↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
87/100

第84話 タチカゼはもう、うちの馬ではない

「読む?」


 美緒はスマホを差し出しかけて、途中で止めた。


 画面の明かりだけが、夕方の事務所で白く浮いている。戸締まりを終えたばかりの恒一の長靴から、通路の湿った土がマットに落ちた。


 恒一はすぐには手を伸ばせなかった。


 タチカゼの記事。


 その言葉だけで、馬房の湿った匂いが戻ってくる。輸送車のスロープの前で一度止まり、人の足音に耳を向けながら、目だけでこちらを見ていたあの朝のことまで、勝手に胸の奥へ戻ってきた。


「……見せてくれ」


 美緒はスマホを手渡さず、机の上に置いた。


 手から離したかったのかもしれない。


 ネット競馬ニュースの記事だった。


 大きな特集ではない。写真も派手ではない。レース結果のまとめに、少しだけ評価が添えられている程度の記事だった。


 それでも、見出しにはタチカゼの名前があった。


 恒一は画面に顔を近づけた。


 タチカゼ。


 その四文字だけで、息の仕方が少し変わる。


 美緒の指が、画面をゆっくり下へ動かした。


 本文の途中に、小さくその文字があった。


 生産、榊原ファーム。


 恒一は、息を止めた。


 たった一行だった。


 牧場の歴史を説明する文でもない。特別に称える言葉でもない。馬名、父母、関係者名の中に、榊原ファームという文字が置かれているだけだった。


 それだけなのに、事務所の中が少し狭く感じた。


「……出てる」


 美緒がぽつりと言った。


 嬉しそうではなかった。むしろ、困っている声に近かった。


 恒一は返事をしなかった。


 何か言えば、記事の中の一行が余計に遠くなる気がした。


「うちの名前なのにさ」


 美緒は画面から目を離さない。


「うちの馬じゃないんだよね」


 その言葉は、恒一が先に言うべきだったのかもしれない。


 タチカゼはもう、榊原ファームの馬ではない。


 飼葉の量も決められない。追い切りの強さも決められない。次をどこへ使うのか、休ませるのか、詰めるのか。恒一が口を出す話ではない。


 名前は戻ってきた。


 だが、馬房には戻ってこない。


 美緒がスマホの画面を消そうとして、指を止めた。


「兄さん、座ったら」


「いい」


「立ったまま読む記事じゃないよ、それ」


「座ると、余計に変な感じがする」


 美緒は少しだけ目を細めた。


「じゃあ、私は座る。兄さんの分まで」


 椅子の脚が床をこすった。


 その音で、恒一はようやく壁際の棚へ目を向けた。古い作業表を綴じたファイルが並んでいる。表紙には馬名が手書きされていた。角が擦れているものもあれば、まだ白さの残るものもある。


