第84話 タチカゼはもう、うちの馬ではない
「読む?」
美緒はスマホを差し出しかけて、途中で止めた。
画面の明かりだけが、夕方の事務所で白く浮いている。戸締まりを終えたばかりの恒一の長靴から、通路の湿った土がマットに落ちた。
恒一はすぐには手を伸ばせなかった。
タチカゼの記事。
その言葉だけで、馬房の湿った匂いが戻ってくる。輸送車のスロープの前で一度止まり、人の足音に耳を向けながら、目だけでこちらを見ていたあの朝のことまで、勝手に胸の奥へ戻ってきた。
「……見せてくれ」
美緒はスマホを手渡さず、机の上に置いた。
手から離したかったのかもしれない。
ネット競馬ニュースの記事だった。
大きな特集ではない。写真も派手ではない。レース結果のまとめに、少しだけ評価が添えられている程度の記事だった。
それでも、見出しにはタチカゼの名前があった。
恒一は画面に顔を近づけた。
タチカゼ。
その四文字だけで、息の仕方が少し変わる。
美緒の指が、画面をゆっくり下へ動かした。
本文の途中に、小さくその文字があった。
生産、榊原ファーム。
恒一は、息を止めた。
たった一行だった。
牧場の歴史を説明する文でもない。特別に称える言葉でもない。馬名、父母、関係者名の中に、榊原ファームという文字が置かれているだけだった。
それだけなのに、事務所の中が少し狭く感じた。
「……出てる」
美緒がぽつりと言った。
嬉しそうではなかった。むしろ、困っている声に近かった。
恒一は返事をしなかった。
何か言えば、記事の中の一行が余計に遠くなる気がした。
「うちの名前なのにさ」
美緒は画面から目を離さない。
「うちの馬じゃないんだよね」
その言葉は、恒一が先に言うべきだったのかもしれない。
タチカゼはもう、榊原ファームの馬ではない。
飼葉の量も決められない。追い切りの強さも決められない。次をどこへ使うのか、休ませるのか、詰めるのか。恒一が口を出す話ではない。
名前は戻ってきた。
だが、馬房には戻ってこない。
美緒がスマホの画面を消そうとして、指を止めた。
「兄さん、座ったら」
「いい」
「立ったまま読む記事じゃないよ、それ」
「座ると、余計に変な感じがする」
美緒は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、私は座る。兄さんの分まで」
椅子の脚が床をこすった。
その音で、恒一はようやく壁際の棚へ目を向けた。古い作業表を綴じたファイルが並んでいる。表紙には馬名が手書きされていた。角が擦れているものもあれば、まだ白さの残るものもある。
「タチカゼの記録、取ってくる」
「今それ見るの?」
「今見ないと、たぶん変なまま残る」
「変なのはもう十分変だけどね」
美緒はそう言ったが、止めなかった。
恒一は棚の前に立ち、背表紙を指で追った。
ミカヅキノユメ。
シラユキノハナ。
フユノホシ。
タチカゼ。
タチカゼのファイルを抜き出すと、思ったより重かった。
机に置いた瞬間、紙の束が低く鳴る。美緒が身を乗り出した。
「そんなにあったんだ」
「少ない方だ」
「それで少ないなら、この棚いつか床抜けるよ」
「抜ける前に直す」
「直すお金、どこから出すの」
冗談の形をしていたが、美緒の声は笑っていなかった。
恒一はファイルを開いた。
最初のページには、売る前の馬房記録が挟まっている。
水桶の減り。
乾草の食い。
右前を置く時の一瞬の迷い。
人の足音に対する耳の向き。
輸送車のスロープ前で止まった時の様子。
文字は、今より少し荒い。
当時の自分がどれだけ焦っていたか、線の乱れに残っていた。
「これ、北斗に渡したやつ?」
「一部は」
「全部じゃないんだ」
「全部渡しても、向こうが困る」
「兄さんの記録、たまに重いからね。紙も中身も」
美緒はページの端をそっと押さえた。
三浦からの短い報告も入っている。右手前の雑さ。前へ行きたがる気持ち。強めたあとの硬さ。春日からの調整方針を書き留めたメモもある。
美緒が記事の画面を見ながら、口を尖らせた。
「ニュースには、こんなの一個も書いてない」
「書かないだろうな」
「水桶がどうとか、輸送車の前で止まったとか、右手前が雑とか」
「読む人が減る」
「でも、こっちはそこばっかり覚えてる」
美緒は画面を軽く叩いた。
「記事って、ずるいね。走ったところだけ、きれいに切り取る」
恒一は返せなかった。
記事が悪いわけではない。読者が知りたいのは結果で、勝ち方で、次にどこまで行けるかだ。水桶の減りや輸送車の前で止まった朝のことまで、誰も読みたいわけではない。
それでも、その朝がなければ今の一行もなかった。
「うちだけで作った一行じゃない」
恒一は、ファイルの端を押さえた。
「でも、うちの時間も混じってる」
美緒は少しだけこちらを見た。
「そういう言い方なら、まだ腹立たない」
「腹立ってたのか」
「立ってるよ。さっきからずっと」
美緒は、机に散った乾草の屑を指先で集めた。
「記事に。うちに。兄さんにもちょっと」
「俺か」
「売ったの兄さんだし」
