第86話 静かな試験
黒峰からの封筒は、その日の夜に届いた。
郵便ではなかった。
坂の下に黒い車が止まり、黒峰スタッドの名刺を持った男が事務所まで封筒を届けてきた。男は余計な説明をしなかった。美緒が受け取りに出ると、頭を下げ、短く用件だけを告げて帰っていった。
残ったのは、厚みのある白い封筒だけだった。
事務所の机の上で、その封筒だけが妙に綺麗に見える。
「……普通、こういうのって郵送じゃない?」
美緒が封筒を指先で押した。
中で紙の束がわずかに沈む。請求書ではない。けれど、軽い紙でもなかった。
「急がせたいんだろ」
恒一は封筒の角を見た。
折れも汚れもない。誰かの鞄の中で他の書類と擦れた跡もない。用意され、運ばれ、まっすぐここに置かれた紙だった。
「馬を見たその日に?」
「今日見たから、今日送ってきたんだと思う」
「……嫌な早さ」
美緒はそう言いながらも、封筒から目を離さなかった。
昼間、黒峰はシラユキノハナの一歳牡馬を見た。
売らないと答えた馬。
牧場に残すと決めた血。
市場の値段ではなく、榊原ファームの中で時間をかけると決めた一頭。
黒峰は、その判断を否定しなかった。
ただ、最後にこう言った。
なら、その血で何を作るのか見せてもらいます。
封筒は、その言葉の続きのように見えた。
恒一は封を切った。
中には数枚のリストと、短いメモが入っていた。黒峰の字は細く、余白が多い。読む側に考えさせるような書き方だった。
『榊原さんが、どこまで市場に寄るのか。少し興味があります』
美緒が横から覗き込んだ。
「……嫌な書き方」
「黒峰さんらしい」
「親切なのか、試してるのか分からない」
「両方だ」
恒一はリストを机に広げた。
一番上には、シラユキノハナの名がある。その下に、来季以降の種牡馬候補が並んでいた。
まだ腹の仔は生まれていない。
シラユキノハナは高齢で、今の受胎を無事に越えられるかも最後まで分からない。水桶も、乾草も、分娩も、何一つ終わっていない。
それでも、紙の上では次の春がもう始まっていた。
「早いね」
美緒が低く言った。
「ああ」
「まだ、あの子も生まれてないのに」
恒一は答えなかった。
机の端には、今日使った作業表が残っている。シラユキノハナの食い、歩様、腹の張り、放牧時間。手書きの線が何本も走っている。
その横に、黒峰のリストが置かれていた。
同じ馬の未来を扱う紙なのに、質感がまるで違う。
作業表は、馬房の湿り気を吸って少し反っている。黒峰のリストは、乾いて、白く、まっすぐだった。
美緒が上位候補の欄に指を置く。
「父の名前、強いね」
「強いな」
「これなら、セリで説明しやすい」
「ああ」
「買い手も、たぶん話を聞く」
恒一はその欄を見た。
父の実績。
産駒傾向。
想定価格帯。
過去の落札例。
種付け料。
黒峰のリストは、実によくできていた。
ただ高い馬を並べているわけではない。榊原ファームの今の立場なら、無理をすれば届く。しかも、選べば外に説明しやすい。
美緒の指が、種付け料の欄で止まった。
「高いけど……これなら売る時、話は早いよね」
「早い」
恒一は否定しなかった。
美緒は少しだけ眉を動かした。
「銀行にも言いやすい」
「言いやすい」
「タチカゼの名前が少し出て、アオバノミチの相談も戻ってきて、黒峰さんが一歳牡馬を見に来た。ここで分かりやすい配合を出せたら、うちの名前はもう少し外に残る」
「そうだな」
「分かってるなら、何でそんな顔するの」
恒一はすぐには答えなかった。
売れる配合は悪ではない。
買い手に伝わらない馬ばかり作っても、飼料代は払えない。銀行に説明できない理想だけでは、馬房の屋根は直らない。
黒峰のリストは、その現実を突いていた。
恒一の視界に、表示が浮かぶ。
【市場評価:A】
【短期説明力:高】
【資金回収見込み:中〜高】
【配合相性:B-】
【心肺伝達:C+】
【成長力補完:C】
紙の上では、綺麗だった。
今の榊原ファームには、魅力のある選択だった。
だが、表示の下の方が重かった。
配合相性。
心肺伝達。
成長力補完。
派手には売れる。
けれど、シラユキノハナの母系を伸ばす配合ではない。
恒一は、昼間の一歳牡馬を思い出した。