「タチカゼの記録、取ってくる」


「今それ見るの?」


「今見ないと、たぶん変なまま残る」


「変なのはもう十分変だけどね」


 美緒はそう言ったが、止めなかった。


 恒一は棚の前に立ち、背表紙を指で追った。


 ミカヅキノユメ。

 シラユキノハナ。

 フユノホシ。

 タチカゼ。


 タチカゼのファイルを抜き出すと、思ったより重かった。


 机に置いた瞬間、紙の束が低く鳴る。美緒が身を乗り出した。


「そんなにあったんだ」


「少ない方だ」


「それで少ないなら、この棚いつか床抜けるよ」


「抜ける前に直す」


「直すお金、どこから出すの」


 冗談の形をしていたが、美緒の声は笑っていなかった。


 恒一はファイルを開いた。


 最初のページには、売る前の馬房記録が挟まっている。


 水桶の減り。

 乾草の食い。

 右前を置く時の一瞬の迷い。

 人の足音に対する耳の向き。

 輸送車のスロープ前で止まった時の様子。


 文字は、今より少し荒い。


 当時の自分がどれだけ焦っていたか、線の乱れに残っていた。


「これ、北斗に渡したやつ?」


「一部は」


「全部じゃないんだ」


「全部渡しても、向こうが困る」


「兄さんの記録、たまに重いからね。紙も中身も」


 美緒はページの端をそっと押さえた。


 三浦からの短い報告も入っている。右手前の雑さ。前へ行きたがる気持ち。強めたあとの硬さ。春日からの調整方針を書き留めたメモもある。


 美緒が記事の画面を見ながら、口を尖らせた。


「ニュースには、こんなの一個も書いてない」


「書かないだろうな」


「水桶がどうとか、輸送車の前で止まったとか、右手前が雑とか」


「読む人が減る」


「でも、こっちはそこばっかり覚えてる」


 美緒は画面を軽く叩いた。


「記事って、ずるいね。走ったところだけ、きれいに切り取る」


 恒一は返せなかった。


 記事が悪いわけではない。読者が知りたいのは結果で、勝ち方で、次にどこまで行けるかだ。水桶の減りや輸送車の前で止まった朝のことまで、誰も読みたいわけではない。


 それでも、その朝がなければ今の一行もなかった。


「うちだけで作った一行じゃない」


 恒一は、ファイルの端を押さえた。


「でも、うちの時間も混じってる」


 美緒は少しだけこちらを見た。


「そういう言い方なら、まだ腹立たない」


「腹立ってたのか」


「立ってるよ。さっきからずっと」


 美緒は、机に散った乾草の屑を指先で集めた。


「記事に。うちに。兄さんにもちょっと」


「俺か」


「売ったの兄さんだし」


 言ってから、美緒はすぐに目をそらした。


「でも、売らなかったら、あの月を越えられなかったのも知ってる。だから余計に腹立つ」


 恒一は黙った。


 否定することではなかった。


 事務所の外で、一歳牡馬が壁を軽く蹴る音がした。強い音ではない。人の気配を確かめるような、小さな音だった。


 美緒が窓の方を見た。


「シラユキノハナの子だよね、今の」


「たぶん」


「最近、こっちの音ばっかり気にしてる」


「ああ。母親の後ろから、少しずつ前を見てる」


「兄さん、今ちょっと顔戻った」


「そうか?」


「うん。タチカゼの記事見てる時、帳簿を見てる時の顔だった」


 恒一はタチカゼのファイルを閉じようとして、手を止めた。


 机の上には、紙が増えていた。


 アオバノミチの通話メモ。

 印刷したばかりのハルノトーチの報告メール。

 タチカゼのファイル。

 シラユキノハナの一歳牡馬の育成費見積もり。


 売った馬の名前は、紙で戻ってくる。


 残した馬の名前は、支払い予定で先に来る。


 どちらも軽くない。


 美緒が見積書を引き寄せた。


「この記事、見学の話にもつながるよね」


「つながる」


「預けたいって人も、買いたいって人も、たぶん来る」


「来るかもしれない」


「来ても困るのに、来なかったらもっと困る」


 美緒は自分で言って、見積書を伏せた。


「何その仕事。性格悪すぎる」


「牧場だ」


「言い切らないでよ。逃げ場なくなる」


 声に棘が混じった。


 恒一は、机に置かれたスマホを見た。画面には、まだタチカゼの記事が残っている。


 その横には、未処理の見積書がある。紙の端に、美緒の指の跡が少しついていた。タチカゼの名前が外へ出たぶん、事務所の机には新しい紙が増えていく。


 美緒が、画面を見ないまま言った。


「嬉しい?」


 唐突だった。


 恒一はファイルから顔を上げた。


「タチカゼのこと」


 美緒は机の端を指でこすっていた。そこに付いた乾草の細かい屑が、爪に引っかかっている。


「私は嬉しい。嬉しいけど、勝ったみたいな顔はできない」


「勝ってないからな」


「うん。売った馬が走っただけ。だけ、って言うのも違うけど」


 美緒は少し乱暴に見積書の角を揃えた。


「タチカゼが走るほど、思うんだよ。あれ、うちが手放した馬なんだって」


 恒一は、ファイルの角を親指で押さえた。紙の端が少し反る。


「俺も思う」


「でも、売らなかったら、あの月で終わってた」


「ああ」


「北斗に行って、三浦さんが見て、春日先生たちが進めた。そこまで分かってるのにさ」


 美緒は記事の画面を見た。


「失敗じゃないって言えるのが、余計に腹立つ」


 恒一はファイルを閉じた。


 紙の束が、低く鳴った。


「痛くない売却なんて、たぶんない」


 美緒は少しだけ唇を噛んだ。


「それ、馬主さんの前では言わないでね」


「言わない」


「佐伯さんにも」


「言わない」


「黒峰さんには?」


「余計に言わない」


 美緒はそこで、ようやく小さく息を漏らした。笑いにはならなかったが、事務所の空気が少しだけ動いた。


 その時、電話が鳴った。


 美緒の指が、反射的に見積書を押さえる。


 恒一は受話器を取った。


「榊原ファームです」


 少し間があった。


 聞こえてきた声は低く、よく通った。


『黒峰です。今、よろしいですか』


 恒一は美緒と目を合わせた。


 美緒は声を出さなかった。けれど、口の形だけで「来た」と言った。


「はい」


『記事を見ました。タチカゼ、名前の戻り方が悪くない』


「ありがとうございます」


『褒めているだけではありません。ああいう戻り方をする馬を出した牧場は、次に何を残すのか見たくなる』


 黒峰の声は淡々としていた。


 持ち上げているのではない。測っている。


 美緒が机の上のタチカゼのファイルを、そっと端へ寄せた。


『正式にお願いがあります』


 恒一の指が、受話器のコードを押さえた。


『シラユキノハナの一歳牡馬を、一度見せていただきたい』


 事務所の空気が止まった。


 窓の外で、一歳牡馬がもう一度だけ壁を軽く蹴った。


 恒一は、反射的に窓の方を見た。


 母の後ろにいたはずの一歳牡馬が、通路の明かりの方へ首を伸ばしている。耳だけが、事務所の方へ向いていた。


 美緒は見積書の端を握っている。


 タチカゼの記事の画面は、まだ消えていなかった。



榊原恒一の現状


* 牧場経営力:A-

* 配合読解:B

* 繁殖観察:A

* 若駒評価:A

* 現場判断:A

* 資金繰り判断:A

* 交渉・信頼:A

* 牧場再建度:50%


榊原ファーム経営状況


* 現金余力:やや低

* 資金繰り危険度:高

* 繁殖牝馬群期待値:上昇

* 牧場ブランド:B

* 倒産危険度:高


補助表示


* ミカヅキノユメ:受胎後管理継続

* シラユキノハナ:高齢受胎管理継続

* タチカゼ:ネット記事で榊原ファームの名が外部評価として戻る

* シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留継続/黒峰から正式見学申し入れ

* 次の勝負:黒峰に一歳牡馬をどこまで見せるか

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。