第4話 外せば一年が消える
赤い丸は、翌朝になっても消えていなかった。
レッドアーク。
種牡馬名鑑の余白に、美緒が昨日つけた印だ。
その横には種付け料。
さらに横には、榊原ファームの残高。
三つ並べると、Sという文字の高揚感など簡単に吹き飛んだ。
「本命は変わらない?」
美緒が聞いた。
「ああ」
「じゃあ今日は、こっち」
差し出されたのは帳簿だった。
「夢じゃなくて?」
「金」
「朝から容赦ねえな」
「昨日、兄さんがレッドアークで行きたいって言ったからでしょ」
美緒は新しいページに数字を書き込んだ。
種付け料。
飼料代。
獣医代。
資材代。
そして昨日、自家保留すると決めた仔馬の維持費。
「ロードグランツよりは安い」
「ああ」
「でも、うちでは十分高い」
「ああ」
「種付けしても受胎するとは限らない」
恒一は返事をしなかった。
「受胎しても、無事に産むとは限らない。生まれても、兄さんが期待してる馬になるとは限らない」
「そこまで並べるか?」
「並べる」
美緒は赤ペンを置いた。
「だって、外したら消えるのは種付け料だけじゃないから」
恒一が帳簿を見る。
「一年か」
「うん」
繁殖牝馬の数が多ければ、一頭の不受胎や一頭の失敗を別の馬で埋められることもある。
榊原ファームには、その余裕がない。
一頭の繁殖。
一回の種付け。
一年。
全部が重い。
「外せば一年が消える」
「お金も」
「そっちは見えてる」
「見たくないだけじゃなくて?」
「……それもある」
美緒が少し笑った。
だが、すぐ帳簿へ目を戻した。
「だから、本命と契約は別」
「ああ」
「レッドアークが良いと思うことと、今すぐ払っていいことも別」
そこは反論できなかった。
昨日までは、良い配合を見つければ前に進めると思っていた。
実際には違う。
良い一手が分かっても、それを打てるとは限らない。
◇
午前中、玲奈が産後の再診に来た。
シラユキノハナは乾草を食べている。
仔馬は母馬の腹の近くで、昨日よりいくらか安定した脚取りを見せていた。
「食欲は?」
玲奈が聞く。
「戻ってる」
「飲水量」
「昨日と大きく変わらない」
「排泄は?」
恒一が答える横で、玲奈はシラユキノハナの状態を確認していく。
恒一は余計なことを言わずに待った。
やがて玲奈が立ち上がる。
「今のところ、産後経過で強く気になるところはない」
「じゃあ――」
玲奈が手を上げた。
「その先を勝手に足さない」
「まだ何も言ってないだろ」
「今年もう一回種付けできるか、でしょ」
「……そうだけど」
「今日はそこまでの許可は出さない」
恒一は黙った。
「今回の分娩、楽ではなかった。それにハナは若い牝馬じゃない。食べてる、立ってる、それだけで次も行けるとは決めない」
「ああ」
「身体の戻りを見てから」
「最初のタイミングを見送ることも?」
「ある」
玲奈は即答した。
「種牡馬が誰かは関係ない。ロードグランツでもレッドアークでも、ハナの身体が先」
視界に文字が浮かぶ。
――――――――――
シラユキノハナ
受胎安定:C
分娩安定:D
産駒伝達率:A
――――――――――
配合共鳴率S。
分娩安定D。
都合のいい方だけを見れば簡単だった。
「分かった」
恒一は言った。
「ハナが駄目ならやらない」
「駄目って言い方は嫌いだけど」
「じゃあ」
「今年もう一度繁殖へ上げられる状態じゃなければ、見送る」
「……分かった」
「それならよし」
玲奈はカルテへ何かを書き込んだ。
「ただ、準備するのは止めない。枠が必要なら条件だけ確認しておけばいい」
「そうする」
「種付け日だけ、帳簿で決めないこと」
「俺、そこまでひどいか?」
「今の牧場なら、誰でも焦る」
玲奈はシラユキノハナの首を軽く撫でた。
「だから言ってるの」
責めている声ではなかった。
恒一は母馬を見る。
Sがあるから種付けるのではない。
そのSを使えるところまで、この馬が戻って初めて次へ進める。
◇
事務所へ戻ると、美緒が電話番号を書いた紙を置いた。
「北斗スタリオン」
「仕事早いな」
「電話する?」
「ああ」
恒一は受話器を取る前に、確認事項を紙へ書いた。
種付け料。
予約条件。
支払時期。
不受胎の場合。
再交配。
そして、シラユキノハナの回復次第で時期をずらせるか。
「珍しい」
美緒が言う。
「何が」
「電話する前に質問を書いてる」
「俺を何だと思ってる」
「昨日までの兄さん」
「一日で成長することもある」
「馬ならね」
「人間もする」
番号を押した。
二度目の呼び出しで繋がる。
『はい、北斗スタリオンです』
「榊原ファームの榊原と申します。レッドアークの今年度の種付け条件を確認したいんですが」
担当者へ事情を伝える。
シラユキノハナは産後。
実際の種付けは獣医の判断を待つ。
その上で枠と支払い条件だけ先に確認したい。
返ってきた条件は、当然ながら榊原ファームの事情に合わせて安くなるものではなかった。
種付け料は変わらない。
予約にも支払いが発生する。
受胎確認後に残りの負担が来る。
不受胎の場合にも条件がある。
恒一は一つずつメモした。
「母馬の回復が遅れた場合、正式な実施時期をずらす相談はできますか」
『期限内であれば可能です。ただ、枠を無期限に押さえることはできません』
「期限を教えてください」