黒峰の前で、あの馬を売らないと答えた。値段がつくかではなく、牧場の中で育てる価値があると決めた。あの馬の奥にあるものを、まだ切りたくないと思った。
その翌日に、市場で説明しやすい配合を選ぶ。
間違いではない。
だが、同じ方向を向いているとも言い切れなかった。
美緒がリストの二番目、三番目へ指を移した。
「こっちも似てるね」
「ああ」
「少し種付け料は落ちる。でも、買い手への説明はしやすい」
「上の方は、そういう候補で固めてる」
「黒峰さん、分かってて並べてるよね」
「分かってる」
「うちが今、何に弱いかも」
美緒の声が少しだけ低くなった。
机の端には、請求書も残っている。
飼料代。
獣医代。
人件費。
一歳牡馬の育成費見込み。
黒峰のリストは、そこにも答えを出そうとしていた。市場に映える父を選び、売る時の説明を作り、未来の回収を語る。そうすれば、今ある赤い数字にも意味を与えられる。
美緒が言う。
「これを選んだら、楽になる?」
「少しは」
「少しでも、今は大きいよ」
「分かってる」
「じゃあ、何が嫌なの」
責めている声ではなかった。
金を見る人間の声だった。
恒一はリストの上位候補から目を離せなかった。
「嫌とは言ってない」
「顔が言ってる」
「……」
「兄さん、馬を見る時は黙るけど、お金を見る時はもっと黙る」
「分かりやすいな」
「家族だからね」
美緒は椅子に座り、封筒のメモをもう一度見た。
『榊原さんが、どこまで市場に寄るのか。少し興味があります』
短い一文なのに、読むたびに重さが変わる。
「これ、答えたらどうなるの」
「選んだ候補で、向こうの見方が変わる」
「上の候補を選んだら?」
「現実を見ていると思われる」
「下の候補を選んだら?」
「説明に苦労する牧場だと思われる」
「どっちも嫌だね」
「どっちも正しい」
美緒はリストの上に置いた指を少しだけ引いた。
触れれば選んでしまうように、紙から距離を取る。
「売れる馬を作るのは、逃げじゃないよね」
「逃げじゃない」
恒一はすぐに答えた。
「売れる馬を作るのも、生産の力だ」
「うん」
「牧場を潰さないための現実でもある」
「うん」
「でも、シラユキノハナの一歳牡馬を残した意味と、この上位候補はまだつながってない」
美緒は何も言わなかった。
事務所の外で、馬が一度だけ鼻を鳴らした。夜の厩舎から、乾草と湿った土の匂いが流れてくる。
机の上では、黒峰のリストだけが白い。
美緒が低く言う。
「悪い話じゃないから、余計に嫌だね」
恒一はリストを閉じなかった。
閉じれば逃げになる気がした。開いたままにしておけば、紙に押される気もした。
どちらにしても、選ばなければならない。
黒峰の封筒は、ただの親切ではなかった。
榊原ファームが、どこまで市場に寄るのか。どこから血を残すのか。
それを測るための、静かな試験だった。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B+
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:51%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇中/高齢受胎管理注意
- 自家保留価値:A
- 牧場ブランド:B+
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ:受胎状態継続/来季配合候補検討開始
- シラユキノハナ腹の仔:受胎継続/母体管理優先
- シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留方針継続/黒峰が注視
- ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
- タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
- アオバノミチ:売却後の管理記録が信用化
- 黒峰の種牡馬候補リスト:受領/市場評価上位候補確認
- 次の勝負:市場に映える配合を選ぶか、母系を残す配合を探すか




