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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第4話 外せば一年が消える

 種付け料は、希望の値札だ。


 そう言えば聞こえはいい。

 だが、榊原ファームみたいな零細牧場にとっては、もっと身も蓋もない。


 来年を先払いする金だ。


 朝の事務所で、美緒が帳簿の新しいページの一番上に、赤ペンでそう書いた。


「分かりやすく言うよ」 「嫌な前置きだな」 「種付けって、今年払って、答えが返ってくるのは来年以降なの」 「……ああ」 「しかも外したら、その金だけじゃ済まない。時間まで消える」


 恒一は黙って帳簿を見た。


 シラユキノハナにはレッドアーク。

 方向はもう見えている。人気でも見栄えでもなく、相性で取る。そこは揺らがない。


 問題は、その“正しい一手”を現実にできるだけの金があるかどうかだった。


「もう一回、額を言ってくれ」 「レッドアークは中堅価格。ロードグランツよりはだいぶ安い。でも、安いって顔して払える額じゃない」 「うちにとってはな」 「うちにとっては全部高い」


 まったくその通りだった。


 大手なら、一頭の種付けはその年の一手で済む。

 頭数がいる。仮に一つ外しても、別の一頭で拾える。


 だが榊原ファームは違う。

 繁殖牝馬の数が少ない。

 一頭ごとの重みが違う。


 だから一回の種付けが、そのまま一年分の勝負になる。


「兄さん」 「なんだ」 「ここ、ぼかさないでね」


 美緒は赤ペンの先で机を軽く叩いた。


「うちが高い種牡馬をつけて外したら、“惜しかった”で終わらない」 「分かってる」 「一年が消えるの」


 その言葉は、きれいに腹へ落ちた。


 一年が消える。


 大袈裟じゃない。

 受胎しないかもしれない。

 生まれても体質が弱いかもしれない。

 当歳で値がつかないかもしれない。

 走らないかもしれない。


 そのどれか一つで、払った金と待った時間がまとめて沈む。


 牧場は毎日回るのに、繁殖の勝負は年に何度もやり直せない。

 だから重い。


 恒一は棚の奥から、父の配合ノートを引っ張り出した。

 古い表紙。擦り切れた角。開けば鉛筆の跡が何層も残っている。


 どの牝馬に、どの系統。

 どういう産駒が出た。

 気性がきつく出た。

 見栄えは良かったが走らなかった。

 地味だったが勝ち上がった。


 成功も失敗も、ちゃんと残っている。


 ページをめくる手が、シラユキノハナの欄で止まった。


 小さな丸印。消された候補。脇のメモ。


 「見栄えより、しぶとさ」

 「母系の芯はまだ死んでない」


 恒一はしばらくその字を見つめた。


「……親父」


 同じところまで来ていたのか。

 それとも、来かけて届かなかったのか。


 その時、事務所の戸が開いて冷たい風が入り込んだ。


「呼ばれて来たけど、思った以上に重たい顔してるわね」


 天城玲奈だった。

 白い息を吐きながらコートを脱ぎ、机の上の帳簿と名鑑をひと目見て、すぐに事情を察したように言う。


「まだ揉めてるの? レッドアークで行くつもりなんでしょ」 「つもり、で止まってる」 「金?」 「金だ」 「でしょうね」


 玲奈は椅子を引いて座り、シラユキノハナのカルテを開いた。


「じゃあ確認するけど、今この話で大事なのは“どっちが人気か”じゃないわよね」 「ああ」 「シラユキノハナに次を狙わせるとして、その勝負が母体にとって無茶じゃないか。そこでしょ」 「そうだ」


 美緒が腕を組んだまま口を挟む。


「私はそこを知りたいの。方向は見えてる。でも、決めたことと払えることは別だし、払えても母体が潰れたら意味がない」


 玲奈は小さくうなずいた。


「前にも言ったけど、シラユキノハナは若くない。今回の分娩も、楽だったとは言えない」 「……ああ」 「だから、“売れそうだから”で負荷の大きい勝負をするのは勧めない」