日付を書く。
「支払い時期については?」
確認する。
一括で全額を出す必要はなかった。
だが。
予約段階で必要な金はある。
恒一はその額を見て、一瞬だけ口を閉じた。
安くなったわけではない。
今月に全部乗らなくなっただけだ。
「分かりました」
『どうされますか?』
恒一は美緒を見る。
美緒は電卓を叩いた。
一度。
二度。
紙に数字を書く。
こちらへ向ける。
予約金を出した後の残高だった。
かなり薄い。
だが、今日の飼料代まで消える数字ではない。
「正式契約の前提で、枠をお願いします」
『承知しました』
「ただし、母馬の状態によって実施を見送る可能性があります」
『その場合は期限までにご連絡ください』
「はい」
電話を切った。
恒一はメモを机へ置く。
「安くなった?」
玲奈が聞いた。
「一円も」
「だと思った」
「でも、一括ではない」
美緒がメモを取り、帳簿と照らす。
「今月全部出ていかない。それは大きい」
「予約金は出るけどな」
「それも大きい」
「良い意味で?」
「悪い意味」
「だよな」
美緒が帳簿へ一行追加した。
レッドアーク予約金。
赤ペンだった。
恒一はそれを見た。
正解らしい配合を見つけた。
条件も確認した。
なのに、赤い数字は減るどころか増えている。
◇
午後、坂を上がってくる車があった。
黒いセダン。
事務所の前で止まる。
「誰?」
美緒が窓を見る。
「知らん」
ドアが開いた。
スーツ姿の男が一人、降りてくる。
手には薄い封筒。
男は事務所へ入ると、名刺を差し出した。
「突然失礼します。黒峰スタッドの沼田です」
恒一は名前を見た。
「昨日、黒峰さんから電話をもらいました」
「承知しています。その件で参りました」
沼田が封筒を机へ置く。
「代表から、口頭だけで終わらせる話でもないので、条件だけは書面でお持ちするようにと」
美緒の視線が封筒へ落ちる。
「シラユキノハナと仔ですか」
「はい」
「売りません」
沼田の表情は変わらなかった。
「条件をご覧になってからでも?」
「見たら答えが変わる額ですか」
「変わる可能性がある額を出すのが、こちらの仕事です」
嫌な言い方だった。
だが、間違ってはいない。
恒一は封筒を開いた。
数字を見る。
喉の奥が少し固くなった。
今月の請求書。
飼料。
獣医。
資材。
そこへ、レッドアークの予約金。
この条件を受ければ、そのかなりの部分が軽くなる。
「早く支払える条件です」
沼田が言った。
「資金が必要な時期だと伺っていますので」
「そこまで調べてるんですね」
「調べなくても分かります」
腹が立った。
同時に、その通りだった。
大手が見れば、今の榊原ファームの苦しさなど隠しようがない。
恒一は条件書を閉じた。
「売りません」
「そうですか」
沼田はあっさり答えた。
説得してくると思っていた恒一の方が、少し拍子抜けした。
沼田の視線が机の上へ動く。
レッドアーク。
種付け条件を書いた紙が見えていた。
「次も繁殖へ上げるおつもりで?」
「母馬が戻れば」
「レッドアークですか」
「本命です」
沼田は数秒、紙を見た。
「派手な選択ではありませんね」
「派手にする必要はないんで」
「市場では説明に時間がかかります」
「分かってます」
「売るより、走らせる方に比重を置く?」
恒一は答えなかった。
それだけで十分だったらしい。
沼田は机の条件書を自分の方へ引いた。
「こちらは、売るのが正解だと言っているわけではありません」
「え?」
「今の榊原ファームなら、現金化することにも合理性がある。だから条件を出しました」
淡々としている。
「残すのも自由です。ただ」
沼田は一度、レッドアークの紙を見る。
「零細が相手を間違えると、一年では済みませんよ」
美緒の指が止まった。
恒一は沼田を見る。
挑発しているようにも聞こえる。
だが、午前中に美緒と話したことと同じだった。
外せば一年。
場合によっては、それ以上。
「分かっています」
「それでも?」
「だから、相手をちゃんと見ます」
沼田は少しだけ目を細めた。
笑わなかった。
「承知しました」
条件書を封筒へ戻す。
「では、この話はいったん持ち帰ります」
「すみません」
「謝る必要はありません。商談ですから」
沼田は立ち上がった。
「結果が出れば、こちらの見方も変わります」
それだけ言って、一礼する。
戸が閉まった。
黒い車が坂を下り始める。
美緒は何も言わなかった。
ただ、机へ戻る。
帳簿を開く。
三枚の請求書の下。
今日、新しく加わった一行。
レッドアーク予約金。
美緒の赤ペンが、その横で止まった。
勝負の相手は決めた。
赤い数字は、一つ増えた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:C
配合読解:D+
繁殖観察:C
若駒評価:D
現場判断:B-
資金繰り判断:C+
交渉・信頼:C-
牧場再建度:5%
榊原ファーム経営状況
現金余力:危険
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群の期待値:B-
若駒資産価値:D
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
次年度繁殖勝負度:上昇




