第10話 売れて終わりじゃない
翌朝、事務所の空気は妙に静かだった。
昨日までの張りつめ方とは少し違う。
嵐の前ではない。ひとつ片がついたあと、机の上に残った紙を見て、まだ息を抜けない時の静けさだった。
机の上には、相変わらず請求書がある。
乾草代。獣医代。資材代。
タチカゼの件がまとまったからといって、その紙がなくなるわけじゃない。
美緒が帳簿を開いたまま言った。
「……変だね」
「何が」
「昨日は、売れたら少し息ができると思ってた。でも朝になったら、馬より先に請求書が目に入る」
「馬は飼葉桶を見るけど、こっちは紙を見るしかないからな」
「うん。紙は減らない。タチカゼが売れても、勝手に消えてくれない」
恒一は苦く笑った。
タチカゼは売れる。
預け先も決まる。
それでも、楽になるわけじゃない。
一頭分、喉元の縄がゆるむ。
ただ、それだけだ。
「兄さん」
美緒が帳簿から目を上げた。
「今のうち、まだ危ないままだよ。分かってる?」
「分かってる」
「ほんとに?」
「……二回聞くな」
「兄さん、馬の前だと都合の悪い数字だけ聞こえなくなるから」
「聞こえてる」
「首が締まる音が、少し小さくなっただけ。外れたわけじゃない」
「朝から物騒だな」
「帳簿の方が物騒だよ」
そこで嘘をついても仕方ない。
零細牧場のきつさはそこだ。
一頭売れて終わる仕事じゃない。
一頭売れて、ようやく今月を越す話に戻れるだけだ。
その時、軽いエンジン音がして、事務所の前に玲奈の軽トラックが止まった。
診療所帰りらしく、白衣の上に厚手の上着を引っかけている。
「朝から暗いわね。馬房より事務所の方が空気悪いじゃない」
「馬房は換気するからな」
「事務所もしたら? 請求書の湿気で息が詰まりそう」
「笑えない」
玲奈は事務所に入るなり、帳簿と請求書を見て小さく息をついた。
「売却が進んで、少し楽になる。でも、紙の山は低くならない。まあ、そういう朝よね」
「獣医がそれを言うのか」
「獣医だから言うの。馬は待てないし、請求も待たせすぎると診療所が困る」
「現実的だな」
「現実が仕事だから」
恒一は窓の外の厩舎を見た。
「タチカゼが抜けた後を考えないといけない」
「後?」
美緒が聞く。
「馬房の並びだよ。フユノホシの反応、見ただろ」
「ああ……昨日から耳が忙しかった。人の足音にも、タチカゼの鼻息にも、いちいち反応してた」
フユノホシは環境変化に弱い。
一頭抜けるだけでも、馬房の空気は変わる。
馬は、人が思っている以上に“いつも通り”に依存する。
「売れて終わり、じゃないんだよな」
恒一は低く言った。
「馬房の組み替え、放牧の順番、近くに置く馬、全部見直しだ」
「お金が入る話なのに、仕事は減らないんだ」
「減るのは馬の数だけだ。手間は別に減らない」
「……厄介」
「牧場だからな」
玲奈が机にもたれたまま口を開く。
「それに、タチカゼが抜けたら、残る一歳の見え方も変わるわよ」
「フユノホシか」
「ええ。派手な子が横にいると、地味な子は余計に地味に見える。でも、派手な子がいなくなってから、ようやく輪郭が出る子もいる」
恒一はゆっくりうなずいた。
目立つ馬の横にいると、地味な馬は余計に地味に見える。
逆に、目立つ馬がいなくなったあとで輪郭が出る馬もいる。
「売るって、頭数を減らすだけじゃないんだね」
美緒が帳簿の余白に何か書きながら言う。
「帳簿だと一行動くだけなのに。実際は、馬房の空気も、残った馬の見え方も、人の動きも変わる」
「……ああ」
そこまで含めて、売るってことなんだろう。
恒一の頭の中で、いくつかの線が組み直される。
タチカゼが抜ける。
フユノホシの位置を変える必要がある。
シラユキノハナの仔への動線も変わる。
人手の配分も、乾草の減り方も、わずかに変わる。
たった一頭。
それでも、一頭で牧場は動く。
「先に見てくる」
恒一がそう言って立ち上がる。
「帳簿から逃げる?」
「馬房を見る。帳簿は紙の上で待つけど、馬は待たない」
「……そういう時だけ、正論が早い」
厩舎へ向かう。
タチカゼは、何も知らない顔で立っていた。
売れる。
預け先も決まる。
それでも、こいつが“片づいた馬”になるわけじゃない。
「お前、ちゃんと先があるぞ」
馬房の前で小さく言う。
タチカゼは耳を動かしただけだった。
その隣では、フユノホシが少しだけ落ち着かない。
視線がいつもよりよく動く。
柵に寄っては離れ、鼻先を上げて空気を探る。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:C+
環境変化耐性:低
同馬房区画ストレス:上昇
推奨対応:配置再調整/急な孤立回避
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「やっぱりか」
低く呟いた。
売却の段取りを進めるだけじゃ足りない。
抜けたあと、こっちをどう落ち着かせるかまで見なきゃいけない。
