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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第5話 見えない価値は、値がつかない

 黒峰スタッドの車が見えなくなってからも、事務所の空気はしばらく張ったままだった。


 美緒が最初に口を開いた。


「感じ悪かったね」 「ああ」 「でも、言ってること自体は間違ってないのが腹立つ」 「……何がだ」 「零細が相手を間違えたら、一年じゃ済まないってところ」


 恒一は返事をしなかった。


 机の上には請求書。

 その横には、レッドアークの種付け条件を書き込んだメモ。

 勝負の席には着けた。だが、着いただけだ。


 乾草代は消えない。

 獣医代も消えない。

 来月だって、馬はちゃんと食う。


 玲奈が窓の外を見ながら言った。


「で、今度は何に詰まってるの」 「今月だ」 「結局そこに戻るのね」 「そこを越えなきゃ、来年の話なんて全部寝言だろ」


 玲奈は否定しなかった。


 美緒が帳簿を引き寄せ、赤線の入ったページを開く。


「レッドアークの条件は前よりだいぶマシになった。でも楽になったわけじゃない」 「分かってる」 「今月の支払いが軽くなったわけでもない」 「分かってるって」 「じゃあ次。どこで現金を作るか」


 そこだった。


 正しい一手を見つけた。

 だが、正しい一手だけで牧場は生き延びない。

 金に変わる何かを、今月のうちに動かさなきゃならない。


「兄さん」


 美緒は帳簿から顔を上げた。


「昨日の仔は残す」 「ああ」 「シラユキノハナは、次も勝負する」 「ああ」 「なら、どこかで売るしかない」


 冷たい言い方だった。

 だが、その冷たさに嘘はない。


 牧場は、全部を抱えて夢を見る場所じゃない。

 何かを残すなら、別の何かを手放すしかない。


「一歳、見よう」


 恒一がそう言うと、美緒は静かにうなずいた。


「私もそう思ってた」


 玲奈が眉を上げる。


「今いる一歳って、去年の二頭?」 「ああ。牡が一頭、牝が一頭」 「売る前提で?」 「見る前から決めたくはない」 「でも、決めなきゃ今月が先に来る」 「分かってる」


 恒一は立ち上がった。

 美緒も帳簿を閉じる。

 玲奈は肩をすくめてあとに続いた。


 外気はまだ冷たい。厩舎の裏手、若馬を置いている区画へ向かう。朝の光は薄く、吐く息が白い。乾草の匂いと、若い馬特有の熱が混じっていた。


 先に顔を出したのは、一歳牡馬のタチカゼだった。


 青鹿毛。

 首差しはきれいで、肩の角度も悪くない。トモの見映えもある。立ち姿だけ見れば、たしかに人の目を引く。


「こいつは見栄えするね」


 玲奈が素直に言った。


「そういう言い方するな」 「現実でしょ。人はまず見えるところから買うんだから」


 その通りだった。


 セリでも相対でも、最初に見られるのは“目に入る価値”だ。

 血統。馬体。歩様。雰囲気。早くから動きそうな気配。

 買い手は未来を買う。だが、その未来を判断する材料は、結局いま目の前に見えているものになる。


 恒一の視界に、淡い文字が浮かんだ。



---


タチカゼ

脚元耐久:D

気性安定:D+

馬体映え:A-

早期販売適性:A

競走期待:低

推奨方針:販売向き

総評:市場受けは良いが、競走成績の伸びは限定的



---


 恒一は無言でその文字を見た。


 やっぱりだ。


 走る側の芯は薄い。

 だが、売る側の価値は高い。


 美緒が柵越しにタチカゼを見ながら言う。


「こういうの、市場だと嫌われないよね」 「ああ。少なくとも、“見る前から切られる馬”じゃない」 「兄さんの顔、分かった」 「何が」 「走るかどうかは微妙。でも売るなら悪くない、でしょ」 「……そんなとこだ」


