第6話 残す一頭、切る一頭
残す一頭。
切る一頭。
美緒にそう言われたあとも、恒一はすぐには動けなかった。
事務所の机には、請求書がある。
タチカゼの売却見込みは立った。だが、三雲の最後の電話が、その見込みに薄いひびを入れていった。
見た目が良くても、相場が鈍ければ値は伸びない。
正しい。
どうしようもなく、正しい。
市場はいつだって、こちらの都合なんか知らない。
「兄さん」
美緒が静かに言った。
「まだ間に合ううちに決めよう」 「……何を」 「次に何を切るか」
その言葉は、思ったよりまっすぐ刺さった。
さっきまでは“今月を越えるために売るものを探す”話だった。
だが、今は違う。
足りないかもしれないなら、残す前提そのものを見直さなきゃいけない。
それはもう、売却の話じゃない。
牧場の中身を削る話だ。
「全部を守ろうとしないで」
美緒の声は低かった。
「兄さんが守りたいのは分かる。でも、全部を抱えて沈むのが一番だめ」 「分かってる」 「本当に?」 「……分かってるよ」
分かっている。
だが、その“分かっている”を、何度口にしても慣れない。
牧場主になった時、恒一は守る側に立ったつもりだった。
父の代で残った馬たち。
厩舎。放牧地。血統。
全部を繋ぐ側だと、どこかで思っていた。
でも現実は違う。
守るために、切らなきゃならないことがある。
その役目まで含めて、牧場主なんだ。
「一回、全部出そう」
恒一は椅子に座り直した。
美緒が帳簿を開く。
玲奈も帰らず、そのまま壁際に寄りかかった。
「候補は?」 「使ってない機材はもう洗い出してる。タチカゼも出す。けど、それでも不足の可能性がある」 「うん」 「なら次は、維持費そのものを下げるしかない」 「つまり」 「繁殖牝馬の見直しだ」
口にした瞬間、事務所の空気が重くなった。
誰もすぐには喋らない。
繁殖牝馬は、ただの頭数じゃない。
牧場の未来そのものだ。
一頭切るってことは、その馬が持っていた未来を一つ閉じるってことでもある。
恒一は頭の中で、もう見てしまっている数字を思い出した。
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繁殖牝馬・ミヤコノユメ
繁殖価値:C
受胎安定:B-
産駒伝達率:C-
維持推奨:低
繁殖牝馬・オオルリ
繁殖価値:B-
受胎安定:D
分娩安定:C
維持推奨:中
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見えてしまっている以上、そこから逃げられない。
ミヤコノユメは大崩れしない。
だが、跳ねる未来も薄い。
抱え続ければ、じわじわと金を食う。
オオルリは不安定だ。
だが、残る火はまだある。
数字だけなら、答えはかなり明白だった。
けれど、数字だけじゃ切れないものがある。
「ミヤコノユメ、だよね」
美緒が先に言った。
恒一はすぐには答えなかった。
「兄さん」 「……分かってる」 「じゃあ」 「分かってるけど、簡単に言うな」
少しだけ声が荒くなった。
美緒は驚かなかった。
ただ、静かに見返してくる。
「簡単じゃないよ」 「なら」 「簡単じゃないから、今ここで決めるの。あとに回したら、もっと苦しくなる」
正論だった。
だが、その正論が痛い。
ミヤコノユメは、父が最後に入れた繁殖牝馬だった。
市場で派手な注目を集めた馬じゃない。
だが、父は言っていた。
『こういう地味な牝馬が、牧場をしぶとく食わせることがある』
実際、一度も大きく当ててはいない。
けれど、大外れもしなかった。
そういう意味では、父らしい馬だった。
派手じゃない。
だが、簡単に見切ることもできない。
「情があるのは分かる」
玲奈が初めて口を開いた。
「でも、今の話は好き嫌いじゃない」 「……」 「ミヤコノユメを残して、シラユキノハナと昨日の仔とフユノホシまで全部守れるなら、その方がいいに決まってる」 「分かってる」 「でも無理なんでしょ」 「……ああ」
そこで、ようやく認めるしかなかった。
無理だ。
タチカゼを売っても、まだ足りないかもしれない。
レッドアークの一手を打つ。
昨日の仔は残す。
フユノホシも安売りしたくない。
なら、どこかで維持費を削らなきゃならない。
全部を守れない。
「会いに行こう」
恒一がそう言うと、美緒は小さくうなずいた。
厩舎へ向かう。
ミヤコノユメは奥の馬房で、静かに乾草を噛んでいた。栗毛の毛並みは年齢相応に落ち着き、派手さはない。鼻先を少し上げて、恒一たちを見る。
昔から、こういう馬だった。
騒がない。暴れない。
手のかからない、いい意味で地味な牝馬。
恒一の視界に、また文字が浮かぶ。
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ミヤコノユメ
繁殖価値:C
受胎安定:B-
産駒伝達率:C-
気性伝達:安定
維持推奨:低
総評:大崩れは少ないが、再建の柱にはなりにくい
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「……嫌な見え方しやがる」
誰にも聞こえない声で呟く。
柱にはなりにくい。
その表現が、一番堪えた。
悪い馬じゃない。
むしろ、こういう馬がいるから牧場は回ることもある。
