第11話 空いた馬房に、次の未来を入れる
タチカゼを送る朝は、妙に冷えた。
空が晴れている分だけ、余計に寒い。
厩舎の屋根から落ちる霜が、ぱきりと乾いた音を立てる。
恒一はいつもより早く厩舎に入った。
タチカゼはまだ眠たげな顔をしていたが、人の気配を感じるとすぐ耳を立てた。今日は分かるらしい。いつもより、少しだけ目が冴えている。
「今日はお前が主役だな」
小さく声をかける。
売る。
送り出す。
そう決めたのは自分だ。
なのに、いざその朝が来ると、胸の奥が妙にざわつく。
外で車の音がした。
北斗トレーニングのトラックだった。
降りてきた史門は、挨拶より先に厩舎の出入り口を見た。次に通路の幅、曲がり角の位置、外に積んだ資材、風に鳴るブルーシートの端まで視線を流す。
「まず動線、変えます」
開口一番、それだった。
「馬を見る前にか」 恒一が言うと、 「今日は馬を“送る”日です」 史門は短く答えた。 「送り方が雑なら、馬そのものまで雑に見えます」
美緒が後ろで小さく息を吐く。
「そこまで変わる?」 「変わります」 史門は即答した。 「最後の十分で汗だくにする。角にぶつける。無駄に煽る。そういうのを見た人間は、“この牧場はここまでしか見てない”と判断します」
それは分かりやすく痛い言葉だった。
いい馬を作ったつもりでも、送り出すところで信頼を削る。
しかも、それは紙に残らない。次の値段や、次の付き合い方にじわじわ残る。
「このドラム缶、寄せてください。あと、そのフォークも」 史門が言う。 「シートは外す。音が出る」 「そこまでやるのか」 「そこまでやるから、馬が余計なことを覚えないんです」
恒一も、美緒も、黙って動いた。
ドラム缶を端へ寄せる。
古い熊手を壁に立てる。
風をはらんでばたついていたシートを外す。
玲奈まで来て、通路の泥をざっとならした。
たったこれだけのことなのに、厩舎の空気が少し変わる。
無駄な刺激が減ると、妙なざわつきも減る。
「兄さん」 美緒が低く言う。 「こういうの、今まで考えたことあった?」 「正直、ここまではなかった」 「だよね」
史門はタチカゼの馬房の前で立ち止まり、首元を一度だけ撫でた。
撫で方も、妙に静かだ。馴れ合う感じではなく、ただそこにいることを馬に伝えるだけの触れ方だった。
「今日は急がせません」 「時間はあるのか」 「時間を詰めて崩す方が高くつきます」
タチカゼを出す。
馬は最初の数歩だけ首を高くしたが、史門は引っ張らない。半歩だけ待ち、馬の呼吸が落ちるのを見てから前へ出す。するとタチカゼは、変に気負わずついてきた。
「……違うな」 恒一が呟く。 「何がです?」 「同じ馬なのに、昨日までより落ち着いて見える」 「見せ方です」
史門は前を向いたまま言う。
「馬の中身は一日で変わりません。でも、余計なものを消せば、本来の見え方には近づきます」
通路の角を曲がる。
外へ出る。
トラックのスロープはもう下ろしてあった。
そこでタチカゼの脚が止まった。
耳が動く。
鼻先が上がる。
見慣れない鉄の匂いと、空洞の響きを測っている。
恒一は一歩前へ出かけたが、史門が片手で制した。
「押さないでください」 「でも」 「ここで焦らせると、次から余計に嫌がります」
史門はタチカゼを無理に前へ引かず、スロープの手前で半円を描くようにゆっくり歩かせた。もう一度戻って、今度は真正面ではなく、少し斜めから向かう。
「……なるほど」 玲奈が小さく言う。 「真正面から“登れ”じゃなくて、“入っていい”に変えてるのね」 「その方が馬は納得しやすいです」 史門が答える。
タチカゼは鼻先を低くし、スロープの端を嗅いだ。
一拍。二拍。
それから前脚を乗せる。
「よし」 恒一の口から、思わず声が漏れた。
だがまだ終わらない。
後ろ脚が一度だけためらった。そこでも史門は押さない。少しだけ待ち、馬が自分で重心を前に送るのを待つ。
次の瞬間、タチカゼはそのままトラックの中へ入った。
空気がほどけた。
美緒がようやく息を吐く。 「今のだけで寿命縮んだ気がする」 「送る側の寿命は、たいてい縮みます」 史門が淡々と言う。 「でも、ここで雑にしない方が後が楽です」
タチカゼが中で落ち着いたのを確認してから、坂口からの書類を受け取り、恒一はその場でサインをした。
紙に名前を書く。
それで終わりじゃないと分かっていても、妙に重い瞬間だった。
「正式に進めます」 坂口が言う。 「北斗へ入れて、まずは急がせずに土台を作る」 「お願いします」 恒一は頭を下げた。
「こちらこそ」 坂口は言った。 「昨日の話、嫌いじゃなかったので」
