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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第8話 育成先で馬は変わる

 牧場の空気は、一頭動かすだけで変わる。


 それを恒一は、昨夜から嫌というほど思い知らされていた。


 ミヤコノユメの移動先を探し始めたせいで、人の出入りが増えた。馬房の前で立ち止まる時間も、話し声も、いつもより長い。たったそれだけの違いでも、馬は空気の揺れを拾う。


 フユノホシは、やはり敏かった。


 朝一番の様子も少し硬い。物音がすると耳がぴくりと立ち、鼻先をわずかに高く上げる。派手に暴れるわけじゃない。だからこそ、余計に分かりづらくて厄介だった。


「まだ抜けきってないね」


 馬房の前で、美緒が小さく言った。


「昨日よりはいい。でも、気にしてる」


「ああ」


「帳簿なら一行動かすだけなのに、馬房だと空気まで動くんだね」


「こういうのは一回崩すと面倒だ」


 恒一はフユノホシの顔を見た。

 繊細だ。けれど、それだけじゃない。繊細さの奥に、踏みとどまる芯もある。だから残したい。だから扱いを間違えたくない。


 問題は、その“間違えたくない”が今の牧場には贅沢になりかけていることだった。


 今日の午後、タチカゼの下見が入る。

 見栄えで今月を繋ぐための一手だ。


 だが、その一手が滑れば、また別の何かを切る話になる。


「こっちは後でまた見る」


 恒一が言うと、美緒もうなずいた。


「うん。今はタチカゼだね」


「ああ」


 タチカゼの馬房へ向かう。

 青鹿毛の一歳牡馬は、人の気配を感じると、少しだけ首を高くした。神経質というほどじゃない。だが、見られることに敏い。見栄えのいい馬らしいところでもある。


 恒一は手綱を握り直した。


 毛ヅヤは悪くない。

 朝のうちにもう一度丁寧に拭いた。首差しも、肩の角度も、立たせた時のまとまりも、一歳馬としては十分見られる。


 見られる。

 だから売る。

 だから売れるはずだ。


 ――そう思いたいだけかもしれない。


「兄さん」


 美緒が横で言った。


「今、顔に出てるよ」


「何が」


「“今日だけでいいから、ちゃんと高く見えてくれ”って顔」


「……出るな、そんなもん」


「出るよ。兄さん、馬のことだと隠すの下手だから」


 返す言葉がなかった。


 遠くで車の音がした。

 砂利を噛むタイヤが近づき、厩舎の前で止まる。


「来たね」


 美緒が言い終わるのと、三雲が車から降りるのは同時だった。


「お待たせ」


 いつもの人当たりのいい笑み。

 だが、その後ろから降りてきた男を見た瞬間、恒一の意識はそっちへ引かれた。


 背が高い。細く見えるのに、立ち方が妙にぶれない。黒いジャンパーの袖口には乾いた土の粉が残り、ブーツの縁には古い泥の跡が薄く固まっている。手は節が太く、指先だけが無駄に静かだった。


