第5話 見えない価値は、値がつかない
黒峰スタッドの車が坂を下りきっても、事務所の空気はまだ硬かった。
机の上には、請求書が三枚。 乾草屋。 獣医。 電気代。
その横に、レッドアークの種付け条件を書いたメモがある。
勝負の席には着けた。 だが、席料を払っただけで牧場は生き残らない。
美緒が帳簿を閉じずに言った。
「感じ悪かった」
赤ペンの先が、請求書の端を押さえている。
「でも、腹が立つくらい正しい」
恒一は答えなかった。
「零細が相手を間違えたら、一年じゃ済まない。……黒峰さん、そこを突いてきたんだよ」
「分かってる」
「兄さんがそう言う時って、大体いちばん分かってない顔してる」
美緒は責める声ではなかった。 だから余計に痛い。
窓際に立っていた玲奈が、外の馬房を見たまま言う。
「で、黒峰さんより先に、請求書が首を絞めに来てるわけね」
「今月だ」
「聞き飽きた言葉だけど、逃げられない言葉ね」
「そこを越えなきゃ、来年の配合なんて寝言だろ」
玲奈は何も言わなかった。
美緒が帳簿をこちらへ向けた。
「レッドアークの条件は前よりマシになった。でも、この三枚、消えてないから」
恒一は帳簿を見た。
馬は毎日食う。 乾草は減る。 水桶も汚れる。 獣医は待ってくれても、馬の体調は待ってくれない。
「昨日の仔は、残すんだよね」
「ああ」
「シラユキノハナも、次に賭ける」
「ああ」
美緒は一度、唇を噛んだ。
「じゃあ、どこかで現金を作らないと、この赤線は消えない」
分かっていた。
分かっていたから、恒一はすぐに返事ができなかった。
「一歳を見よう」
ようやく言うと、美緒は帳簿を閉じた。
「……うん」
その一言だけだった。
玲奈がコートの袖を直す。
「去年の二頭ね」
「牡のタチカゼと、牝のフユノホシだ」
「見るってことは、売る候補を見るってこと?」
恒一は戸口で足を止めた。
「馬房を見てからだ」
美緒が小さく息を吐く。
「兄さん」
顔を上げると、美緒は帳簿を抱えたままこちらを見ていた。
「見たら、売れなくなるでしょ」
返せなかった。
外は冷たかった。
厩舎の裏手へ回ると、乾草の匂いと若馬の熱が混じって鼻に入った。 馬房の中で、蹄が床を軽く叩く音がする。
先に顔を出したのは、青鹿毛のタチカゼだった。
首差しがいい。 肩の角度も悪くない。 トモにも見映えがある。
立っているだけで、人の目を止める馬だった。
「見栄えはいいわね。買う側が足を止めるタイプ」
玲奈が言った。
「値札みたいに言うな」
「でも、値札をつけられるかどうかを見るんでしょう」
正しい。
セリでも相対でも、最初に値段を動かすのは見える価値だ。 血統。 馬体。 歩様。 早くから動きそうな気配。
買い手は未来を買う。 だが、未来そのものは見えない。
恒一の視界に、淡い文字が浮かんだ。
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タチカゼ
脚元耐久:D
気性安定:D+
馬体映え:A-
早期販売適性:A
競走期待:低
推奨方針:販売向き
総評:市場受けは良いが、競走成績の伸びは限定的
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やっぱりだ。
走る芯は薄い。 けれど、売る価値はある。
美緒がタチカゼの鼻先を見た。 手は伸ばさない。 ただ、柵の木を指で押さえている。
「こういう子は、値段をつけてもらいやすいよね」
「ああ」
「……助かる子、なんだ」
その言い方が嫌だった。
助かる。 牧場が助かる。 そのために、この馬を手放す。
隣の馬房には、フユノホシがいた。
鹿毛の一歳牝馬。 線が細い。 馬体もまだまとまりきっていない。 初見で人を振り向かせる派手さはない。
だが、目が静かだった。
恒一が見た瞬間、文字が浮かぶ。
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フユノホシ
脚元耐久:B
気性安定:B-
持久力:B
成長力:A-
馬体映え:C
早期販売適性:D
競走期待:中
推奨方針:安値売却非推奨
総評:遅れて良化。市場評価は低く出やすい
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「……くそ」
思わず漏れた。
美緒がこちらを見た。
「そっちは、悪いの?」
「逆だ」
「逆?」
「悪くないから困ってる」
フユノホシは売りづらい。 今の見た目では値がつきにくい。
でも、持っている芯はタチカゼより太い。
売れる馬と、走るかもしれない馬は違う。
美緒は馬房の前で黙っていた。 玲奈も口を挟まない。
フユノホシが、乾草を少し噛んでから顔を上げた。 まだ薄い体。 でも、脚の置き方に無駄が少ない。
恒一は柵に手を置いた。
「こいつも残したい」
声に出してから、自分で苦くなった。
