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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第83話 売った馬の相談

 アオバノミチの馬房札は、まだ外していなかった。


 朝の見回りで何度も目に入った。外すのを忘れていたわけではない。


 扉の前を通るたび、恒一は札へ手を伸ばしかけた。けれど、指先が木札に触れる前に止まる。


 馬房の中では、アオバノミチが乾草を噛んでいた。


 もう榊原ファームの馬ではない。


 売却確認書には佐伯の名前が入り、引き渡しの段取りも決まっている。所有者の欄は、榊原ファームではなくなった。餌をどうするか、どこの育成先へ預けるか、いつから強めるか。それを決める権利は、もう恒一にはない。


 それでも、作業表にはいつもの癖で細かく書き込んでいた。


 乾草の減り。

 水桶の量。

 馬房から出る時の首の位置。

 通路の音に対する耳の動き。

 初めて見る青いバケツへの反応。


 ただの最終確認ではない。


 渡す前に、少しでも間違えにくくするための紙だった。


 恒一が扉の前に立つと、アオバノミチはすぐには顔を出さなかった。奥で耳だけをこちらへ向け、乾草を噛む音を一度止める。それから一拍置いて、鼻先を扉の上へ出した。


 急がせれば、崩れる。


 待てば、自分で踏む場所を決める。


 扉の前で一拍置くその癖が、今朝も変わらなかった。


 恒一は扉越しに手を伸ばした。


 アオバノミチは匂いを確かめるように鼻を寄せ、袖口に湿った跡だけを残した。甘えてくるわけではない。逃げるわけでもない。人の手を、自分の中で一度確かめてから受け入れる。


「お前は、急がなくていい」


 声に出してから、恒一は息を詰めた。


 もう、自分が急がせるかどうかを決める馬ではない。


 事務所に戻ると、美緒が電話の横に置いたメモを指で押さえていた。帳簿ではなく、その小さな紙を見ている時点で、金の話ではないと分かる。


「佐伯さんから。十時に電話」


「ああ」


「アオバノミチの育成方針、相談したいって」


 美緒はメモを裏返し、電話の横へ置き直した。


「売ったのに、相談してくれるんだね」


「してくれる相手に売った」


「兄さん、それ、ちょっと偉そう」


「……そうか」


「うん。あと、顔がもう危ない」


「顔?」


「口を出す気の顔」


 恒一は返事に詰まった。


 美緒は帳簿の端をめくり、セリ売上の数字と支払い予定を同時に見た。入った金は確かにある。だが、乾草代、獣医代、受胎後管理費、自家保留に回す一歳牡馬の育成費が、机の上で順番待ちをしている。


 売った。


 金は入った。


 けれど、終わったわけではない。


「兄さん」


「分かってる」


「まだ何も言ってない」


「売った馬に、こちらの都合で口を出しすぎない」


 美緒は少しだけ目を細めた。


「分かってるならいいけど。兄さん、馬のことになると、分かっててもやるから」


「……否定はできない」


 十時ちょうどに電話が鳴った。


 恒一が受話器を取ると、佐伯の声が入ってきた。商談の時より少しだけ低い。紙をめくる音が、受話器の奥で乾いて響く。


「榊原さん、今よろしいですか」


「はい。アオバノミチの件ですね」


「ええ。育成先とは大枠で話しました。こちらとしては、急がせない方針で進めたいと思っています」


 恒一は、すぐに「それがいい」と言いそうになった。


 言いかけて、飲み込む。


 向かいの席で、美緒がペンを止め、こちらを見ていた。


「いいと思います」


 恒一は言葉を選んだ。


「ただ、決めるのは佐伯さんと育成先です」


「もちろんです。だからこそ、榊原さんが見ていた範囲を聞きたい」


 佐伯の声には、遠慮があった。


 買った側が、売った側に相談する。

 それは簡単なことではない。


「この馬は、見た目より時間を使った方がいい。そういう理解で合っていますか」


「合っています」


「どこを見ればいいですか」


 恒一は作業表を引き寄せた。


 今朝、袖口に残った湿り気が、まだ乾ききっていない。紙の端を押さえる指に、その感触が戻ってくる。


「まず、馬房から出る時です」


「出る時?」


「すぐ前へ出るかどうかより、首の位置を見てください。頭を上げて人に合わせてくる日は、詰めない方がいいです。首を少し下げて、床を確かめてから出る日は、馬自身が納得しています」