 玲奈が横目で見た。


「顔に出やすいのね」 「最近みんなそれ言うな」


 隣の馬房には、一歳牝馬のフユノホシがいた。


 鹿毛。

 体つきはまとまりきっていない。まだ線が細い。派手さはない。立ち姿も、ぱっと見で人を止める感じじゃない。


 だが、恒一が見た瞬間、また文字が浮かんだ。



---


フユノホシ

脚元耐久:B

気性安定:B-

持久力:B

成長力:A-

馬体映え:C

早期販売適性:D

競走期待:中

推奨方針:安値売却非推奨

総評:遅れて良化。市場評価は低く出やすい



---


「……くそ」


 思わず漏れた。


「何」 「いや」


 見た目じゃ分からない。

 市場じゃ拾われにくい。

 でも、持っている芯はタチカゼよりこっちの方が太い。


 これが厄介だった。


 売りやすい馬と、走りやすい馬は、必ずしも同じじゃない。


「ねえ、兄さん」


 美緒がフユノホシを見ながら言う。


「こっちは値がつきにくい顔してる」 「……顔してる、か」 「そういう話でしょ、今」


 そういう話だった。


 見えない価値は、値がつかない。

 少なくとも、最初からは。


 心肺も、成長力も、勝負根性も。

 証明する前は、ただの“期待”だ。

 買い手が最初に払うのは、説明しやすい価値に対してだけだ。


 血統の名前。

 骨格の見映え。

 歩いた時の印象。

 早く仕上がりそうかどうか。


 だから市場は、時々ちゃんと正しい。

 そして時々、平気で見落とす。


「難しい顔してるわね」


 玲奈が言った。


「難しいだろ」 「でしょうね。見た目で売りやすい馬と、持っといた方が面白い馬が綺麗に分かれてる顔だもの」 「お前もそう見えるか」 「獣医にだって、歩かせれば分かることはあるわよ。全部じゃないけど」


