第85話 見せるということ
『シラユキノハナの一歳牡馬を、一度見せていただきたい』
黒峰の声は、受話器の向こうで揺れなかった。
恒一は、すぐには返事をしなかった。
窓の外で、一歳牡馬が通路の明かりへ首を伸ばしている。母の後ろにいたはずなのに、耳だけが事務所の方を向いていた。
美緒は見積書の端を握ったまま、こちらを見ている。
タチカゼの記事。
タチカゼの記録ファイル。
シラユキノハナの一歳牡馬の育成費見積もり。
机の上に並んだ紙の順番が、そのまま黒峰の電話につながっていた。
「見せることはできます」
恒一は言った。
「ただし、売却前提ではありません」
美緒の指が、見積書の上で止まった。
受話器の向こうで、黒峰が小さく息を吐いた。
『その言葉を聞きたかった』
「どういう意味ですか」
『売る気があるなら、話は早い。ないなら、見る場所が変わる』
黒峰の声は淡々としている。
けれど、そこにある温度は低くなかった。値段を付ける人間の声ではなく、馬を見る前に人を見ている声だった。
『売り物を見る目で行くのか、榊原ファームが残す馬を見る目で行くのか。そこは、最初に分けておきたい』
恒一は受話器を握り直した。
「残す馬として見てください」
『分かりました。では、明日の午後に伺います』
美緒が、口だけで「明日?」と動かした。
恒一は机の上の見積書を見た。そこには、まだ赤い付箋がついたままだ。支払い期限の近いものだけを美緒がまとめた付箋だった。
「明日ですか」
『早い方がいい。記事を見て動く人間は、私だけではありません』
美緒の眉が寄った。
タチカゼの名前が外へ出た。
榊原ファームの名前も、その横に載った。
そこから見えるものを欲しがる人間は、必ずいる。
馬そのものを欲しがる者。
血を欲しがる者。
信用に乗りたい者。
どれも、今の榊原ファームには重い。
「分かりました。明日の午後でお願いします」
『一点だけ』
「はい」
『きれいに見せようとしなくていい。私は展示を見に行くわけではありません』
黒峰はそう言って、通話を切った。
受話器を戻したあとも、恒一はしばらく電話機から手を離せなかった。
美緒が、見積書を裏返した。
数字を見たくない時の癖だった。
「明日って、黒峰さんも遠慮ないね」
「早い方がいいと言ってた」
「そりゃ向こうはいいよ。見るだけなら明日でも今日でもいい。でも、こっちは蜘蛛の巣まで敵に見えるんだけど」
「蜘蛛の巣は取る」
「そこは取るんだ」
「馬の目に入る」
美緒は一瞬だけ笑いかけて、すぐに見積書の裏へ視線を落とした。
笑っていられる話ではない。
黒峰が見るのは、一歳牡馬だけではない。馬房の掃除、飼葉桶の位置、水桶の減り、作業表の字、母馬との距離。榊原ファームがその馬をどう扱っているか、全部見られる。
「飾らなくていい、って言われる方が困る」
美緒は裏返した見積書の角を、親指で押さえた。
「飾るなってことは、普段がそのまま出るってことでしょ」
「ああ」
「普段ってさ、けっこう汚いよ。乾草も落ちるし、桶も傷だらけだし、兄さんの字は急いでる時ひどいし」
「字は直せない」
「直す努力はして」
美緒はそう言ってから、窓の外を見た。
「でも、きれいに書き直したら、それはそれで違うんだよね」
「違う」
「面倒くさいな、見せるって」
恒一は答えなかった。
売るためなら、見せ方はある。
立たせ方を整え、よく見える時間を選び、余計な情報を出さない。欠点は聞かれた時だけ答える。馬体の良さを前へ出して、今後の伸びしろを言葉で足す。
だが、今回は違う。
残す馬として見せる。
その意味を、恒一はまだ腹の底まで飲み込めていなかった。
翌朝、恒一はいつもより早く馬房へ入った。
シラユキノハナは乾草を噛んでいた。高齢の母馬らしく、食べる速さは若い繁殖牝馬ほどではない。それでも、目の奥は落ち着いている。
一歳牡馬は、母の斜め後ろに立っていた。
人の気配に気づくと、すぐには近づいてこない。耳を前に向け、鼻先だけを少し伸ばす。母の肩越しにこちらを見て、それから通路の敷料へ視線を落とした。
恒一は扉の前で止まった。
「おはよう」
一歳牡馬は逃げなかった。
近づきもしなかった。
自分の距離を保ったまま、恒一の手元を見ている。