 玲奈はカルテを閉じ、はっきり言った。


「その意味では、レッドアークは悪くないわ。派手さはない。でも極端な負荷を押しつけにくい。少なくとも、“高い期待ごと無理を背負わせる”配合よりはずっといい」


 恒一は黙って聞いた。


 昨夜見た数字。

 名鑑に浮かんだ共鳴率。

 玲奈の現実的な判断。


 全部が同じ方向を指している。


「じゃあ問題は、配合そのものじゃなくて、そこにどう金を乗せるかね」  美緒が言う。 「そうなる」  玲奈も即答した。 「レッドアークにすること自体は、もうそんなにズレてない。怖いのは、その一手が支払いで首を締めること」


 恒一は机の上の請求書を見た。

 乾草代。獣医代。資材代。

 この三枚だけでも喉が詰まりそうなのに、さらに来年の勝負まで重くする余裕なんて、あるわけがない。


 大きく張って、大きく勝つ。

 それができれば格好いい。


 だが、うちに必要なのは格好良さじゃない。

 外しても死なない勝ち方だ。


「兄さん」 「なんだ」 「レッドアークでも十分重いよ」 「分かってる」 「じゃあ、どう払うの」


 そこだ、と恒一は思った。


 正しい配合を見つけるだけじゃ足りない。

 実行できなきゃ、何も見えていないのと同じだ。


「条件を詰める」 「条件?」 「一括で払って首が締まるなら、支払いの形を相談する。受胎後に重くなる形がないか、こっちで耐えられる線がないか、聞く」 「そんな都合よく動く?」 「動かなくても聞くしかない」


 牧場の世界じゃ、支払い形態が全部同じわけじゃない。

 種付け時点で一括のものもある。

 受胎確認後に重くなるものもある。

 産駒誕生後に動くものもある。


 零細にとって、その差はそのまま生死だ。


「頭、下げるんだ」 「もう下げるって決めただろ」 「そうだけど」 「見栄張って潰れる方が馬鹿だ」


 口にした瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。


 そうだ。

 今の榊原ファームに必要なのは、格好よく戦うことじゃない。

 勝てる形に持ち込むことだ。


 恒一は父のノートを開き、シラユキノハナの欄を美緒と玲奈に見せた。


「親父もここまでは来てた」 「え?」 「“見栄えより、しぶとさ”って書いてある。“母系の芯はまだ死んでない”とも」


 美緒が黙る。

 玲奈もすぐには何も言わなかった。


 父はたぶん、気づいていた。

 この牝馬が見た目の派手さじゃなく、もっと別のものを残していることに。


 だが届かなかった。

 金か、時間か、その両方か。


「だから、俺はここで逃げたくない」


 声は自然に出た。


「売れそうだからってだけの相手を選んで、また外して、また来年苦しくなるのはもう嫌だ。うちはもう、当たるかどうかも分からない見栄えに金を払ってる余裕はない」 「……」 「噛み合う相手に賭ける。そこは譲らない」


 玲奈が先に息を吐いた。


「なら、決まってるじゃない」 「ああ」 「レッドアークね」 「ああ」


 美緒はまだ少しだけ渋い顔をしていたが、やがて帳簿を閉じた。


「じゃあ条件次第」 「そうなる」 「もし想定より重かったら?」 「その時は、他で削る」 「簡単に言う」 「簡単じゃない。でも、ここを逃げたら、多分また同じことになる」