 佐伯は口を挟まなかった。


 美緒は帳簿の余白に小さくメモを取っている。眉は寄っていた。止めるほどではないが、まだ危ない、という顔だった。


「輸送後は、到着直後の食いより夜です」


「夜?」


「はい。水は先に戻ると思います。乾草は遅れるかもしれません。夜の間に少しでも乾草へ戻るか、朝まで手をつけないか。そこを見てください」


「食べなかったら、軽く動かした方がいいですか」


「動かして戻そうとしない方がいいです」


 言ってから、恒一は自分の口調が強くなったのに気づいた。


 受話器を握る手に力が入っている。


「……すみません。指示ではありません」


「構いません。理由を聞かせてください」


「アオバノミチは、人に合わせます。嫌がって暴れる馬じゃない。だから、動かせば動きます。でも、納得しないまま動いた分が、後で硬さに出るかもしれない」


「なるほど」


「我慢しているのを、大丈夫と見ないでやってください」


 受話器の向こうで、佐伯が黙った。


 恒一も黙った。


 美緒のペン先が紙の上で止まっている。言いすぎたかもしれない。


 数秒して、佐伯が静かに息を吐いた。


「榊原さん」


「はい」


「今の話、育成先にそのまま伝えても?」


「構いません。ただ、こちらの指示としてではなく、榊原ファームで見ていた傾向として伝えてください」


「分かっています。買ったのはこちらですから」


「はい」


「ですが、こういう記録は助かります。売るための飾りではなく、預けた後に読む紙になっている」


 恒一は、作業表の端を見た。


 乾草の量。水桶の減り。馬房から出る時の首の位置。


 セリ場で声を大きくするための言葉ではない。馬を高く見せるための飾りでもない。売った後、別の人間が馬を見る時に、ほんの少し迷いを減らすための記録だった。


「売った後に困らない紙にしたつもりです」


「なら、困らないように使います」


 佐伯の声が少し低くなった。


「一頭、急がせて失敗したことがあります。嫌がらない馬だったので、こちらが大丈夫だと思ってしまった。あとから、待てばよかったと何度も思いました」


 恒一は、慰めの言葉を探さなかった。


 アオバノミチなら大丈夫です、とも言わなかった。


 馬は、こちらが安心したい時ほど、紙の通りにはいかない。


「アオバノミチも、絶対はありません」


「ええ」


「ただ、見ていたことは全部渡します」


「それで十分です」


 通話が終わると、美緒はすぐには何も言わなかった。


 代わりに、電話の横に置いたメモを指で引き寄せる。そこへ「首」「夜の乾草」「我慢を大丈夫と見ない」と書き足した。


「兄さん」


「ああ」


「途中、完全に口を出す人になってた」


「……なってたな」


「でも、佐伯さんが聞きたかったのも、たぶんそこだよね」


 美緒はペンを置いた。


「売った馬なのに、売った後の困り方まで見てたってこと」


 恒一は椅子にもたれず、机に置いた作業表を見た。


 金額にはならない。


 渡さずに済ませれば、紙は一枚減る。

 電話も減る。

 けれど、そのぶんだけ、次に馬を見る人の手元は薄くなる。


 昼過ぎ、今度はメールが届いた。


 ハルノトーチの買い手側からだった。


 美緒が画面を開く。最初に眉が寄ったのは、支払いの催促かと思ったからだろう。だが、本文を読んだ途端、表情が変わった。


「ハルノトーチの報告」


 恒一は机の向こうへ回った。


 本文は短い。


 美緒が声に出す。


「育成先搬入後、左前確認。熱感なし。ただし、戻りに軽い硬さあり。榊原ファーム確認書に合わせ、強い負荷は一段遅らせます」


 事務所の空気が、少しだけ沈んだ。


 熱感なし。


 それだけなら悪い報告ではない。

 だが、「硬さ」という言葉は軽くない。


 ハルノトーチは見映えのする馬だった。首の使い方も、馬体の張りも、立たせた時の空気も、セリ場では武器になった。だからこそ、人は進めたがる。


 早く形にしたくなる。

 早く見せたくなる。

 早く、この馬は当たりだと言いたくなる。


 その一歩目を、向こうは止めてくれた。


 メールには、もう一文あった。


