第12話 売れた事実は、まだ信用にならない
タチカゼを送り出した翌々日、榊原ファームの朝は少しだけ軽かった。
乾草代の一部は払えた。
獣医の支払いも、今月分は何とかなる。
帳簿の赤線が少し薄くなっただけで、事務所の空気まで変わるのが可笑しい。
だが、その軽さは長く続かない。
机の上にある封筒の山が減ったわけじゃないし、レッドアークの一手がこれから金を食うことも分かっている。
何より、一頭売れたからといって、榊原ファームが急に“信用のある牧場”になるわけでもない。
美緒が帳簿の端をめくりながら言った。
「少しだけ、息はできるね」
「ああ」
「でも、深く吸ったら、すぐ次で詰まる」
「朝から縁起でもないことを言うな」
「縁起じゃなくて、支払い予定表の話」
返す言葉はなかった。
恒一は窓の外を見た。
空いたままの馬房が見える。フユノホシの隣、その一つ分の余白。頭数だけ見れば非効率だ。だが、今のあの牝馬には必要な距離だと分かっている。
分かっている。
けれど、分かっていることがそのまま金になるわけじゃない。
「兄さん」
美緒がペン先で机を叩いた。
「次、どうする?」
「馬房の話か」
「それもある。でも、今聞いてるのはタチカゼの方」
「タチカゼ?」
「売れたで終わらせるのか、売れたことを次に使うのか」
その言葉で、恒一は少しだけ目を細めた。
使う。
金を使うんじゃない。
事実を使う。
坂口が買った。北斗で育成に乗った。そこまで線が引けた。
それはたしかに大きい。
だがその価値は、放っておいても勝手に膨らむものじゃない。
「勝手には広まらない」
恒一は言った。
「うん。坂口さんが買ってくれました、で黙ってたら、ただ一頭売れただけ」
「でも、言いふらせばいい話でもない」
「そこ。雑に言ったら、今度は安っぽくなる」
玲奈がその時ちょうど入ってきて、話を拾う。
「何の相談?」
「タチカゼの件を、ただ一頭売れたで終わらせない方法」
「ああ。信用の話ね」
「そうだ」
馬の世界じゃ、一度売れたことより、その先がどう続くかの方が重い。
坂口が買った。
それだけでは、まだ“たまたま”で片づけられる。
だが、
あそこに預けた。
あの条件で話がまとまった。
送り出しまできちんとしていた。
そういう小さい積み重ねが、あとから信用になる。
「じゃあ、何をするの」
美緒が聞く。
恒一は少し考えてから答えた。
「見に来てもらう」
「誰でも?」
「誰でも、はだめだ」
「だよね。今のうち、見せ物小屋じゃないから」
「三雲が流せる相手。あとは、前から切れかけてた取引先。見る目がある相手だけに絞る」
「今さら頭を下げるの?」
「今だからだよ」
苦しい時にだけ頭を下げるのは弱い。
だが、少し前に進んだ時に顔を出すのもまた必要だ。
榊原ファームはまだ潰れかけだ。
そこに見栄を貼っても仕方ない。
だったら逆に、今ある一歩だけを見せるしかない。
「……やるのね」
美緒が言う。
「やる」
恒一はうなずく。
その日の昼、三雲が来た。
「珍しいね」
軽トラから降りるなり、三雲は笑った。
「榊原さんから呼ばれると、だいたい面倒な話なんだよな」
「少し頼みがある」
「ほら来た」
「タチカゼの件を、次に繋げたい。あと、見に来る人間を絞りたい」
三雲の笑みが少しだけ薄くなる。
「絞る?」
「ああ。何でもいいから人を呼ぶんじゃなくて、ちゃんと先まで見る人間に絞りたい」
「榊原さん、今それを言える立場?」
「立場は弱い」
「自覚あるなら話は早い」
「でも、弱いからこそ無駄に荒らしたくない」
恒一ははっきり言った。
「フユノホシも、仔も、シラユキノハナもいる。見に来るだけの相手を入れて、馬房の空気を荒らす意味はない」
「……なるほどね」
三雲はようやく本気の顔になった。
「言いたいことは分かる。でも、絞るってのは、機会も減るってことだよ」
「分かってる」
「話を広げるなら、数を当てた方が早い」
「早いだけならな」
「それでも絞る?」
「絞る。見せる相手を間違えたら、売れるものも、残すものも傷む」
三雲はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「ちょっと前なら、そういうこと言う顔じゃなかった」
「かもな」
「今は違う?」
「今は、見せていい相手と、見せるだけ損な相手の差が前より分かる」