 美緒が馬房の仕切りにもたれた。


「じゃあ、答えは簡単じゃない?」 「何が」 「売るのはタチカゼ。残すならフユノホシ」 「理屈ではな」 「理屈じゃない部分、あるの?」 「ある。今月」


 美緒は口をつぐんだ。


 そうだ。

 フユノホシは残したい。

 残したいだけで残せるほど、うちはもう甘くない。


 売りやすいのはタチカゼ。

 でも、売れやすいからといって、思ったほどの値がつく保証があるわけじゃない。

 逆にフユノホシは安く見られやすい。そこを無理に売れば、将来の芽を安く手放すことになる。


 恒一は柵越しにフユノホシの額を見た。

 牝馬は耳を少し動かし、じっとこちらを見返してくる。

 派手さはない。

 けれど、嫌に目が落ち着いていた。


 こういう馬は、時間をかけた先で変わる。

 今は薄くても、芯がある。

 分かってしまう。分かってしまうから、手放したくなくなる。


「……こいつも残してやりたい」


 気づけば、口に出ていた。


 美緒がゆっくり兄を見る。

 玲奈は何も言わない。


「でも残したい馬ばっかり残したら、牧場が先に死ぬ」  恒一は続けた。 「分かってる。分かってるけど……こういう馬を、今の見た目だけで安く流すのは、やっぱり嫌だ」


 それはただの感傷じゃない。

 牧場主としての感情で、経営者としての痛みだった。


 事務所へ戻る途中、恒一はずっと無言だった。


 見えてしまうから、割り切れない。

 市場に乗せれば値がつく馬。

 市場じゃ拾われないけど、持っていれば面白い馬。

 その差が分かってしまう。


 だからこそ、判断は余計に痛い。


 事務所に戻ると、ちょうど玄関の戸が鳴った。


「こんにちはー。榊原さん、いる?」


 入ってきたのは馬商の三雲だった。四十代半ば、よく日に焼けた顔に、妙に人当たりのいい笑みを貼りつけている男だ。いい意味でも悪い意味でも、“値段の匂い”に敏い。


「三雲さん」 「昨日、仔が生まれたって聞いてね。顔だけでも見とこうと思って」 「情報早いな」 「この仕事で遅かったら飯食えないよ」


 三雲は笑いながら、事務所の空気を一瞬で読んだらしい。


「……で、その顔は別件もあるな?」 「一歳の話だ」 「お、そっちか」


 美緒がさっと帳簿を閉じる。

 恒一は少しだけ迷ってから、言った。


「見ていくか」 「もちろん」


 再び若馬の区画へ向かう。


 三雲はまずタチカゼを見た。

 馬房の前で立ち止まり、少し距離を取り、次に近づき、首差し、肩、トモ、脚元と順に視線を流す。最後に少し歩かせた。


「うん。悪くない」 「どのへんが」 「まずパッと見で損しない。これ大事。あと首差しがきれいで、立ち姿がまとまってる。こういうのは“ちゃんとして見える”からね」 「ちゃんとして見える、か」 「買う側は最初の三分でかなり決めるから」


