第88話 市場に映えない血
レッドアーク。
黒峰のリストの下の方に、その名前は小さく載っていた。
上位候補のような太い印はない。添えられた短評も、乾いたものだった。
市場訴求弱い。
母系次第。
即時回収には不向き。
恒一は、朝の事務所でその三行を見ていた。
窓の外はまだ薄暗い。馬房の方から、飼葉桶を軽く鳴らす音がした。昨夜のうちに閉じなかったリストと、赤い付箋のついた請求書と、一歳牡馬の作業表が机の上に残っている。
美緒は湯呑みを置きながら、リストの下を覗き込んだ。
「名前、弱いね」
「弱いな」
「兄さんが言うと、変に聞こえる」
美緒は笑わなかった。
レッドアークは、悪い種牡馬ではない。
ただ、強く見せる言葉が少ない。現役時代の勝ち方は堅実で、重賞の名前で買い手を引っ張る馬ではない。産駒も、初見で肩やトモの派手さを押し出すタイプではなかった。
セリで紙に載せた時、買い手の指が一度止まるかどうか。
銀行に説明した時、担当者がすぐ頷くかどうか。
その二つだけで見れば、上位候補とは比べものにならない。
美緒は請求書の赤い付箋を一枚、指で押さえた。
「これ、売る時きついよ」
「ああ」
「写真だけで人を止める馬にはなりにくい。父の名前で値段も作りにくい。銀行に持っていったら、最初に渋い顔される」
「されるだろうな」
「……なのに、捨てる顔じゃない」
恒一は返事をしなかった。
リストの文字を見ているだけでは足りない。
恒一は立ち上がり、壁に掛けていた血統図を机の上へ広げた。角が少し反っている。父が使っていた古い定規も、その横に置いた。黒峰の封筒は、机の端に押しやられている。
紙が増えるたび、事務所の机は狭くなる。
だが今、狭いのは机だけではない。
来月の支払い。
空いている種付け枠。
高齢牝馬の管理。
自家保留した一歳牡馬の未来。
どれも、簡単に避けられないところまで来ていた。
恒一は、シラユキノハナの母系を指でたどった。
派手な勝ち馬がずらりと並ぶ血ではない。けれど、途切れそうで途切れていない。軽く見られ、切られかけ、それでも仔に何かを渡してきた血だった。
シラユキノハナは、終わった牝馬として扱われた。
だが、タチカゼが走った。
一歳牡馬も、母の影から少しずつ前を見始めている。
それが偶然で終わるのか、榊原ファームの血としてつなぐのか。
その差は、次の一手に出る。
「兄さん」
美緒が言った。
「見るなら、馬房で見た方がいいんじゃない」
恒一は頷いた。
事務所を出ると、朝の冷気が肌に触れた。厩舎の中には、乾草の匂いと、少し湿った敷料の匂いが混ざっている。通路の奥で、シラユキノハナがこちらを見た。
大きく動かない。
耳だけを少しこちらへ向ける。
その横で、一歳牡馬が乾草を噛んでいた。母の腹の近くにいるが、前より体を寄せすぎていない。通路を見る時間が、少し長くなっている。
「おはよう」
恒一は低く声をかけた。
シラユキノハナは鼻を鳴らした。
美緒が馬房の前で作業表を見た。
「夜の乾草、少し残ってる」
「水は?」
「減ってる。多くはないけど、悪くない」
恒一は水桶の縁を見た。濡れた跡が、昨日より少し低いところについている。飼葉桶の底には、細かな粉が残っていた。食べ残しの形も、いつもの範囲に収まっている。
数字だけなら、大きな異常はない。
それでも、高齢の受胎牝馬は、数字だけで安心していい相手ではない。
恒一は馬房の柵に手をかけた。
「急がなくていい」
誰に言うでもなく、シラユキノハナへ向けて言った。
一歳牡馬が首を上げた。少しだけ母から離れ、二歩こちらへ寄る。途中で止まり、蹄を敷料に沈めた。逃げるわけでも、前へ突っ込むわけでもない。
恒一はその立ち方を見た。
首を高くしすぎない。
背中を固めない。
息を深く入れて、急いで吐かない。
派手ではない。
だが、この馬は母から何かを受け取っている。
恒一は、手元の血統図にレッドアークの名前を重ねた。
視界の奥に、淡い表示が浮かぶ。
【配合相性:A-】
【心肺伝達:A】
【成長力補完:A】
【市場評価:C】
美緒が、恒一の顔を見た。
「何か出た?」
「ああ」
「いいの?」
「売るには悪い」
美緒は眉を寄せた。
「最初にそれ言う?」
「市場評価は低い。セリで強く見せる配合じゃない」
「じゃあ、悪いんじゃないの」
「悪いとは違う」
恒一は血統図を見下ろした。
レッドアークは、派手な馬体を押しつける種牡馬ではない。早い時期の見映えだけなら、上位候補に負ける。
だが、シラユキノハナの母系に重ねた時、息の深さと成長の伸びが噛み合う。
いま馬房の中にいる一歳牡馬の、無駄に力まない立ち方。
タチカゼが最後に踏ん張った、あの粘り。
そのどちらとも、同じ方を向いている。
「これ、走らせる理由は作れても、売る理由を作るのは大変だよ」
美緒はそう言って、作業表の端を指で押さえた。
「分かってる」
「セリで説明するなら、紙を作り込まないと無理だよ。写真もたぶん派手にならない。銀行にも、来年すぐ返りますとは言いにくい」
「そうだな」
「それでも?」
恒一は、馬房の中を見た。
シラユキノハナが乾草へ口を伸ばす。ゆっくり噛む。仔はその横で、一度だけ耳を動かした。