「残したい馬ばっかり残したら、請求書の方が先に来るよ」
美緒が静かに言う。
「だから、決めるんでしょ」
「ああ」
事務所へ戻ろうとした時、玄関の戸が鳴った。
「榊原さん、いる?」
馬商の三雲だった。 日に焼けた顔に、いつもの人当たりのいい笑みを貼っている。
「昨日、仔が生まれたって聞いてね。顔だけでも見とこうと思って」
「相変わらず耳が早いな」
「遅かったら、この仕事じゃ乾草代も稼げないよ」
三雲は事務所の空気を一目で読んだ。
「……祝いだけって顔じゃないな」
「一歳を見てほしい」
「そういうことか」
三雲はまずタチカゼを見た。
距離を取り、近づき、首、肩、トモ、脚元を見る。 少し歩かせてから、うなずいた。
「悪くない。まず損しない顔をしてる」
「顔で買うのか」
「最初は顔だよ。買う側は最初の三分でかなり決める。ちゃんとして見える馬は、それだけで入り口に立てる」
嫌になるほど現実だった。
「値はつくか」
「血統の上限はある。でも、今の榊原さんには助かる額になるかもしれない」
助かる額。
恒一はその言葉を飲み込んだ。
三雲は次にフユノホシの前へ行った。 一目見て、表情が変わる。
「こっちは今、売りづらいね」
分かっていた。 それでも、言葉にされると重い。
「線が細い。見映えで損する。歩かせても、良さを説明する前に切る人は多い」
「後で変わる」
「変わる馬はいる。でも市場は、今見えないものに最初から高い金は出さない」
その一言が、今日の全部だった。
見えない価値は、値がつかない。
心肺も、成長力も、持久力も。 証明するまでは、ただの期待だ。
三雲が軽く聞いた。
「どうする?」
恒一はタチカゼを見た。 立ち姿がいい。 人目を引く。 今なら売れる。
次にフユノホシを見る。 地味だ。 今は評価されない。 だが、安く手放していい馬ではない。
そして、シラユキノハナの馬房を思い出した。 昨日生まれた仔も、今はまだ値がつかない。
なら、自分で値を作るしかない。
「タチカゼを出す」
三雲が少し目を細めた。
「早いね」
「早くない。ずっと嫌だった」
「それでも出す?」
「迷ってる間にも今月は来る。タチカゼは値段をつけてもらえる。フユノホシは、今売ったら安く見られすぎる」
三雲は軽口をやめた。
「分かった。声をかけてみる。派手な額は約束できない。でも、悪くない線までは持っていけるかもしれない」
「頼む」
三雲が帰る前に、シラユキノハナの馬房も見た。
仔馬は母の腹のそばで、まだ頼りない脚をしていた。 顔立ちも定まらない。 今の段階で値段をつけろと言われても、誰だって困る。
三雲も正直だった。
「地味だね」
「だろうな」
「このまま売るなら、安い」
「売らない」
三雲が笑った。
「それは即答なんだな」
恒一は仔馬の横顔を見た。
「値がつかないなら、自分で値を作る」
口にした瞬間、少しだけ腹が決まった。
見える価値で今月を繋ぐ。 見えない価値で未来を作る。
綺麗な話じゃない。 タチカゼを売る痛みの上に成り立つ話だ。
事務所へ戻ると、美緒がぽつりと言った。
「痛いね」
「ああ」
「でも、間違ってないと思う」
「正しいかどうかは、まだ分からない」
「じゃあ?」
「外さないようにするしかない」
玲奈がコートを着直しながら言った。
「迷ってる顔じゃなくなったわね」
「迷ってる」
「違うわね。売るかどうかは、もう決めた顔よ」
「じゃあ何だ」
「売った後、どう取り返すか。そっちで詰まってる」
その時、事務所の電話が鳴った。
恒一が受話器を取る。
「榊原ファームです」
三雲の声だった。
『悪い。タチカゼの件、声をかける前に言っておく』
「なんだ」
『今、若馬の動きが鈍い。見た目が良くても、買い手が簡単に飛びつく空気じゃない』
事務所の空気が止まった。
『助かる額にはなるかもしれない。でも、思ったほど伸びない可能性もある』
通話が切れても、恒一はすぐに受話器を置けなかった。
売ると決めた。 それでも、売れば終わりではない。
見える価値でさえ、市場の空気ひとつで揺れる。
美緒が帳簿を開いた。
赤線の下には、まだ空白がある。
「タチカゼを出しても、足りないかもしれない」
「ああ」
「じゃあ次、どこを切る?」
恒一は答えられなかった。
残す一頭。 切る一頭。
その話は、まだ終わっていなかった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C+
配合読解:D+
繁殖観察:C
現場判断:B
資金繰り判断:C+
交渉・信頼:C-
牧場再建度:6%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
若駒資産価値:C-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
当面の資金確保見込み:不安定