 美緒の声が小さくなる。


「榊原さんの記録通り、戻りに少し硬さが出ました。先に分かっていたので、慌てずに済みました」


 派手な感謝ではない。


 落札額が上がるわけでもない。

 請求書の支払い期限が延びるわけでもない。

 明日の飼料代が安くなるわけでもない。


 それでも、恒一はその一文から目を離せなかった。


 隠さなかった傷が、売った後の現場で馬を一歩止めた。


 それだけだった。


 だが、その一歩で守れるものがある。


「言っておいて、よかったね」


 美緒が画面を伏せずに言った。


「ああ」


「あれ、怖かった。セリ前に脚元の話を出すの」


「俺も怖かった」


「言わなかったら、もっと高くなったかもしれない?」


「分からない」


「でも、言わなかったら、このメールは来なかった」


「来なかった」


 美緒は帳簿へ視線を落とした。


 セリ売上の数字は、牧場を助けた。

 ハルノトーチの金額は、間違いなく必要だった。


 だが、もし脚元の話を伏せて高く売っていたら、今日の「慌てずに済みました」は戻ってこない。


 代わりに戻ってくるのは、別の言葉だったかもしれない。


「売った後も、こっちの名前って残るんだね」


「残る」


 恒一は、報告メールの画面を見た。


「いい時だけじゃない」


 美緒はスマホを握ったまま、しばらく黙っていた。


 プリンターが短く唸り、紙を一枚吐き出した。美緒が立ち上がってそれを取り、机へ戻る。


 売却確認書の横に、佐伯との通話メモがある。

 その隣には、印刷したばかりのハルノトーチの報告メール。

 紙の端は、まだ少し反っていた。

 さらに奥には、シラユキノハナの一歳牡馬にかかる育成費の見積もりが、未処理のまま挟まっている。


 窓の外で、その一歳牡馬が通路の方へ首を伸ばしていた。母の馬房から離れすぎない距離で、人の動きをじっと追っている。


 美緒は見積書の角を揃えた。


「この子を残すって決めたのも、軽くないね」


「ああ」


「売った馬の評判が戻ってくるのを待ちながら、残した馬には先に金が出ていく」


「そういう仕事だ」


「兄さん、たまにひどいことを普通に言う」


 美緒はそう言ったが、笑ってはいなかった。


 帳簿の数字は、勝った気分を長く残してくれない。セリの入金額の下で、次の支払い予定が淡々と並んでいる。乾草。削蹄。獣医。預託。輸送。


 紙の上では、馬の名前より先に金額が目に入る。


 それでも恒一は、馬名の欄を指でなぞった。


 アオバノミチ。

 ハルノトーチ。

 シラユキノハナの一歳牡馬。


 インクは消えない。


 消えないものには、まだ金も手間もかかる。


 夕方、戸締まりを終えて事務所へ戻ると、美緒のスマホが鳴った。


 美緒は画面を見たまま、すぐには声を出さなかった。


 支払い関係の通知を見た時の顔ではない。

 嬉しい、と言い切れる顔でもない。


 指先だけが、スマホの縁で止まっている。


「兄さん」


「何だ」


「タチカゼの記事、上がってる」


 恒一は、濡れた長靴のまま事務所の入口で止まった。


 美緒は画面をこちらへ向けようとして、途中でやめる。


「読む?」


 恒一はすぐには答えられなかった。


 読む前から、事務所の時計の音だけが妙に大きく聞こえた。



---


榊原恒一の現状


牧場経営力:A-


配合読解:B


繁殖観察:A


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:A


交渉・信頼:A


牧場再建度:50%



榊原ファーム経営状況


現金余力:やや低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:上昇


牧場ブランド:B


倒産危険度:高



補助表示


ミカヅキノユメ:受胎後管理継続


シラユキノハナ:高齢受胎管理継続


シラユキノハナ一歳牡馬:自家保留継続/育成預託費見積もり確認へ


次の勝負:タチカゼの記事が榊原ファームの信用としてどう戻るか

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