「うちの血を残すなら、こっちだ」
美緒は黙った。
通路の向こうで、別の馬が壁を軽く蹴った。三浦が見回りに入った気配がして、蹄音が少しだけ近づき、また遠ざかっていく。
美緒は赤い付箋のついた請求書を持ってきていなかった。
それでも、彼女の指は、何かを押さえるように作業表の端に置かれている。
「それ、兄さんの好き嫌いじゃないよね」
美緒が言った。
恒一はすぐに答えなかった。
好き嫌いではない、と言うのは簡単だった。
だが、シラユキノハナを諦めきれなかった時も、タチカゼを見捨てられなかった時も、そこには間違いなく恒一の感情があった。
感情がなければ、あの馬たちを見続けられなかった。
感情だけなら、牧場は潰れていた。
「好き嫌いも、入ってる」
恒一は言った。
美緒が顔を上げる。
「入ってるんだ」
「入ってる。俺は、この母系を諦めきれない」
「うん」
「でも、それだけなら選ばない。レッドアークは市場では弱い。けど、シラユキノハナの良さを消さない。上から塗らない。今あるものを、次へ伸ばす形になる」
美緒は一歳牡馬を見た。
仔は乾草を噛み終えると、また母の方へ半歩戻った。完全に寄り切らない。馬房の中で、少しだけ自分の場所を持ち始めている。
「この子を残した意味にもつながる?」
「つながる」
「どういうふうに」
美緒の声は、ただの確認ではなかった。
帳簿を見てきた人間の声だった。金を出せない時の怖さを知っている声だった。
恒一は作業表を指で押さえた。
「この仔を残したのに、次を市場の見映えだけで作ったら、うちはシラユキノハナを説明できなくなる」
「タチカゼが走ったから、たまたま残しました、になる?」
「そうだ。レッドアークなら、この母系から何を見ているのか、続けて説明できる」
「説明できても、売れなきゃ困る」
「ああ」
「走らなかったら?」
美緒の言葉が、通路に落ちた。
恒一は血統図を握った。
表示は出ている。
相性も見えている。
心肺も、成長も、数字は強い。
それでも、受胎しなければ終わる。無事に生まれなければ終わる。育成で崩れれば終わる。走る前に脚元を痛めることもある。
馬は、紙の通りには生きない。
まして、シラユキノハナは若くない。
「その時は、一年を失う」
恒一は言った。
美緒は目を伏せた。
「種付け料は上位より安い。でも、ゼロじゃない。受胎後の管理費も増える。外せば、今年の配合判断だけじゃ済まない」
「来年の支払いにも響く」
「ああ」
「銀行に、走るかもしれません、では通らない」
「通らない」
美緒は小さく息を吐いた。
「じゃあ、今日決めないで」
恒一は美緒を見た。
「止めるのか」
「違う。兄さんが今決めたら、シラユキノハナの方を見ないで血統図だけで決めたことになる」
美緒は馬房の中へ視線を戻した。
「この子たちを見て決めるんでしょ」
恒一は何も言えなかった。
その通りだった。
能力は見せる。
だが、決めるのは机の上だけではない。
恒一は、血統図を畳まなかった。けれど、胸ポケットに入れていた鉛筆も動かさなかった。
「レッドアークは、深く見る」
美緒の肩がわずかに動いた。
「決めるんじゃなくて?」
「予約の空きと条件は確認する。上位候補も消さない。でも、次にちゃんと見るのはレッドアークだ」
「今はそこまで?」
「ああ。シラユキノハナの状態をもう一度見る。玲奈さんにも確認してもらう」
「それなら、いい」
美緒はそう言ってから、少しだけ口を曲げた。
「よくはないけど」
「分かってる」
「兄さん、こういう時だけ顔が頑固になる」
「いつもだろ」
「いつもより」
一歳牡馬が鼻を鳴らした。
美緒がその音に少し笑った。
「ほら、言われてる」
恒一は馬房の中を見た。
「お前も、そう思うか」
仔は答えない。
ただ、母の横でゆっくり息をしていた。
事務所へ戻ると、机の上の紙はまだそのままだった。
上位候補の横には、赤い付箋のついた請求書。
レッドアークの名前の横には、一歳牡馬の作業表。
どちらも、動かない。
恒一は血統図を広げ直し、レッドアークの名に指を置いた。
紙の上では弱い。
それでも、赤い付箋の横で見たどの候補より、その名前だけが恒一の目に残った。
その時、机の端で携帯が震えた。
画面には、天城玲奈の名前が出ている。
恒一はすぐに取った。
「榊原です」
短い沈黙があった。
電話の向こうで、風の音が小さく混じっている。
『恒一さん、シラユキノハナですが……少しおかしいです』
恒一の指が、血統図の上で止まった。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇中
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- シラユキノハナ:高齢受胎管理継続/玲奈より異変連絡
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/母系継承価値の検討材料
- レッドアーク:市場評価C/シラユキノハナ配合重点確認候補
- 黒峰の種牡馬候補リスト:市場評価上位候補は保留
- 次の勝負:シラユキノハナの静かな異変を見極める