 しばらく沈黙が落ちたあと、美緒は肩をすくめた。


「分かった。じゃあ私は、支払いの線を引き直す」 「助かる」 「助かるじゃなくて、本当に守ってよ、その一手」 「守る」


 即答だった。


 人気種牡馬じゃない。

 だからといって、いつでも空いているとは限らない。

 迷っている時間そのものが、この牧場には高い。


 恒一は受話器を取った。

 手のひらが少し汗ばんでいる。


 相手は種牡馬繋養先の担当者。

 向こうから見れば、零細牧場の若い二代目だ。


 呼び出し音が二回、三回。


『はい、北斗スタリオンです』


 恒一は一度だけ息を整えた。


「榊原ファームの榊原です。レッドアークの件で、今年の種付け条件を相談したくて」


 声は思ったより落ち着いていた。


 条件。

 そこが勝負だ。


 何を払うか。

 いつ払うか。

 受胎しなかった場合はどうなるか。

 再交配はどう扱うか。


 ここを曖昧にしたまま夢に飛びつけば、あとで首が締まる。


 相手の返答を聞きながら、恒一は机の上のメモに要点を書きつけていく。

 種付け料。

 支払い時期。

 受胎確認後の扱い。

 再交配時の条件。


 美緒が横から覗き込み、玲奈は腕を組んだまま黙っている。


 通話は短く終わらなかった。

 途中で一度保留になり、別の担当に回され、さらに条件の確認が入る。


 そのたびに、恒一は言葉を選んだ。


「うちは頭数が多くない」

「だから今年の一手が重い」

「そちらの条件が厳しいのは分かっている」

「その上で、こちらが無理なく勝負できる線を探したい」


 格好はよくない。

 だが必要な交渉だった。


 しばらくして、相手の声色が少しだけ変わった。事務的なものから、少しだけ“相談に乗る側”のそれに。


『では、今回に限ってですが――』


 恒一はペンを握り直した。


 ようやく電話を切った時、事務所の空気が少しだけ変わっていた。


「どうだった」


 美緒がすぐ聞く。


 恒一はメモを見下ろし、口元を引き締めた。


「一括じゃない」 「ほんとに?」 「ああ。受胎確認後に重くなる形だ。しかも、もし受胎しなかった場合の再交配条件も、最初に聞いた線よりはだいぶマシになった」 「……大きいね」 「大きい」


 玲奈が静かに言う。


「つまり、“賭けられる土俵”には乗れたってことね」 「そういうことだ」


 まだ何も勝っていない。

 受胎もしていない。

 生まれてもいない。


 それでも、勝負の席には着けた。


 榊原ファームみたいな牧場にとって、それだけでも小さくない。


「じゃあ、決まりね」


 玲奈の言葉に、恒一はうなずいた。


「ああ。シラユキノハナは、レッドアークでいく」


 言い切った瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。


 高い種牡馬が正解じゃない。

 人気があるから正解でもない。

 うちに必要なのは、見栄えのいい夢じゃない。


 来年を繋ぐ一手だ。


 その時、外から車の音がした。

 事務所の窓越しに見えたのは、見慣れない黒い車だった。


 玲奈が眉をひそめる。


「誰か来たわね」 「今日は厄日か?」 「厄日は昨日から継続中でしょ」


 美緒の皮肉が終わるより先に、玄関の戸が開いた。


 入ってきた男を見た瞬間、恒一の顔から表情が消える。


 黒峰スタッドの人間だった。

 昨日電話口で名前を聞いたばかりの、大手の使いだ。


 男は事務所を見回し、整いすぎた笑みを浮かべた。


「突然すみません。黒峰スタッドの沼田と申します」 「……何の用だ」 「シラユキノハナの件で、少しお話を」


 早すぎる。


 いや、向こうにとっては当然か。

 苦しい牧場が迷っている間に手を打つ。

 それが強い側のやり方だ。


 だが、恒一はもう迷っていなかった。


 机の上には、レッドアークの条件を書いたメモ。

 胸の中には、腹を括った熱。


「悪いが、話はもう動いてる」


 恒一がそう言うと、沼田の笑みがほんの少しだけ薄くなった。


「ほう。では、どちらへ?」 「それをあんたに教える義理はない」 「……強気ですね」 「こっちは最初から必死だ。今さら強気も何もない」


 事務所の空気が張る。


 美緒は黙っている。

 玲奈も口を挟まない。

 この場は恒一の勝負だと分かっているからだ。


 沼田は数秒だけ黙り、それから笑みを戻した。


「選ぶ相手を間違えると、零細牧場は一年では済みませんよ」 「知ってるよ」


 恒一は低く返した。


「だから、外さない方を選ぶ」


 沼田は一礼だけして出ていった。


 戸が閉まり、車の音が遠ざかる。


 それを聞きながら、恒一はゆっくり息を吐いた。


 向こうも本気だ。

 こちらが何を選ぶか、見ている。

 なら、なおさら外せない。


 この一手は、ただの種付けじゃない。

 榊原ファームが、どんな戦い方をする牧場なのかを決める一手だ。



---


榊原恒一の現状


牧場経営力:C


配合読解:D+


繁殖観察:C


若駒評価:D


現場判断:B-


資金繰り判断:C+


交渉・信頼:C-


牧場再建度:13%


榊原ファーム経営状況


現金余力:危険


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群の期待値:B-


若駒資産価値:D


自家保留価値:A-


牧場ブランド:E


倒産危険度:高


次年度繁殖勝負度:上昇

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