 美緒が横から聞く。


「走るかどうかじゃなくて?」 「もちろん走る方がいいよ。でも最初に財布を開かせるのは、まず“買えると思わせる見た目”なんだよ」


 恒一は黙った。


 その通りだ。

 嫌になるくらい、その通りだった。


「値はつく?」 「血統次第の上限はある。でも今の榊原さんとこなら、十分助かる額にはなるかもね」


 “十分助かる額”という言い方が、現実的で嫌だった。


 三雲は次にフユノホシの前へ移る。


 一目見て、反応が落ちた。


「こっちは……まだ薄いね」 「薄い?」 「分かりやすく言うと、今は売りづらい。線も細いし、見映えで損する。歩かせても、良さを説明する前に切る人は多い」


 恒一の胸の奥が重く沈む。


 やっぱりそうか。


 三雲は悪気なく続けた。


「もちろん、後で変わる馬もいるよ。でも市場ってのは、見えないものに最初から高い金は出さないから」


 その一言が、今日の全部をまとめていた。


 見えない価値は、値がつかない。


 心肺も、勝負根性も、成長力も、持続力も。

 証明する前は、ただの“期待”だ。

 だから市場では安く見られる。

 そして零細牧場は、その“安く見られた価値”を、本当は手放しちゃいけないことがある。


「どうする?」


 三雲が軽く聞いてくる。


「今すぐ決めなくてもいいけど、タチカゼは声かければ動けるよ。フユノホシは……まあ、出すなら覚悟した方がいい」


 美緒が恒一を見る。

 玲奈も黙ったままだ。


 決めるのは、自分だ。


 恒一はタチカゼを見た。

 立ち姿はいい。人目を引く。売るなら今だ。


 次にフユノホシを見る。

 地味だ。今は評価されない。だが、持っているものは安くない。


 そして、シラユキノハナの馬房の方を思い出す。

 生まれたばかりのあの仔も、今のまま市場に出せば、たぶん地味だ。安く見られる。見えないものは、まだ誰にも買われない。


 だからこそ、自分で持つしかない。

 自分で証明するしかない。


「タチカゼを出す」


 恒一は静かに言った。


 三雲が目を細める。


「そっちか」 「ああ」 「迷わないね」 「迷ってるよ」


 本音だった。


「でも、迷ってる間にも今月は来る。タチカゼは市場が値段をつけやすい。フユノホシは、今売ったら安く見られすぎる」 「……なるほどね」


 三雲の顔が少しだけ真面目になった。


「ちゃんと分かって決めてる顔だ」


 恒一は苦く笑った。


「分かってるから、余計きついんだよ」 「だろうね」


 三雲はそれ以上軽口を叩かなかった。


「じゃあ、声をかけてみる。派手な値段は約束できない。でも、今の見た目なら、悪くない線まで持っていけるかもしれない」 「頼む」 「あと」


 三雲は少しだけ間を置いた。


「昨日の仔、見てもいいか?」 「……見るだけなら」


 シラユキノハナの馬房へ向かう。


 仔馬は母の横で、まだ頼りない脚をしていた。顔立ちはまだ定まらない。馬体も当然、今は語るには早い。


 三雲は少し見て、正直に言った。


「今の段階じゃ、地味だね」 「だろうな」 「このまま値段をつけろって言われたら、俺も困る」 「分かってる」


 三雲は恒一をちらりと見た。


「でも、残すんだろ」 「ああ」 「そういう顔してる」


 またそれだ。


 恒一は仔馬の横顔を見ながら、低く答えた。


「値がつかないなら、自分で値を作るしかない」 「……はは」


 三雲は短く笑った。


「嫌いじゃないよ、そういうの」


 だが、嫌いじゃないで飯は食えない。

 だからこそ、タチカゼを売る。

 だからこそ、この仔は残す。


 牧場を立て直すってのは、きっとこういうことなんだろう。

 見える価値で今月を繋いで、見えない価値で未来を作る。


 三雲が帰ったあと、事務所に戻ると美緒が静かに言った。


「痛いね」 「ああ」 「でも正しいと思う」 「正しいかどうかは、まだ分からない」 「じゃあ」 「外さないようにするしかない」


 玲奈がコートを着直しながら、ちらりと笑った。


「やっと牧場主らしい顔になってきたじゃない」 「褒めてるのか」 「半分は」 「残り半分は」 「これからもっときつくなるってこと」


 否定できなかった。


 タチカゼを売る。

 その金で今月を繋ぐ。

 レッドアークの一手を生かす。

 そして、値がつかないままの未来を、自分の手で値打ちに変えていく。


 やることは山ほどある。


 だが、少なくとも、ただ流されている感じはもうなかった。


 何を残して、何を売るか。

 それを自分で決めた。

 なら次は、その決断を正解に変えるだけだ。


 ――そう思った矢先だった。


 事務所の電話が鳴る。


 美緒が受話器を取るより早く、恒一が手を伸ばした。


「榊原ファームです」


 返ってきたのは、三雲の声だった。


『悪い、もう一件だけ。タチカゼの件、声かける前に言っとく』 「なんだ」 『今、若馬の動き、思ったより鈍い。見た目が良くても、買い手が簡単に飛びつく空気じゃない』 「……どのくらい悪い」 『値を読むのが難しい。助かる額にはなるかもしれない。でも、思ったほど伸びない可能性はある』


 事務所の空気が、一気に重くなる。


 美緒が顔を上げた。

 玲奈も動きを止める。


『悪い話ばかりしたいわけじゃない。ただ、先に期待だけ高くするときついから』


 通話が切れたあと、恒一はしばらく受話器を置けなかった。


 売ると決めた。

 それでも、売れば全部解決するわけじゃない。


 見える価値で今月を繋ぐ。

 そのはずだった。


 だが、その“見える価値”すら、市場の空気一つで揺れる。


 美緒が静かに言う。


「……簡単じゃないね」 「ああ」 「タチカゼを出しても、足りないかもしれない」 「分かってる」 「じゃあ次、どこを切る?」


 その問いに、恒一はすぐ答えられなかった。


 残す一頭。

 切る一頭。

 その話は、まだ終わっていなかった。



---


榊原恒一の現状


牧場経営力:C+


配合読解:D+


繁殖観察:C


現場判断:B


資金繰り判断:C+


交渉・信頼:C-


牧場再建度:16%



榊原ファーム経営状況


現金余力:危険


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群の期待値:B-


若駒資産価値:C-


自家保留価値:A-


牧場ブランド:E


倒産危険度:高


当面の資金確保見込み:不安定

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