第9話 見せる馬と、残す馬
見せる馬には、見せ方がある。
三浦史門がそう言った時、恒一は半分しか分かっていなかった。
馬は馬だ。
いいならいい。悪いなら悪い。
見せ方で中身が変わるわけじゃない。
だが、午後の厩舎でタチカゼを曳く史門を見て、恒一は自分の認識が甘かったことを思い知った。
「前に出しすぎないでください」
史門は手綱を握ったまま言った。
声は低い。怒鳴っているわけじゃない。
それなのに、妙に逆らいづらい。
「見映えのある馬ほど、張らせたくなるのは分かります。でも、この馬は気持ちが前に出ると、体が追いつく前に印象が崩れます」 「……さっきも言ってたな」 「だから今は、立ち姿より歩かせ方です」
史門はタチカゼを半歩だけ前に出し、止める。
首の位置をほんの少しだけ下げさせ、耳を前に向けさせる。
また歩かせる。
今度は、さっきよりずっと落ち着いて見えた。
「こんなに違うのか」 思わず恒一が言う。
「違います」 史門は即答した。 「人が見るのは一瞬です。その一瞬で“軽い”“急ぎそう”“雑に見える”と思われたら、その印象の方が残ります」 「中身は変わってないのに?」 「買う前に見えるのは、結局いま出てるものだけです」
その言葉は、痛いほど本質だった。
市場は、見えない価値に最初から高い金を出さない。
ならせめて、見せるべき価値はきちんと見せるしかない。
史門はタチカゼの肩口を軽く撫で、もう一度だけ歩かせた。
馬は少しだけ首を使い、前へ出たがる気持ちを無理なく前進に変えている。さっきまでの“勢いだけの若馬”感が、半歩薄くなっていた。
「兄さん」
美緒が小声で言う。
「なんか、急に高そうに見える」 「高そう、か」 「うん。さっきより“買っても大丈夫そう”に見える」 「それが見せ方です」
史門は振り返らないまま言った。
その時、車の音が近づいた。
三雲が顔を上げる。
「来たね」
砂利を踏んで入ってきたのは、灰色のSUVだった。
降りてきたのは、五十手前くらいの男と、その後ろに控える若いスタッフ。男の方は高価そうなコートを着ているが、歩き方に妙な軽さがない。値段だけで来る人間ではなさそうだった。
「坂口さん」 三雲が笑顔を作る。 「今日はありがとうございます」 「こちらこそ。面白い一歳がいるって聞いてね」
坂口はそう言いながら、すぐにタチカゼへ目を向けた。
視線に迷いがない。
素人じゃない。
「榊原です」 恒一が頭を下げる。 「坂口です。いや、いい顔してるね」
その一言に、恒一の心臓が少しだけ跳ねた。
だが、史門は表情を変えない。
「立ちますか」 坂口が言う。 「どうぞ」 史門が答える。
タチカゼを止める。
半歩だけ前へ。
頭の位置、耳、首差し、肩の見え方。
史門が何も言わなくても、馬が勝手に整って見える位置に収まる。
坂口はしばらく見て、それから歩かせるよう合図した。
「お願いします」
史門が曳く。
余計な動きはない。
タチカゼも、見られていることに変に昂ぶらず、前へ出たがる気持ちを抑えながら歩く。
坂口の目が細くなる。
「ほう」
その反応が良いのか悪いのか、恒一にはまだ分からない。
「どうです?」 三雲が聞く。
坂口はすぐには答えなかった。
もう一度だけ歩かせたあと、ようやく言う。
「見映えはいい」 「ありがとうございます」 恒一が言う。 「ただ」 坂口は続けた。 「普通に見せたら、もう少し軽く見えただろうね」
恒一の背中に、冷たいものが走った。
見抜かれている。
史門は淡々と答えた。
「そうですね」 「つまり、この馬は“見せ方まで含めて馬”ってことだ」 「そうです」
坂口は少しだけ笑った。
「面白い。正直なのは嫌いじゃない」
そこからは、ただ“褒められる時間”ではなかった。
「前向きさはある。ただ、急がせると雑になる?」 「なります」 史門が答える。 「体の支えが追いつく前に、気持ちだけが前へ出ます」 「早くからガンガン行くタイプじゃない」 「少なくとも、そこだけで押す馬ではないです」 「じゃあ、預け先は選ぶな」 「選びます」 「価格も、それ込みだな」
最後の一言で、現実が戻ってきた。
どれだけ見栄えがあっても、値段は夢だけじゃ上がらない。
むしろ、リスクまで込みで削られる。
坂口は今度、恒一の方を見た。
「榊原さん」 「はい」 「この馬、あなたはどう見てる?」
不意の問いだった。
史門でも三雲でもなく、恒一に向けられた。
しかも試すような目だった。
少しだけ間が空く。
嘘を言うべきじゃない。
盛っても、こういう相手には透ける。
「見映えは売りになります」 恒一は言った。 「ただ、見映えだけで雑に扱われると損する馬です。早い時期から前へ押すだけだと、たぶん良さが薄くなる」 「ほう」 「売るなら、ちゃんと先まで考える相手に売りたい」
言い切った瞬間、三雲がほんの少しだけ横目で見た。
馬商としては、もう少し柔らかく言いたかったかもしれない。
