第7話 当歳の目、牧場主の目
牧場の空気は、一頭動かしただけで変わる。
それを恒一は、昨日の夜から嫌というほど思い知らされていた。
ミヤコノユメの移動先を探し始めたことで、人の動きが増えた。馬房の出入りも、話し声も、いつもより落ち着かない。たったそれだけのことでも、馬は空気の違いを拾う。
フユノホシはやはり敏かった。
前夜ほどではないが、朝一番の様子も少し硬い。周囲の物音に耳を立て、鼻先を高く上げる回数が増えている。
「まだ硬いね」
美緒が馬房の前で言う。
「ああ」
「帳簿なら一行動かすだけ。でも馬房だと、空気まで動くんだね」
「だから厄介なんだ」
「……切った後の方が、ずっと手間がかかる」
「牧場はそういうもんだ」
切る一頭を決めても、それで話が終わるわけじゃない。
残した馬にどう影響するかまで見なきゃ、結局は足元から崩れる。
恒一はフユノホシの様子をもう一度確かめ、それからシラユキノハナの馬房へ向かった。
母馬は落ち着いていた。
そして、その横で仔馬がぎこちなく立っている。
まだ脚は長すぎるくらいに長く、関節の位置も頼りない。少しよろけて、母の腹に鼻先を押しつけ、乳を探す。生まれて数日。綺麗に整って見える方がむしろ不自然な時期だ。
それでも、恒一は立ち止まった。
ただ可愛いから見るんじゃない。
当歳を見る目がいる。
「兄さん、また眉間」
美緒が後ろから覗き込む。
「眉間?」
「昨日からずっとその顔。この仔を見る時だけ、請求書を見てる時より難しい」
「請求書より難しいからな」
「当歳って、まだ値段をつけるには早すぎる気がする」
「だから見るんだ」
「売るためじゃなくて?」
「育つかどうかを見る」
恒一は仔馬の脚元を見た。
前脚の出し方。踏み込みの浅さ。体の支え方。首の使い方。母に寄る時のためらいのなさ。
「分かることはある」
「たとえば?」
「ちゃんと飲めてるか。立つたびに同じ脚を庇ってないか。驚いたあと戻れるか。人に寄るか、離れるか。母から離れても、自分で戻れるか」
「……帳簿に書けないことばっかりだね」
「最初はそこだ」
仔馬の時点で分かるのは、完成形じゃない。
未来の輪郭だけだ。
「市場の人間が最初に見るのは、見映えだ」
恒一は言う。
「骨格のバランス、首差し、肩の角度、トモの張り、歩かせた時の印象。説明しやすい価値だな」
「うん。値段にしやすいところ」
「そうだ。でも牧場主が最初に見るのは、もっと手前だ」
「売る前に、そこまで辿り着けるか」
「ああ。ちゃんと育つかどうかだよ」
美緒は少し黙った。
恒一は続ける。
「強い馬を作る前に、まず壊れない馬じゃないと話にならない。ちゃんと飲むか。ちゃんと寝るか。脚元がもつか。気性が折れないか。まずそこを見る」
それが、牧場主の目だった。
市場の目は、値段のつく未来を見る。
牧場主の目は、そこまで辿りつけるかどうかを見る。
恒一の視界に、淡い文字が浮かんだ。
⸻
当歳牡馬(シラユキノハナの仔)
速度:C
持久力:A-
心肺:A
脚元耐久:B
気性安定:C
成長力:A
環境順応:B-
哺育安定:B
推奨管理:急な環境変化回避/脚元負荷注意
総評:地味だが芯は太い。育成前の管理が重要
⸻
地味だが芯は太い。
その一文に、恒一は少しだけ息を吐いた。
やっぱりそうか。
今の段階では、たぶん誰が見ても派手じゃない。
でも、持っているものは安くない。
「また嫌な顔した」
美緒が顔を覗く。
「嫌な顔じゃない」
「じゃあ、困った顔」
「雑に育てると損するタイプだ」
恒一は柵に肘を乗せた。
「こういう仔は、今の見た目で値が跳ねるわけじゃない。でも、ちゃんと積めば後で差が出る」
「積むって、調教の話じゃないよね」
「その前だ。無事に飲ませる。落ち着かせる。無駄に脅かさない。脚元に変な負担をかけない。地味だけど、そういうの全部だ」
「……地味なことばっかり」
「地味なことを雑にした馬は、派手なところまで行けない」
その時だった。
仔馬が一歩踏み出し、前脚が少しだけ流れた。ほんのわずかだが、着地が甘い。
恒一の眉が寄る。
「……今の」
「見た。転びかけた?」
「そこまでじゃない。でも、左前の着きが少し甘い」
美緒が不安そうな顔をする。
「危ないの?」
「今は決めつけない。玲奈さんに見てもらう」
呼ぶまでもなく、ちょうど玲奈が馬房の並びを見に来ていた。
「今度は何」
「この仔、左前ちょっと見てくれ」
「はいはい。今朝は脚元の相談が多い日ね」
玲奈は藁を踏んで中に入り、仔馬の前にしゃがむ。脚元に触れ、少し歩かせ、また見る。シラユキノハナも変に騒がず、じっと見ている。
「どう?」
美緒が聞く。
「今の時期なら、まだ驚くほどじゃない」
玲奈は答えた。
「生まれてすぐは、立ち方も着き方も安定しないことがある。変に固定した見方はしない方がいい」
「じゃあ、安心していい?」
「安心して放置、は駄目。心配して騒ぐほどでもない。今はその真ん中」
「……一番落ち着かない答えだね」
「馬はだいたいそうよ」
恒一は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ」