母親の後ろに隠れる仔ではない。
けれど、前へ出すぎるほど強気でもない。
その中間にいる。
そこが難しい。
美緒が通路の向こうからバケツを運んできた。中身はいつもの量だ。黒峰が来るからといって増やしていない。
「兄さん、作業表、昨日のまま出すから」
「ああ」
「止めないんだ」
「出すと言っただろ」
「一応、止める余地をあげたのに」
美緒はバケツを床に置いた。
「昨日の『壁を蹴る。強くはない』ってやつ、見た人によっては嫌がるよ」
「嫌がるなら、その理由を聞く」
「強気だね」
「強気じゃない」
恒一は一歳牡馬を見た。
「隠したまま残す方が怖い」
美緒は少し黙った。
その沈黙の間に、一歳牡馬が一歩だけ前へ出た。母の肩から首を離し、通路側へ鼻を伸ばす。美緒の持ってきたバケツではなく、恒一の袖口の乾草屑を嗅いだ。
湿った鼻先が、作業着に触れる。
「……この子、分かってやってる?」
美緒が小さく言った。
「何を」
「兄さんが一番弱いところに、鼻を置く感じ」
「馬にそんな計算はない」
「兄さんは馬に甘いから、そう言う」
美緒は飼葉桶の位置を直しながら、一歳牡馬を見た。
「でも、売らないって決めたら決めたで、見せるの怖いね」
「怖い」
「黒峰さんに低く見られたら、腹が立つ。高く見られたら、たぶんもっと困る」
恒一は答えに詰まった。
美緒が、そこを逃さなかった。
「やっぱり、そっちの方が怖いんでしょ」
一歳牡馬が、袖口から顔を離した。
恒一はその首筋へ手を伸ばさなかった。触りたくなったが、今は馬から来た距離をこちらが崩す時ではない。
「高く見られたら、売れば今月の数字は楽になる」
恒一は言った。
美緒は見積書を見なかった。見なくても、そこに並ぶ額は分かっている。
「乾草代も、預託費の頭金も、獣医代も、赤い印が減る」
シラユキノハナが乾草を噛む音だけが、馬房に残った。
「でも、赤い印を消す代わりに、この馬で積むはずだった時間も消える」
美緒は飼葉桶から手を離した。
「兄さん、そういうこと言う時だけ、迷いがないように見える」
「迷ってる」
「知ってる。だから余計に面倒」
一歳牡馬が、今度は美緒の方へ鼻を伸ばした。
美緒はすぐには触らなかった。手の甲を下に向け、匂いを嗅がせる。牡馬は一度鼻を鳴らし、それから母の方へ戻った。
「黒峰さん、嫌なところまで見るよね」
「見る」
「馬体だけじゃ済まない。兄さんの字とか、湿った敷料とか、私が言い訳したくなるところまで」
美緒は馬房の隅を見た。
敷料の少し湿った場所。昨日の壁蹴りの跡。飼葉桶の縁に残った細かい傷。どれも牧場の日常だ。だが、人に見せるとなると、急に言い訳したくなる。
「隠さない」
恒一は言った。
「でも、放っているようには見せない」
「それ、難しい」
「難しいから、今日の勝負だ」
午後、黒峰は時間通りに来た。
高そうな車を門の外に停め、革靴ではなく長靴に履き替えていた。上着も派手ではない。だが、立っているだけで、馬房の通路に余計な緊張が入る。
美緒は事務所の前で軽く頭を下げた。
「遠いところを、ありがとうございます」
「こちらが見たいと言ったので」
黒峰はそう返し、恒一へ目を向けた。
「記事の反響は?」
「問い合わせが二件。見学希望が一件です」
「断りましたか」
「保留にしました」
「正しい」
短い言葉だった。
褒めたのではない。確認しただけでもない。黒峰はその返答で、榊原ファームが浮き足立っていないかを測っていた。
恒一は、馬房へ案内した。
シラユキノハナは顔を上げた。耳を少し動かし、黒峰を見る。高齢の母馬らしく、無駄に騒がない。ただ、仔の前へ半歩だけ身体を置いた。
黒峰は、その動きを見逃さなかった。
「母がまだ守っていますね」
「はい」
「離す予定は?」
「まだ決めていません。焦って離す段階ではないと見ています」
「理由は」
恒一は、一歳牡馬を見た。
牡馬は母の後ろから黒峰を見ている。耳は前へ向いているが、前脚はすぐ動かない。通路の人間を確かめている。
「この馬は、前へ出る気はあります。ただ、納得する前に出すと、後ろへ逃げるより身体の中で固めるタイプです」
「固める」
「はい。人に合わせようとします。その分、最初の負荷を間違えると、気持ちより先に身体が硬くなると思います」
