第87話 市場に映える配合
黒峰のリストには、昨夜つけた鉛筆の跡が残っていた。
一番上の種牡馬名には、丸ではなく、短い横線だけを引いてある。
消すには強すぎる。
選ぶには、何かが違う。
恒一は、その線を見たまま指を止めていた。
事務所の窓は、夜の冷気で少し曇っている。馬房の方から、乾草を噛む音が細く聞こえた。作業表には、いつものように水桶の減りと、乾草の食いと、シラユキノハナの一歳牡馬が壁を蹴った回数が書かれている。
机の上では、それとは別の紙が存在感を持っていた。
種牡馬候補リスト。
セリで説明しやすい。
購買者に話を通しやすい。
種付け料は高いが、無理をすれば届く。
そして、売れそうだった。
美緒は椅子に座ったまま、リストの一番上を見ている。指先は種付け料の欄に置かれていた。昨日から何度も見たせいで、紙の端が少し柔らかくなっている。
「これ、嫌だね」
美緒が言った。
恒一は顔を上げた。
「高いからか」
「高いのは嫌だけど、それだけならまだ怒れる」
美緒はリストを爪で軽く叩いた。
「売れそうだから嫌」
事務所の外で、シラユキノハナが鼻を鳴らした。
大きな音ではない。けれど、その音がしただけで、紙の上に並んだ名前が少し遠くなる。
黒峰が上位に置いた候補は、どれも市場に映える馬だった。
セリ名簿に載せた時、買い手が足を止める理由を作れる。
銀行に見せても、説明の順番に迷わない。
紙の上では、綺麗だった。
恒一は一番上の種牡馬名に目を落とした。
大手牧場が押している新種牡馬。現役時代の勝ち方も派手で、産駒の初年度評価も高い。写真映えする馬体を出しやすく、セリではプロフィールだけで声がかかる。
横の欄には、黒峰の字で短く書かれている。
市場説明容易。
購買層広い。
母系補強は限定的。
昨夜見た時と同じように、淡い表示が浮かぶ。
【市場評価:A】
そこだけなら、迷う理由はない。
だが、母系を伸ばす欄は、何度見ても強くならなかった。
シラユキノハナの名前。
タチカゼを出した牧場の名前。
そこに、この種牡馬の名前を載せる。
買い手に向けて並べる言葉は揃う。
だが、恒一はその表示を見たまま、すぐには頷けなかった。
「市場評価、いいの?」
美緒が聞いた。
「ああ。上だ」
「配合としては?」
「悪くはない」
「悪くはない、って顔じゃない」
美緒は帳簿を引き寄せた。
今月の支払い予定には、まだ赤い付箋が残っている。剥がしたい紙ばかりだった。乾草代、獣医代、削蹄代、受胎後管理費。どれも馬房の中に直接つながっている。
美緒はリストと帳簿を見比べた。
「この配合なら、来年のセリで強く出られる。たぶん、銀行にも説明しやすい」
「そうだな」
「そうだな、で終わらせないでよ」
美緒の声が少し荒くなった。
「これ、悪い話じゃないんでしょ。兄さんが嫌いな、馬を道具にする話でもない。ちゃんと売れる馬を作るって、牧場には必要なことでしょ」
恒一は否定しなかった。
売れる配合を選べば、乾草代の赤い付箋を剥がせる。獣医を呼ぶ時、電話口で一瞬黙らずに済む。次の種付けを、最初から諦めなくて済む。
馬房の扉を明日も開けるために、売れる馬を作る。
それも牧場の仕事だった。
恒一は、作業表の横に置かれた請求書を見た。
一歳牡馬を残すと決めた。
その判断で、来月と再来月の楽さを手放した。
ならば、次の配合で市場を取りに行く。
そう考えるのは、経営者としておかしくない。
「美緒」
「なに」
「この配合で生まれた仔は、売りやすい」
美緒は唇を結んだ。
「うん」
「馬体も派手に出る可能性が高い。タチカゼの後に、シラユキノハナでこういう配合をしました、と言えば話は作れる」
「銀行にも言える」
「ああ」
「じゃあ、何が違うの」
美緒はリストを恒一の前へ押し出した。
紙の角が、帳簿の赤い付箋に触れた。
「兄さんは、こういうのを最初から嫌がる時がある。でも、うちは黒峰スタッドじゃない。嫌だって言ってる間に、支払い日は来る」
恒一はリストを見た。
美緒の言葉は正しい。
正しいから、痛かった。
黒峰のリストは、罠ではない。上から目線の挑発だけでもない。榊原ファームが生き残るための、ひとつの現実的な道だった。
見映えで足を止める。
説明で不安を消す。
市場評価で資金を戻す。
その道を否定すれば、きれいごとになる。
恒一は、一歳牡馬の馬房を思い出した。
シラユキノハナの影から、通路を見る目。
まだ幼いのに、首を無理に高く使わない立ち方。
派手さはないが、余計な力の抜けた背中。
あの馬を残したのは、売る値段が足りなかったからではない。
榊原ファームが、次に何を作るかを外へ渡さないためだった。
「嫌いだから外すんじゃない」
恒一は言った。
美緒は黙っている。
「市場に寄ること自体は必要だ。うちは、走ればいいだけの牧場じゃない。売れなきゃ続かない」
「じゃあ」
美緒の指が、帳簿の上で止まった。
外で、またシラユキノハナが鼻を鳴らした。
「入口を作る配合だ」
恒一はリストの上に指を置いた。
「悪くない。売れる。説明もしやすい」
「……でも、シラユキノハナじゃなくても成立する?」
美緒の言葉に、恒一は少しだけ黙った。