トラックの扉が閉まる。
エンジンがかかる。
タチカゼを乗せた車体が、ゆっくり牧場を出ていく。
見送ったあと、厩舎の前に急に音がなくなった。
空いた。
頭数が一つ減っただけなのに、妙に広く見える。
恒一はそのまま、タチカゼのいた馬房へ向かった。
藁の匂いがまだ残っている。壁の擦れ跡も、桶の位置も、そのままだ。
「空いたね」 美緒が後ろから言う。 「ああ」
その時、少し離れたフユノホシが短く鼻を鳴らした。
視線がよく動く。落ち着かないが、昨日ほど硬くはない。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:C+ → B-
環境変化耐性:低
同馬房区画ストレス:低下中
推奨対応:空き馬房を緩衝帯として維持
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「……そういうことか」
低く呟く。
「何?」 美緒が聞く。
恒一は空いた馬房を見たまま答えた。
「しばらく埋めない」 「え?」 「このまま空けておく」 「もったいなくない?」 「頭数だけ見ればな。でも今は、空いてることにも意味がある」
玲奈がすぐに察したらしい。
「緩衝帯?」 「ああ」 「タチカゼがいた場所を、そのままワンクッションにするのね」 「フユノホシの隣をすぐ別の刺激で埋めたら、多分また崩す」
美緒は少し驚いた顔をした。
「空けておくのも管理なの?」 「そういうことだ」 玲奈が言う。 「空き馬房は損に見えるけど、それで一頭守れるなら安いものでしょ」
恒一はうなずいた。
経営だけ見れば、空いた馬房は非効率だ。
頭数が減る。入る金も増えない。
だが現場では、余白が馬を守ることがある。
今のフユノホシには、その余白の方が価値だ。
「兄さん」 美緒がぽつりと言う。 「空いた馬房に、何も入れないってのも判断なんだね」 「ああ」 「なんか、変な感じ」 「牧場はそういう変な判断で回るんだよ」
シラユキノハナの仔が、母の横からこちらを見た。
地味だ。小さい。
でも、タチカゼがいなくなった分、厩舎の空気が少しだけ静かで、その静けさが仔馬の動きにも合っている気がした。
恒一は空の馬房の前に立ったまま、しばらく考えた。
売れて終わりじゃない。
その意味が、昨日より少しだけ分かった気がする。
売る。
残す。
空ける。
全部、牧場を守るための手だ。
事務所へ戻ると、美緒がもう一度帳簿を開き直していた。
「振込、確認できた」 「入ったか」 「うん。乾草代と獣医、ここは払える」 「全部じゃないな」 「全部じゃない。でも、この“全部じゃない”が今は大きい」
恒一はその数字を見た。
赤線の一部が、ようやく消せる。
全部は消えない。
だが、消えた分だけ確かに呼吸がしやすくなる。
「兄さん」 「なんだ」 「これ、たぶん初めてだよ」 「何が」 「売った馬の代金が、ただ穴埋めじゃなくて、ちゃんと次の形に回りそうなの」
その言葉に、恒一は少しだけ黙った。
たしかにそうだった。
今までは、足りないところへ流し込むだけで終わっていた。
今回は違う。
送る先まで決まり、空いた馬房の使い方まで決まり、残す馬の置き方まで動き始めている。
ようやく、金が“消えるだけ”じゃなくなった。
その時、玲奈がカルテを閉じて言った。
「じゃあ午後、フユノホシの位置を少しずらす」 「ああ」 「仔馬の動線も見直す」 「ああ」 「それと」 「まだあるのか」 「シラユキノハナ、思ったより乳の出が安定してきてる。少し楽になるわ」 「……そうか」
小さい報告だった。
でも、そういう小さい楽が積もらないと牧場は持たない。
恒一は窓の外の厩舎を見た。
空いた馬房が一つ。
そこに今は、何も入れない。
けれど、空っぽなわけじゃない。
あれは余白だ。
残した馬を守るための場所だ。
そう思えた時、少しだけ、この牧場の形が前より見える気がした。
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榊原恒一
牧場経営力:B-
配合読解:D+
繁殖観察:B-
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B-
牧場再建度:33%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:C+
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム
牧場内ストレス要因:緩和中