言ってから、美緒はすぐに目をそらした。
「でも、売らなかったら、あの月を越えられなかったのも知ってる。だから余計に腹立つ」
恒一は黙った。
否定することではなかった。
事務所の外で、一歳牡馬が壁を軽く蹴る音がした。強い音ではない。人の気配を確かめるような、小さな音だった。
美緒が窓の方を見た。
「シラユキノハナの子だよね、今の」
「たぶん」
「最近、こっちの音ばっかり気にしてる」
「ああ。母親の後ろから、少しずつ前を見てる」
「兄さん、今ちょっと顔戻った」
「そうか?」
「うん。タチカゼの記事見てる時、帳簿を見てる時の顔だった」
恒一はタチカゼのファイルを閉じようとして、手を止めた。
机の上には、紙が増えていた。
アオバノミチの通話メモ。
印刷したばかりのハルノトーチの報告メール。
タチカゼのファイル。
シラユキノハナの一歳牡馬の育成費見積もり。
売った馬の名前は、紙で戻ってくる。
残した馬の名前は、支払い予定で先に来る。
どちらも軽くない。
美緒が見積書を引き寄せた。
「この記事、見学の話にもつながるよね」
「つながる」
「預けたいって人も、買いたいって人も、たぶん来る」
「来るかもしれない」
「来ても困るのに、来なかったらもっと困る」
美緒は自分で言って、見積書を伏せた。
「何その仕事。性格悪すぎる」
「牧場だ」
「言い切らないでよ。逃げ場なくなる」
声に棘が混じった。
恒一は、机に置かれたスマホを見た。画面には、まだタチカゼの記事が残っている。
その横には、未処理の見積書がある。紙の端に、美緒の指の跡が少しついていた。タチカゼの名前が外へ出たぶん、事務所の机には新しい紙が増えていく。
美緒が、画面を見ないまま言った。
「嬉しい?」
唐突だった。
恒一はファイルから顔を上げた。
「タチカゼのこと」
美緒は机の端を指でこすっていた。そこに付いた乾草の細かい屑が、爪に引っかかっている。
「私は嬉しい。嬉しいけど、勝ったみたいな顔はできない」
「勝ってないからな」
「うん。売った馬が走っただけ。だけ、って言うのも違うけど」
美緒は少し乱暴に見積書の角を揃えた。
「タチカゼが走るほど、思うんだよ。あれ、うちが手放した馬なんだって」
恒一は、ファイルの角を親指で押さえた。紙の端が少し反る。
「俺も思う」
「でも、売らなかったら、あの月で終わってた」
「ああ」
「北斗に行って、三浦さんが見て、春日先生たちが進めた。そこまで分かってるのにさ」
美緒は記事の画面を見た。
「失敗じゃないって言えるのが、余計に腹立つ」
恒一はファイルを閉じた。
紙の束が、低く鳴った。
「痛くない売却なんて、たぶんない」
美緒は少しだけ唇を噛んだ。
「それ、馬主さんの前では言わないでね」
「言わない」
「佐伯さんにも」
「言わない」
「黒峰さんには?」
「余計に言わない」
美緒はそこで、ようやく小さく息を漏らした。笑いにはならなかったが、事務所の空気が少しだけ動いた。
その時、電話が鳴った。
美緒の指が、反射的に見積書を押さえる。
恒一は受話器を取った。
「榊原ファームです」
少し間があった。
聞こえてきた声は低く、よく通った。
『黒峰です。今、よろしいですか』
恒一は美緒と目を合わせた。
美緒は声を出さなかった。けれど、口の形だけで「来た」と言った。
「はい」
『記事を見ました。タチカゼ、名前の戻り方が悪くない』
「ありがとうございます」
『褒めているだけではありません。ああいう戻り方をする馬を出した牧場は、次に何を残すのか見たくなる』
黒峰の声は淡々としていた。
持ち上げているのではない。測っている。
美緒が机の上のタチカゼのファイルを、そっと端へ寄せた。
『正式にお願いがあります』
恒一の指が、受話器のコードを押さえた。
『シラユキノハナの一歳牡馬を、一度見せていただきたい』
事務所の空気が止まった。
窓の外で、一歳牡馬がもう一度だけ壁を軽く蹴った。
恒一は、反射的に窓の方を見た。
母の後ろにいたはずの一歳牡馬が、通路の明かりの方へ首を伸ばしている。耳だけが、事務所の方へ向いていた。
美緒は見積書の端を握っている。
タチカゼの記事の画面は、まだ消えていなかった。
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榊原恒一の現状
* 牧場経営力:A-
* 配合読解:B
* 繁殖観察:A
* 若駒評価:A
* 現場判断:A
* 資金繰り判断:A
* 交渉・信頼:A
* 牧場再建度:50%
榊原ファーム経営状況
* 現金余力:やや低
* 資金繰り危険度:高
* 繁殖牝馬群期待値:上昇
* 牧場ブランド:B
* 倒産危険度:高
補助表示
* ミカヅキノユメ:受胎後管理継続
* シラユキノハナ:高齢受胎管理継続
* タチカゼ:ネット記事で榊原ファームの名が外部評価として戻る
* シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留継続/黒峰から正式見学申し入れ
* 次の勝負:黒峰に一歳牡馬をどこまで見せるか