玲奈が続ける。
「こういう仔ほど、変に焦って動かさない方がいい。見栄えが地味な馬を、無理に早く見せようとすると、ろくなことにならない」
「つまり?」
美緒が聞く。
「今は値段を作る時期じゃないってこと。まずはちゃんと育てる」
それは、恒一が見ているものと同じだった。
市場の目なら、まだ何もつかない。
牧場主の目なら、いま価値を作る時間だと分かる。
「兄さん」
美緒が仔馬を見ながら言う。
「昨日、三雲さんに“地味”って言われた時、顔が死んでたよ」
「死んではない」
「かなり死んでた」
「……まあ、嫌だったのは確かだ」
「でも、地味なんだよね」
「今はな」
「帳簿に今の値段を書くなら、高くは書けない」
「ああ」
「それでも残す」
「残す」
恒一は仔馬の方を見たまま答えた。
「今つく値段が、この仔の値打ち全部じゃない」
「それ、フユノホシと同じだね」
「そうだ」
見えない価値は、最初は値がつかない。
だから、自分で持って、証明するしかない。
その時、シラユキノハナが少し低く鼻を鳴らした。仔馬がふらつきながらも、また母に寄っていく。勢いはない。だが、迷いもない。
「こういうのも見る」
恒一は小さく言った。
「何を?」
「戻り方だ」
「戻り方?」
「驚いて離れたあと、ちゃんと自分で戻れるか。焦ってぶつからないか。母につく時に変に諦めないか」
美緒は真面目な顔で仔馬を見た。
「帳簿には出ないけど、あとで効くやつだ」
「少しはな。こういうのって結局、後の気性に出る」
派手なスキル名や、分かりやすい数値だけじゃない。
馬は生き物だ。反応の癖、戻り方、踏ん張り方、そういう小さいものが積み上がっていく。
「じゃあ、兄さんの目って」
美緒が言う。
「市場の人の目より、ずっと先を見てるの?」
「先っていうより、途中だよ」
「途中?」
「売る場所じゃなくて、そこまで行く道を見てる」
美緒は少しだけ笑った。
「それ、牧場主っぽい」
「今さらだな」
玲奈が馬房の外に出ながら口を挟む。
「でも、それだけ見えてても一人じゃ足りないわよ」
「……何が」
「育てる先の目」
恒一は顔を上げた。
玲奈はコートのポケットに手を入れたまま続ける。
「当歳で見えることと、一歳で見えることは違う。育成に入ってから見えることも違う」
「分かってる」
「分かってるなら、なおさら一人で抱えないことね。生産の目だけで全部決めると、その先で詰まる」
「……」
「走る馬を作るのって、“生まれるまで”じゃ終わらないから」
その通りだった。
いま恒一が見ているのは、あくまで入口だ。
当歳の目。牧場主の目。
だが、その先には一歳の目、育成の目、厩舎の目がある。
そして、そこまで繋いで初めて、勝ち馬になる。
玲奈が事務所の方を見やる。
「ちょうどいいかもね」
「何が」
「この前、三雲さんと診療所で会った時に聞いたの。若馬の見方がうるさいって有名な育成の人が、近いうちにこっちへ来るかもしれないって」
「育成?」
「ええ。物件を見に来るかもしれないって話」
美緒が目を瞬かせる。
「もうそんな話?」
「まだ下見の段階。でも、見る人は早いわよ。特に小さい牧場で“何か変なのがいる”って匂いがした時はね」
何か変なの。
つまり、見落とされがちな価値のことだろう。
恒一の胸の奥が、少しだけ熱くなる。
外から見れば、うちは潰れかけだ。
仔馬も地味。
一歳牝馬も地味。
でも、見えるものはある。
それを見抜ける目が本物かどうか。
次は、牧場の外の目とぶつかることになる。
その時、事務所の方から美緒の携帯が鳴った。
彼女は急いで出て、数秒で顔つきを変えた。
「兄さん」
「何だ」
「三雲さん。タチカゼの件」
「もう動いたのか」
「下見したい人がいるって」
「早いな」
「でも、条件つき。今日の午後」
恒一は眉を寄せた。
「今日?」
「うん。あと……」
「あと何だ」
「“歩かせた時に印象が落ちたら、かなり渋くなるかもしれない”って」
空気が変わった。
見える価値で今月を繋ぐ。
その綱が、思っていたより細い。
玲奈が低く言う。
「忙しくなったわね」
「ああ」
「当歳を見る目と、一歳を売る目。今日は両方いる」
「……そうなるな」
恒一はもう一度、仔馬を見た。
地味だ。
だが、安くはない。
そしてタチカゼは、見栄えがある。
だが、それだけで値が決まるわけでもない。
市場の目。
牧場主の目。
どちらも外せない。どちらかだけでも足りない。
なら、その両方を持つしかない。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C+
配合読解:D+
繁殖観察:B-
若駒評価:C+
現場判断:B
資金繰り判断:C+
交渉・信頼:C
牧場再建度:22%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:B-(再編中)
若駒資産価値:C-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
補助表示
当歳観察:C+
若馬売却成否:不透明