けれど“今の榊原ファーム”に必要なのは、回し続けることじゃない。
立て直すことだ。
「兄さん」
美緒が背後から言う。
「残す理由、ある?」 「……」 「“好きだから”以外で」
答えが出ない。
いや、いくつかある。
受胎は大きく崩れない。
気性も悪くない。
扱いやすい。
手堅い。
だが、それは全部余裕がある牧場の理屈だ。
今の榊原ファームは、手堅い積み重ねで五年かけて戻すより、一手でも勝負を当てなきゃ沈むところまで来ている。
ミヤコノユメは、未来がないわけじゃない。
でも、その未来は“遅い”。
遅い未来を抱える余裕が、今のうちにはない。
恒一はミヤコノユメの首筋に手を置いた。
牝馬は嫌がりもせず、ただ耳を少し動かした。
「悪い馬じゃないんだよな」 「誰も、悪いなんて言ってない」 美緒が言う。 「悪くない馬を切るから、きついんでしょ」
その通りだった。
悪い馬なら楽だった。
手をかける価値がないと割り切れた。
でも本当に苦しいのは、悪くないものを切る時だ。
玲奈が静かに続ける。
「牧場の整理ってね、ダメな馬を捨てる仕事じゃないの」 「……」 「残したい馬のために、残せない馬を決める仕事」
恒一は目を閉じた。
頭の中に並ぶ。
昨日の仔。
フユノホシ。
シラユキノハナ。
レッドアーク。
今月の支払い。
来年の勝負。
全部を並べた先に、答えは一つしか残らなかった。
「……ミヤコノユメを、出す」
言った瞬間、喉がひどく渇いた。
美緒はすぐに返事をしなかった。
それから、静かにうなずく。
「分かった。条件、探す」 「繁殖で回せる先を当たれ。肉に落とすのは駄目だ」 「そこまで言わなくても分かってる」 「いや、言う」
少しだけ強くなった声に、美緒も言い返さなかった。
玲奈が小さく息を吐く。
「その線なら、私も当たる。知ってる牧場に声をかける」 「助かる」 「助かるじゃない。最後まで責任取るのよ」
恒一はミヤコノユメから手を離せなかった。
切ると決めた。
それでも、この馬の価値が消えるわけじゃない。
ただ、うちでは抱え切れないというだけだ。
それが余計に痛かった。
事務所に戻る途中、美緒がぽつりと言った。
「兄さん、ちゃんと切れたね」 「切れたって言うな」 「でもそういうことだよ」 「……ああ」
否定はできなかった。
事務所へ戻ると、美緒はすぐに電話帳とメモを広げた。
玲奈も診療所に連絡を入れ、心当たりを探り始める。
恒一は机の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
その時だった。
馬房の方から、少し鋭い音がした。
若馬が柵を蹴るような音。
「何だ?」
三人で外へ出る。
音のした先は、フユノホシの馬房だった。
牝馬は壁際で少し興奮していた。タチカゼの気配につられたのか、落ち着かない様子で首を振っている。
「怪我してない?」 「待って」
玲奈が先に入り、脚元を確認する。
恒一は柵越しにフユノホシを見る。
牝馬は少し鼻を鳴らし、落ち着かない。
そして、その視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:B- → C+
環境変化耐性:低
同馬房区画ストレス:上昇
総評:移動・周囲変化に敏感。扱い注意
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「……そう来るか」
恒一は低く呟いた。
「何?」 美緒が聞く。
恒一はフユノホシから目を離さずに言う。
「こいつ、環境変化に弱いかもしれない」 「は?」 「まだ確定じゃない。でも、今みたいに周りが動くと、思ったよりストレスを受けるタイプだ」
玲奈がフユノホシの首元を撫でながら、少しだけ眉を寄せた。
「たしかに敏い感じはあるわね。鈍い馬じゃない」 「……残すなら、それ込みで見る必要がある」 「つまり?」 美緒が言う。 「タチカゼを出して、ミヤコノユメも動かして、環境が変わると、フユノホシまで不安定になるかもしれないってこと?」
恒一はゆっくりうなずいた。
残す一頭。
切る一頭。
そう簡単な話じゃない。
切った結果、残した馬の条件も変わる。
牧場は全部繋がっている。
一頭を動かせば、空気まで変わる。
玲奈が立ち上がる。
「これ、思ったより面倒よ」 「ああ」 「でも避けられない」 「分かってる」
フユノホシはようやく落ち着きを取り戻し、低く鼻を鳴らした。
その姿を見ながら、恒一は思う。
今の決断は、まだ入口だ。
本当に苦しいのは、切ったあと、その歪みをどう抑えるかだ。
何を残して、何を切るか。
その答えは、一度決めて終わりじゃない。
牧場の中で、何度でも揺り返してくる。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C+
配合読解:D+
繁殖観察:C+
現場判断:B
資金繰り判断:C+
交渉・信頼:C+
牧場再建度:19%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群の期待値:再編中
若駒資産価値:C-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
牧場内ストレス要因:上昇




