこで一瞬だけ詰まった。
言い淀んだことを、美緒が見逃さなかった。だが、何も言わない。作業表を胸の前で持ったまま、視線だけを落としている。
玲奈は恒一の言葉の続きを待たなかった。
「来ます。費用の話は、あとで必要な分だけ整理しましょう。いま削るところではありません」
その言葉に、恒一は頭を下げた。
「お願いします」
「ただし、榊原さん」
玲奈の声が少し硬くなった。
「不安だからといって、何度も馬房を覗き込まないでください。人が心配そうに立つだけでも、馬には負担になります」
恒一は柵から手を離した。
手のひらに、冷たい木の感触が残る。
「分かりました」
「分かっている顔ではあります。でも、守れる顔ではまだありません」
美緒が横で小さく息を漏らした。
「兄さん、言われてる」
「うるさい」
声は弱かった。
玲奈は、シラユキノハナの腹側へ回る前に、もう一度手を止めた。
「触診します。嫌がるようなら、そこで切ります。無理に全部を取ろうとしません」
「はい」
恒一は、返事をしてから一歩下がった。
美緒も下がる。だが、作業表だけは胸の前で握ったままだった。
シラユキノハナは、玲奈の手を受け入れた。
強い拒否はない。
だが、体の奥に小さな緊張がある。
玲奈はそれをほどくように、時間をかけて確認した。
馬房の外で待つ時間は長かった。
水桶の水面が、わずかに揺れる。隣の一歳牡馬が鼻を鳴らす。乾草の端が、シラユキノハナの口元で湿ったまま残っている。
恒一は、胸ポケットに入れたメモ帳を取り出した。
レッドアークの名前を書いたページが開きかける。
恒一はそこを閉じた。
新しいページを開く。
シラユキノハナ。
乾草端、湿り。
水、減るが遅い。
立ち位置、奥。腹を壁側。
接触制限。追加確認。
鉛筆の先が少し震えた。
恒一は手を止め、もう一度だけ息を吐いた。
玲奈が馬房から出てきた。
「強い緊急所見はありません」
美緒の肩が、わずかに落ちた。
恒一も一瞬だけ息を吸った。
だが、玲奈の顔は緩んでいなかった。
「ただ、通常管理に戻す判断はしません。今夜と明朝で追加確認します。外部接触は止めてください。見る人を決めます」
「はい」
「三浦さんには、立ち位置と食べ残しの写真も残してもらってください。文章だけだと、細かい変化が流れます」
「すぐ伝えます」
美緒が作業表の端に、写真、と書き足した。
その字は少し曲がっていた。
玲奈はシラユキノハナを振り返った。
「今は、怖がらせないことです。安心だと決めつけないことと同じくらい、大事です」
恒一は頷いた。
シラユキノハナは馬房の奥で、また乾草へ口を伸ばした。今度は少し噛んだ。長くは続かない。けれど、完全に拒んではいない。
その小さな動きに、恒一は縋りそうになった。
縋ってはいけない。
見なければならない。
恒一は事務所へ戻った。
机の上には、黒峰のリストが広がったままだった。レッドアークの名前には、小さな丸がついている。その横に、一歳牡馬の作業表。さらに横には、赤い付箋のついた請求書。
どれも大事だった。
だが、今一番先に見る紙は違う。
恒一は黒峰のリストを閉じた。
紙が重なって、レッドアークの名前が見えなくなる。
代わりに、シラユキノハナの新しい管理表を机の中央に置いた。
美緒が黙って、赤い付箋を請求書から一枚剥がした。捨てるのではなく、新しい管理表の角へ貼る。
「これも、お金かかるよ」
「ああ」
「でも、ここは削れない」
「削らない」
美緒は少しだけ頷いた。
恒一は管理表の一行目に、鉛筆で強く書いた。
接触人数、制限。
その下に、少し間を空けてもう一行書く。
追加確認、今夜。
馬房の方から、シラユキノハナの鼻息がかすかに聞こえた。
恒一は鉛筆を置かず、管理表の余白にもう一本、細い線を引いた。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇中
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:受胎状態継続/管理注意上昇/接触制限・追加確認
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/母馬の異変に反応
- レッドアーク:市場評価C/配合重点確認候補のまま保留
- 黒峰の種牡馬候補リスト:一時停止
- 次の勝負:今いる母を守る管理体制を組み直す