 人を見る前に、馬を見ている人間の手だった。


「紹介するよ」


 三雲が言う。


「北斗トレーニングファームの三浦史門さん。若馬の下見を頼まれててね」


 北斗トレーニング。

 名前は知っている。馬を壊さず、じわじわ作ることで評判の育成牧場だ。


「三浦です」


 史門は短く頭を下げた。愛想は薄い。

 だが、その目だけは最初からタチカゼに向いていた。


「榊原です」


「見せてもらいます」


「ああ」


 無駄な会話はなかった。


 史門はまず少し離れてタチカゼの全体を見る。首、肩、背、腹、トモ、脚元。次に近づき、鼻先の高さと耳の向きを見たあと、何も言わずに手綱を受け取った。


 歩かせ方が違う、と恒一は思った。


 前へ出すだけじゃない。

 馬の気を散らさず、変に詰まらせず、動きたがる気持ちだけを半歩だけ前へ置く。タチカゼもそれに引っ張られるみたいに、変な力みを出さず歩いた。


 一往復。

 二往復。


 止めたあとも、史門はすぐには口を開かなかった。


「どうですか」


 三雲が聞く。


 史門はタチカゼの前脚の着き方をもう一度だけ見てから、ようやく答えた。


「見映えは悪くないです」


「おっ、そこはいい?」


「そこは、です」


 その“です”で、恒一は嫌な予感がした。


「引っかかるところを先に言ってくれ」


 先に聞くと、史門は視線を馬から外さずに言った。


「前で立って見せる分にはまとまってます。でも、動かすと少し浅い」


「浅い?」


 美緒が聞き返す。


「踏み込みですか?」


「それもあります。あと、気持ちが先に行きやすい」


「どういう意味だ」


 恒一が聞く。


 史門はようやく恒一の方を見た。


「前へ出たい気はあります。でも、体の支えが少し追いついてない。見た目で得してる分、雑に前へ出されると、先にバランスを崩します」


 恒一の視界に、文字が浮かぶ。


⸻


タチカゼ

脚元耐久:D

気性安定:D+

馬体映え:A-

早期販売適性:A

競走期待:低

推奨方針:販売向き

総評:見映えは売りになるが、育成先次第で崩れやすい


⸻


 販売向き。

 それは変わらない。


 だが今、史門が見ているのはその先だ。


「売るだけなら、見映えで通るか?」


 恒一が聞く。


 史門は短く首を振った。


「“誰に売るか”次第です」


「……そこまで変わるのか」


「見映えで買う相手なら、悪くない馬に見えるでしょう。でも、走らせたい相手が買うなら、預ける先を間違えると苦しくなる」


 美緒が眉を寄せた。


「じゃあ、見映えだけで買われたら危ないってことですね」


「危ないです」


 史門は即答した。


「生産の時点で持ってるものはあります。でも、それを競馬に使える形に変えられるかは別です。雑に前へ出すだけで終わる馬もいるし、焦らず芯を作れば変わる馬もいる」


 そこで一拍置き、タチカゼの首元を軽く叩く。


「この馬は、見映えがあるからこそ危ない」


 三雲が肩をすくめる。


「厳しいねえ」


「普通です」


「普通にしては、だいぶ刺さる」


「刺さるうちに言った方がいい」


 愛想のない言い方だった。

 だが、嫌いじゃないと恒一は思った。


「兄さん」


 美緒が小声で言う。


「この人、ちょっと嫌なぐらい正しいね」


「……ああ」


 史門は次に、何も言わずフユノホシの馬房の前へ移った。


 鹿毛の一歳牝馬は、知らない人間が来ると少しだけ首を固くする。だが逃げはしない。じっと見て、呼吸を整える。


 史門はその立ち方を見て、次に少し歩かせた。戻したあと、もう一度正面から見る。


「地味ですね」


 三雲が先に言う。


「市場なら、こっちは苦しい」


 史門はうなずきもしなかった。

 ただ、低く言う。


「今売る馬じゃない」


 恒一の胸が一つ、強く打った。


「どこを見た」


 思わず聞いていた。


 史門は少しだけ考え、言葉を選ぶ。


「形がまだまとまってない。でも、崩れ方も小さい。急がせなければ、後で変わる余地がある」


「……」


「ただし、環境は選びますね。敏いです、この馬」


 また重なる。


⸻


フユノホシ

脚元耐久:B

気性安定:B-

成長力:A-

環境変化耐性:低

推奨方針:安値売却非推奨

総評:急がせず、静かな環境で良化


⸻


「分かるのか」


 恒一が聞く。


 史門は当たり前みたいに答えた。


「こういう馬、いますから」


「敏いだけで終わる馬もいるだろ」


「います」


「じゃあ、こいつは違う?」


「違う可能性がある」


 言い切らない。

 そこが逆に信用できた。


 玲奈が馬房の横から口を挟む。


「昨日、環境変化で少し硬くなってたのよ」


「じゃあなおさらです」


 史門はフユノホシから目を離さない。


「雑な場所に入れると、先に気持ちが折れる」


 美緒が腕を組む。


「そう言われると、残したくなるんですけど」


「残せるなら残した方がいいでしょうね」


「今、余裕の話はしてないんです」


「余裕がないなら、なおさら預け先を外さないことです」


 その言葉は、空気ごと切った。


 余裕がない。

 だから安いところ。早いところ。都合のいいところ。

 そういう選び方をしたくなる。


 だが本当に余裕がないなら、そこで外した時の損の方がずっと大きい。


 それは経営の話でもあった。


「結局」


 恒一が言う。