三雲は小さくうなずいた。
「じゃあ一人だけ、声かける」
「誰だ」
「牝馬の見方がうるさい馬主。派手な血統に飛びつかない代わり、気に入ると長い」
「面倒そうだな」
「面倒だよ。細かいし、すぐ決めないし、変なところを見る。でも、取れたら強い」
それは、まさに欲しい相手だった。
「頼む」
「分かった。ただし、見に来るのはフユノホシと仔馬、それからシラユキノハナも少し見ると思う」
「シラユキノハナも?」
「母系を見る人だからね。仔だけ見せても、たぶん納得しない」
三雲が帰ったあと、美緒がぽつりと言った。
「少し前なら、嬉しかったんだろうね」
「何が」
「見に来る人が増えるってだけで。誰でもいいから、見てくださいって」
「……ああ」
それだけで喜んでいた時期はある。
だが今は違う。
見に来るだけで馬は疲れる。
空気も変わる。
フユノホシは敏い。
仔馬はまだ小さい。
人を入れることそのものが勝ちじゃない。
見せる価値のある相手に、見せるべきものを見せることが勝ちだ。
夕方、厩舎の見回りに出る。
フユノホシは空いた馬房に守られるように、昨日より少しだけ落ち着いて見えた。視線の動きが減り、耳の忙しなさも薄い。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
⸻
フユノホシ
気性安定:B-
環境変化耐性:低
同馬房区画ストレス:低下
推奨対応:現状維持/接触人数制限
⸻
「やっぱり人を入れすぎない方がいいな」
低く呟く。
その隣、空いた馬房はまだ空のままだ。
もったいない。頭数だけ見ればそうだ。
だが、その空白が今のフユノホシには効いている。
そして、シラユキノハナの仔は昨日よりも少しだけ脚取りが安定していた。
派手さはない。
それでも、小さい変化がちゃんとある。
「兄さん」
後ろから美緒が来た。
「また見てたの?」
「ああ」
「帳簿には出ないところ?」
「出ないな」
「じゃあ、兄さんの目には?」
「少し出てる」
「どこが変わったの」
「戻り方がいい」
「戻り方?」
恒一は仔馬を見る。
母から少し離れ、驚いて、でも焦って飛びつかずに戻る。脚をもつらせない。諦めない。小さいが、そういうところに気性の芯が出る。
「こういうのは、値段にならない」
恒一は言う。
「でも、後で効く」
「見に来る人にも、それが分かる?」
「分かる人には分かる」
美緒は少し黙っていた。
「……分かる人が来なかったら?」
「その時は、値はつかない」
「売れない馬って言われる?」
「言われるかもしれない」
「それでも残すの?」
恒一は少しだけ黙った。
「残す価値があるならな」
「お金にならなくても?」
「すぐにはならないかもしれない」
「……怖いね、それ」
「ああ」
「でも、分かる人が来たら?」
「話が変わる」
そこで、恒一はようやく少しだけ笑った。
自分に見えているものを、そのまま全部伝えることはできない。
でも、現場の積み方と見せ方で、輪郭を浮かび上がらせることはできる。
それが牧場主の仕事なんだろう。
その夜、事務所で美緒が小さく言った。
「兄さん」
「なんだ」
「ちょっとだけだけど、今のうち、前よりまともになってきた気がする」
「ちょっとだけ、か」
「うん。まだ全然危ない。でも、行き当たりばったりで頭を下げるだけじゃなくなってきた」
恒一は帳簿を見た。
赤線はまだある。
だが、ただ赤いだけじゃない。どこを消して、どこを残すかが少しずつ見えるようになってきた。
それはたぶん、数字だけの話じゃなかった。
売る馬。
残す馬。
空けておく馬房。
見せる相手。
預ける先。
全部が繋がり始めている。
窓の外はもう暗い。
厩舎の灯りだけが点いている。
恒一はその明かりを見ながら、低く息を吐いた。
まだ遠い。
だが、遠いものを遠いまま見ているだけの感覚ではなくなっていた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:B-
配合読解:D+
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B-
牧場再建度:12%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