だが、坂口はむしろ面白そうに口元を動かした。
「安く見られたくない?」 「それもあります」 「でも、それだけじゃない」 「はい」
恒一はタチカゼを見た。
「この馬は、今月を助けるための馬です。でも、それだけで終わる馬にしたくはない」 「……」 「ここで雑に値段だけ作って、その先で潰れたら、結局うちも得しない」
言い終えると、厩舎の空気が少しだけ変わった気がした。
三雲は黙った。
美緒も息を詰めている。
史門だけが、最初からそうあるべきだと言わんばかりに表情を動かさない。
坂口はしばらく恒一を見ていたが、やがて小さくうなずいた。
「いいね」 「……ありがとうございます」 「少なくとも、分からずに出してる顔じゃない」
それは大きかった。
値段を上げる言葉ではない。
だが、値段を下げにくくする言葉ではある。
「もう一頭、見る?」 三雲が言う。 「牝馬の方も――」 「見ます」 坂口は即答した。
フユノホシの前に立つ。
こちらは最初から不利だ。
地味。細い。今はまだ形が出ていない。
坂口も、一目で華やかさがないことは分かったはずだ。
だが史門は何も言わず、フユノホシを少し歩かせた。
牝馬は少しだけ緊張したが、崩れない。
硬さはある。だが、投げない。
「こっちは今すぐ売る馬じゃないですね」 坂口が先に言った。
恒一は少し驚いた。
史門が言う前に、見抜いた。
「そう見えますか」 恒一が聞く。
「ええ。今はまだ薄い。でも、雑に安く買って得するタイプにも見えない」 「……」 「こういうのは、持てる人が持った方がいい」
その言葉に、恒一の胸の奥で何かが少しだけほどけた。
全部を分かってもらえるわけじゃない。
だが、見える人間には見える。
それだけで、かなり違う。
シラユキノハナの仔も見せることになった。
当然ながら、今の時点で値段の話になるような馬じゃない。
それでも坂口は見た。
そして、少しだけ笑った。
「地味だね」 「そうですね」 恒一が答える。 「でも」 坂口は続けた。 「地味な馬を残す時の顔をしてる」
またそれだ。
顔に出る。
どうやら隠せていないらしい。
「残します」 恒一ははっきり言った。 「売れないから、じゃありません」 「分かるよ」 坂口は笑う。 「そういう顔じゃない」
下見が終わって、事務所へ戻る。
そこから先は、馬を見る時間ではなく、値段の時間だった。
坂口は最初から高くは出さなかった。
当然だ。見映えはあるが、扱いを間違えると崩れる。そこはもう共有されている。
だが、安く叩く感じでもなかった。
「この条件なら」 坂口が言う。 「こちらとしては、このくらい」
紙に書かれた数字を見て、美緒の視線が鋭くなる。
助かる。
だが、余裕までは作れない。
そんな線だった。
三雲が口を開きかけたが、その前に史門が言った。
「この馬をその金額で持つなら、預け先はこっちで見たいです」 「おや」 坂口が眉を上げる。 「そこまで言う?」 「言います。雑に入れたら、あとで誰も得しない」
坂口は少し黙ったあと、笑った。
「面倒な二人だね」 「褒め言葉ですか」 恒一が聞く。 「半分は」
そのやり取りのあと、数字はほんの少しだけ上がった。
劇的じゃない。
だが、ちゃんと意味のある上がり方だった。
条件は仮合意。
最終判断は、向こうが一晩持ち帰る。
それでも、ゼロよりずっと前だ。
坂口たちが帰ったあと、事務所の空気が一気に抜けた。
「……疲れた」 美緒が机に突っ伏す。
「まだ決まってない」 恒一が言う。 「分かってる。でも、疲れたものは疲れた」 「それはそうだ」
三雲が苦笑する。
「正直、思ったより悪くないよ」 「決まると思うか」 恒一が聞く。
三雲は少しだけ考えた。
「五分五分、かな」 「嫌な確率だな」 「このご時世なら、むしろ悪くない」
史門は最後まで表情を変えなかったが、帰り際に一言だけ残した。
「タチカゼは、売る馬です」 「……ああ」 「でも、売るだけの馬じゃない。そこを忘れないでください」
それだけ言って、史門は車に乗った。
エンジン音が遠ざかるのを聞きながら、恒一は厩舎の方を見た。
見せる馬。
残す馬。
どちらも、結局はその先をどう繋ぐかだ。
そして今、自分の仕事ははっきりしている。
値段を待つことじゃない。
値打ちを作ることだ。
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榊原恒一
牧場経営力:C+
配合読解:D+
繁殖観察:B-
若駒評価:B
現場判断:B
資金繰り判断:C+
交渉・信頼:B-
牧場再建度:28%
榊原ファーム
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:C+
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:仮合意
育成先候補:北斗トレーニングファーム