「生産だけ見えても足りないってことか」


「足りません」


 史門は淡々と答える。


「生産は素材を作る仕事です。でも、素材のままじゃ競馬は走れない。どう乗って、どう我慢させて、どう体を使わせるかで、同じ馬でも別物になります」


 その一言が重かった。


 恒一はここまで、自分の“見えるもの”を武器にしてきた。

 相性、気性、成長力、潜在的な芯。

 それで未来を拾えると思っていた。


 間違いじゃない。

 だが、入口でしかない。


 そこから先を外せば、見抜いた素質ごと消える。


「昨日生まれた仔もいるんだろ」


 史門が何気なく言った。


「いる」


「見せてもらえますか」


 シラユキノハナの馬房へ向かう。


 仔馬は母の横で、まだ頼りない脚をしていた。頭も体も、今はまだどこを切り取っても“地味”の一言で終わる。


 史門はしばらく何も言わずに見ていたが、やがて少しだけ目を細めた。


「地味ですね」


 三雲がまた言う。


「今値段つけろって言われたら、そりゃ困る」


 恒一は黙っていた。


 すると、史門がぽつりと言った。


「でも、こういうのが面倒なんですよね」


「面倒?」


 美緒が聞く。


「最初に値段がつかないくせに、後で勝手に値打ちを持ち始める」


 その言い方に、恒一は少しだけ笑いそうになった。


 この男も、見えているのかもしれない。

 数値じゃなく、現場の目で。


「兄さん」


 美緒が小声で囁く。


「この人、地味な馬ばっかり拾うね」


「そういう目なんだろ」


 史門は振り返らないまま言う。


「拾うんじゃないです。落とすと面倒なだけです」


「十分面倒くさい言い方だな」


 恒一が返すと、史門の口元がほんの少しだけ動いた。たぶん、あれが笑った顔なんだろう。


 馬房を出たあと、史門は三雲と少しだけ離れて話し、戻ってきた。


「タチカゼの下見は通します」


「売れる、じゃなくて、見せるところまでは行けるってことですね」


 美緒がすぐに言った。


 史門は首を横に振る。


「そうです。ただ、今日来る相手には見せる価値があります」


「その相手って?」


「馬主側の人間です。値段だけで見る人じゃない。育成も含めて話すタイプ」


「……珍しいな」


 恒一が言うと、三雲が肩をすくめた。


「だから連れてきたんだよ。普通の見方だけしてたら、あんたのとこは噛み合わない気がしてね」


 それは少し意外だった。

 三雲は市場の人間だ。値段の匂いに敏い。

 だが同時に、噛み合わないところへ無理に流しても先がないと分かっている顔でもあった。


「一つだけ」


 史門が恒一に向き直る。


「もし本気で走る馬を出したいなら、今後は“どこに預けるか”まで自分で選んでください」


「……」


「いい馬を生んでも、合わないところに入れたら消えます」


「分かってるつもりだった」


「つもりじゃ足りません」


 冷たいのに、妙にまっすぐ入ってくる言葉だった。


 つもりじゃ足りない。

 見えているだけじゃ足りない。

 相性が分かるだけじゃ足りない。

 その先まで繋げて初めて、勝ち馬になる。


「もし面白い馬がいたら」


 史門が続ける。


「半年後でも一年後でも、もう一度見ます」


「商売か?」


「半分は」


「残り半分は?」


「外されると腹が立つので」


 今度こそ、恒一は少し笑った。


 その時、事務所の方から美緒の携帯が鳴った。

 彼女はすぐ出て、数秒で表情を引き締める。


「兄さん」


「なんだ」


「今日の午後、タチカゼの下見、本当に入る」


「もう確定か」


「うん。あと……」


「あと何だ」


「向こう、“歩かせた時に印象が落ちたらすぐ引く”って」


 空気が変わった。


 史門が短く言う。


「じゃあ、歩かせ方を間違えないことです」


「お前がやるか?」


 恒一が聞く。


 史門は少しだけ間を置いてから、うなずいた。


「見せる馬なら、見せ方があります」


「条件は?」


「今は要りません」


「なんで」


「さっきも言ったでしょ。外されると腹が立つんです」


 ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが、妙に頼もしかった。


 市場の目。

 牧場主の目。

 そして、育成の目。


 どれか一つだけじゃ足りない。

 なら、全部繋ぐしかない。


 恒一はタチカゼを見た。

 見映えがあるだけじゃ、もう足りない。

 その見映えを、値段に変える見せ方が要る。


 そしてその横で、フユノホシは静かにこちらを見ている。

 残す馬。見せる馬。

 同じ牧場にいても、勝負の仕方は違う。


 今日はその違いを、相手に分からせる日になる。


---


榊原恒一の現状


牧場経営力:C+


配合読解:D+


繁殖観察:B-


若駒評価:B-


現場判断:B


資金繰り判断:C+


交渉・信頼:C+


牧場再建度:9%



榊原ファーム経営状況


現金余力:危険


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:再編中


若駒資産価値:C


自家保留価値:A-


牧場ブランド:E


倒産危険度:高



補助表示


若馬売却成否:交渉中


育成先候補:出現

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