「そういうことだ」
美緒はリストに目を落とした。
「それじゃ駄目なの?」
「駄目ではない」
「じゃあ、余計に嫌だね」
美緒は小さく笑った。笑ったというより、息が少しだけ崩れた。
「駄目なら、怒れるのに」
恒一はその言葉に返せなかった。
机の上にあるのは、悪い配合ではない。
むしろ、よくできている。
黒峰は、榊原ファームが金に困っていることも分かっている。市場の説明に苦労していることも分かっている。その上で、手の届くぎりぎりの候補を並べてきた。
無理をすれば届く。
届いた先には、売れるかもしれない未来がある。
だからこそ、簡単に否定できない。
恒一は二番目の候補に目を移した。
最初の三秒で人を止める。
馬体の輪郭を早く作る。
説明の紙を強くする。
三番目も、似ていた。
紙にすれば、どれも強い。
写真を添えれば、もっと強い。
けれど、どれも母系の奥で止まる。
恒一の胸の奥で、何かが少しずつ沈んでいった。
「兄さん」
美緒が言った。
「これ……黒峰さんに見せる顔を考えてない?」
その声は小さかった。
恒一はすぐに否定できなかった。
机の端に置かれた封筒には、黒峰スタッドの名が薄く印字されている。
恒一は、一歳牡馬の作業表に目をやった。
今日の欄には、壁を蹴った回数と、通路を見る時間が書かれている。金にもならない記録だった。
だが、その記録を捨てたら、あの馬を残した意味は薄くなる。
「見せる顔で選んだら、駄目だな」
恒一は言った。
美緒は頷かなかった。
ただ、赤い付箋を一枚、爪で押さえた。
「黒峰さんのリスト、よくできてる」
「ああ」
「よくできてるから、余計に怖いね」
事務所の時計が、小さく音を刻む。
日付が変わるまで、まだ少しある。だが、支払い日は待ってくれない。種付けの予約も、迷っている間に埋まる。
恒一はリストの上位候補に、鉛筆で小さく印をつけた。
候補から消す印ではない。
市場に寄る配合として、残す印だった。
美緒はその印を見て、少しだけ眉を寄せた。
「外すんじゃないんだ」
「外さない」
「選ぶ顔でもないけど」
「選ばないと決めるのと、見ないことにするのは違う」
恒一は鉛筆を置いた。
「市場に映える配合を知らないままでいたら、売る時に何が足りないかも分からない」
美緒は少しだけ表情を緩めた。
「嫌いだから見ない、じゃないんだ」
「そんな余裕はない」
「うん。ないね」
美緒は帳簿を閉じなかった。
赤い付箋は、まだ見えている。
恒一はリストの下へ目を移した。
上位候補の欄は、どれも整っていた。種付け料、購買者への説明、産駒傾向。黒峰の短評も、無駄がない。
だが、下へ行くほど、市場評価は落ちていく。
種牡馬としての人気が弱い。
産駒の売却実績が少ない。
写真で映える馬体を出すとは限らない。
説明に時間がかかる。
その中で、一頭だけ、恒一の指が止まった。
名前は、上位候補ほど強くない。
セリで父名を聞いただけで人が集まる馬ではない。種付け料は現実的だが、その分、派手さもない。黒峰の短評も短かった。
市場訴求弱い。
母系次第。
即時回収には不向き。
美緒が横から覗き込む。
「それ、下の方だよね」
「ああ」
「市場評価は?」
恒一の視界に、短く表示が浮かんだ。
【市場評価:C】
ほかの欄は、まだ滲んで見えた。
はっきり読めない。
だが、上位候補では動かなかった場所が、わずかに反応している。
「兄さん?」
美緒の声が少し低くなる。
「何か見えた?」
恒一はすぐには答えなかった。
窓の外で、シラユキノハナがまた鼻を鳴らした。
その音は小さい。
けれど、机の上の紙よりもずっと近かった。
恒一はリストの下の方にある、その種牡馬名に指を置いた。
「市場には映えない」
「うん」
「でも、これだけ少し違う」
美緒はリストを覗き込んだまま、眉を寄せた。
「売る時、きつそうだね。銀行に持っていったら、たぶん最初に渋い顔される」
「されるだろうな」
「……なのに、捨てる顔じゃない」
恒一は封筒を見た。
黒峰の意図は分からない。
市場に寄るかを試すためか。
それとも、ここへ目を止めるかを見るためか。
どちらにしても、紙の上の勝負はもう始まっていた。
恒一は、上位候補につけた印とは別に、下の一頭へ小さな丸をつけた。
美緒は丸を見たまま、鉛筆の先を追った。
恒一はリストを閉じなかった。
赤い付箋のついた請求書は、上位候補の横にある。
作業表は、丸をつけた下位候補の横にある。
どちらも、同じ机の上から動かなかった。
恒一は、丸をつけた種牡馬名の横に、もう一度だけ指を置いた。
紙の上では弱い。
それでも、赤い付箋の横で見たどの候補より、その名前だけが恒一の目に残った。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- シラユキノハナ:高齢受胎管理継続
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/母系継承価値の検討材料
- 黒峰の種牡馬候補リスト:市場評価上位候補を確認
- 次の勝負:市場に映えない種牡馬候補の正体を見極める