玲奈が後ろから覗き込む。
「顔に出てる。悪い方?」
「昨日より悪くはない。でも、タチカゼが抜けたあとに崩しそうだ」
「フユノホシね」
「ああ。隣をいきなり空けるのはまずい」
「でしょうね。あの子、敷き藁の匂いが変わっただけで食いが落ちる子に近いわ」
「面倒だな」
「繊細って言いなさい。獣医の前では」
少し離れたところで、シラユキノハナの仔がふらつきながら歩いていた。
派手じゃない。
だが、見ていないと分からない変化が確かにある。
小さい。
地味だ。
それでも、一歩ずつ前へ出ている。
恒一はその仔を見ながら思う。
値段がつくかどうかと、育っていくかどうかは別だ。
売れるかどうかと、残す価値があるかどうかも別だ。
牧場は、その“別”を毎日抱えている。
事務所へ戻ると、美緒がすぐに声を上げた。
「兄さん、数字入れた」
「どうだ」
「今月はだいぶまし。でも、余裕って言うにはまだ早い」
「だろうな」
「あと、タチカゼの件で一ついい?」
「何だ」
「入るお金はありがたい。でも、入った瞬間に気が大きくなるのが一番危ない」
「ならない」
「兄さん、馬のことになると財布を馬房に置いてくるから」
「置いてない」
「昨日、フユノホシを残す話をしてた時、置いてた」
「……拾った」
「落とした自覚はあるんだ」
恒一は帳簿の数字を見た。
赤線の下が少しだけ薄くなる。
だが、消えはしない。
そこが妙にしっくり来た。
全部が綺麗に片づかない。
だから、この一歩はちゃんと現実の一歩だ。
「兄さん」
「なんだ」
「今、ちょっとだけ顔がまし」
「なんだそれ」
「潰れそうな牧場主の顔から、潰れそうだけどまだ投げてない牧場主の顔になった」
「褒めてるのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
玲奈が聞く。
「これからもっと面倒になるってこと」
「嫌な言い方しかしないな」
「でも本当でしょ。売れた馬の分だけ、残した馬の責任が見えるようになる」
本当だった。
タチカゼは売れる。
それでも、やることはむしろ増える。
馬房をどう組み替えるか。
フユノホシをどう落ち着かせるか。
シラユキノハナの次の繁殖にどう備えるか。
仔馬をどう積んでいくか。
そして、売れたという事実をどう信用に変えるか。
恒一はもう一度、帳簿から目を離して厩舎の方を見た。
あそこにいる馬は、売れたからといって終わらない。
残したからといって、それで十分でもない。
動いたあと、全部を繋ぎ直さないといけない。
その時、玄関の戸が開いた。
「おう、榊原さん。今いいか」
三雲だった。
いつもの笑顔だが、今日は少しだけ慌てた色がある。
「どうした」
「タチカゼの書類で一つ追加。紙だけなら楽だったんだけどね」
「嫌な前置きだな」
三雲は事務所に入りながら言った。
「北斗側が、引き渡し前に一回だけ馬房と動線を見たいって」
「馬房?」
「うん。移動前の環境を見たいらしい。どこから出して、どこで積んで、どの馬が近くにいるかまで」
「そこまで見るのか」
「見るんだろうね、あそこは。面倒だけど、面倒を見るだけの理由はある」
玲奈が小さく鼻を鳴らした。
「いいじゃない。引っ張って積んで終わり、よりずっとまし」
「そうだけど」
恒一は窓の外を見る。
タチカゼを送り出す前に、牧場の側まで整えなければならない。
売るってのは、紙に判を押して終わりじゃないらしい。
三雲が続ける。
「あと、もう一つ」
「まだあるのか」
「ある。坂口さん、フユノホシは本当に動かさない方がいいってさ」
「そこまで言ってたのか」
「よっぽど気になったんだろうね。ああいう人、地味な馬を雑に触るの嫌うから」
美緒が帳簿を閉じる。
「……じゃあ今日やること決まったね」
「ああ」
「タチカゼを送る準備、じゃなくて。その前に、牧場を崩さない準備」
「そうなる」
恒一はゆっくり息を吐いた。
売れる。
それでも、手が空くわけじゃない。
むしろ細かい仕事が増える。
だが、それでいいとも思った。
雑に流れていくより、ずっといい。
馬が馬として扱われるなら、その手間は惜しくない。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:B-
配合読解:D+
繁殖観察:B-
若駒評価:B
現場判断:B
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B-
牧場再建度:11%
榊原ファーム経営状況
現金余力:やや改善
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:C+
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:正式進行
育成先候補:北斗トレーニングファーム
牧場内ストレス要因:再調整必要