黒峰は黙って聞いていた。
美緒が、作業表を胸の前で持っている。渡すタイミングを迷っていた。
黒峰が、そちらへ目だけを向けた。
「記録を見せていただけますか」
美緒は一拍遅れて、紙を差し出した。
「きれいな紙じゃありません」
「きれいな紙を見に来たわけではありません」
黒峰は作業表を受け取り、目を通した。
水桶の減り。
乾草の食い。
壁を蹴る。強くはない。
母の後ろから通路を見る。
人の手にはすぐ寄らず、袖口の匂いを確かめる。
黒峰の指が、その一行で止まった。
「袖口の匂い」
「はい」
「展示なら、書かない項目です」
「展示ではないので」
黒峰が、初めてわずかに口元を動かした。
「なるほど」
一歳牡馬が、一歩前へ出た。
黒峰は近づかなかった。手も出さない。ただ、体の向きだけを少し斜めにした。正面から圧をかけない立ち方だった。
牡馬は通路の空気を嗅ぎ、黒峰の長靴へ視線を落とす。それから、また母の方へ戻った。
黒峰は、その戻り方を見ていた。
「逃げたというより、確認を終えた戻り方ですね」
「そう見ています」
「見せ方を作っていない」
「作れば、たぶんもう少し前へ出せます」
「出さなかった」
「はい」
黒峰は作業表を美緒へ返した。
「榊原さん」
「はい」
「この馬、値段を付けるなら難しい」
美緒の指が、紙の端を強く握った。
恒一は黙っていた。
「見た目だけで強く売れる段階ではない。母に守られている部分もまだ大きい。気性も派手に前へ出る馬ではない。買い手によっては、遅いと見るでしょう」
「はい」
「ですが」
黒峰は、一歳牡馬から目を離さなかった。
「榊原ファームが残す理由は分かります」
美緒が、小さく息を吸った。
恒一は返事をしなかった。
その言葉が、褒め言葉なのか、警告なのか、まだ分からなかったからだ。
「急がせる場所では削れる。甘く置く場所では、ただ遅れる」
黒峰は、牡馬の戻った位置を見た。
「この馬は、待てばいい馬ではありません。待ったあと、どこで前へ出すかを間違えない馬です」
恒一は喉の奥が乾くのを感じた。
まさに、そこだった。
金がない。
でも、安いだけの育成先には出せない。
残すと決めた馬ほど、選択肢が狭くなる。
「一つ、提案があります」
黒峰は馬房の前で、こちらを見た。
「うちが使っている育成場を紹介できます。費用は安くありません。ただ、急がせない馬の扱いは分かっている」
美緒の手元で、作業表が小さく音を立てた。
黒峰は続けた。
「もちろん、条件があります」
恒一は、一歳牡馬を見た。
牡馬は母の後ろに戻っていた。だが、耳だけはまだ通路の方へ向いている。
「聞かせてください」
恒一が言うと、黒峰は淡々と答えた。
「育成先を紹介する代わりに、成長記録を定期的に見せていただきたい。売却交渉ではありません。榊原ファームが、タチカゼの次に何を作るのかを見たい」
美緒が、恒一の横顔を見た。
机の上に置いてきた見積書の数字が、頭の中で嫌なほどはっきり浮かんだ。
助かる話だ。
同時に、作業表の汚い字も、馬房の湿った隅も、判断の遅れも、これから先は黒峰の目に入る。
金を借りるわけではない。
それでも、信用を預ける話だった。
黒峰は、急かさなかった。
馬房の中で、シラユキノハナが乾草を噛む音だけが続いていた。
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榊原恒一の現状
* 牧場経営力:A-
* 配合読解:B
* 繁殖観察:A
* 若駒評価:A
* 現場判断:A
* 資金繰り判断:A
* 交渉・信頼:A
* 牧場再建度:50%
榊原ファーム経営状況
* 現金余力:やや低
* 資金繰り危険度:高
* 繁殖牝馬群期待値:上昇
* 牧場ブランド:B+
* 倒産危険度:高
補助表示
* ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
* シラユキノハナ:高齢受胎管理継続
* タチカゼ:外部評価が牧場信用へ転化中
* シラユキノハナ一歳牡馬:黒峰が残す理由を認める/育成先紹介案が浮上
* 次の勝負:黒峰の育成先紹介を受けるか、距離を置くか




