第13話 牝馬を買う人間
人は、馬を同じ目では買わない。
牡馬を見る人間と、牝馬を見る人間では、立ち止まる場所が違う。
タチカゼの件がまとまってから三日後、その違いを恒一は嫌というほど思い知ることになった。
昼前、三雲の軽トラが厩舎の前に入ってきた。
荷台は空。代わりに助手席から降りてきた男が、妙に静かな空気を連れてくる。
六十に少しかかるくらいだろうか。
背は高くない。コートも地味だ。だが、立ち止まった瞬間に視線がまっすぐ厩舎へ向く。人ではなく、馬の匂いのする方へ迷いなく足が向く。
「菅沼さん」
三雲が言った。
「こちらが榊原さん」
「榊原です」
「菅沼だ」
短いやり取りだった。
菅沼は握手も求めず、すぐに言った。
「シラユキノハナから見せてくれ」
恒一は一瞬だけ目を細めた。
やはりそう来るか。
普通なら最初は若い馬だ。
当歳か一歳。見栄えがする方から見る。
だがこの男は違う。まず母から見たいと言った。
「こちらです」
厩舎の奥へ案内する。
シラユキノハナは、馬房の奥で乾草を噛んでいた。仔馬は母の腹の近くで、まだ少し不器用な脚取りをしている。
菅沼は馬房の前で止まり、しばらく何も言わなかった。
耳の向き、腹の張り、乳房の具合、仔馬との距離、そういうところをひとつずつ見ているのが分かる。
やがて、小さくうなずいた。
「悪くない母親だな」
「……母親、ですか」
美緒が思わず聞く。
菅沼は少しだけ笑った。
「派手な牝馬かどうかは、誰でもすぐ分かる。母親として残るかどうかは、少し見ないと分からん」
「見る場所が違うんですか?」
「違う。馬体だけ見てると、見落とす」
そこでようやく、仔馬の方へ視線を落とす。
「牡か」
「はい」
恒一が答える。
菅沼は仔馬を見ても、値踏みするような顔をしなかった。
むしろ確認するような目だった。
「今はまだ地味だな」
「はい」
「だが、お前さん、そこでは困っていない顔をしている」
また顔だ。
どうやら、隠し切れていないらしい。
「困ってないわけじゃありません」
恒一は言った。
「ただ、今の見た目だけで切る馬じゃないと思っています」
「うん。そういう顔だ」
菅沼はそこでようやく、シラユキノハナの血統表を見せろと言った。
事務所へ戻る。
美緒が用意していたファイルを開くと、菅沼は椅子にも座らずにページをめくった。
目が速い。
名前を追っているというより、枝を見ている感じだった。
「母系は古いな」
「はい」
「派手じゃない」
「はい」
「だが、急いで捨てる線でもない」
それだけ言ってファイルを閉じる。
美緒が横で小声になった。
「兄さん、この人、褒めてるの?」
「たぶん半分は」
「残り半分は?」
「今から刺される」
案の定、菅沼はすぐ次の言葉を出した。
「一歳牝馬は?」
「います」
「見せてくれ」
フユノホシの馬房へ向かう。
牝馬は知らない人間が増えたことで少しだけ耳を動かしたが、前のような硬さは出ていない。隣の空き馬房が効いているのか、呼吸は落ち着いている。
菅沼は柵の前に立ち、しばらく黙ったまま見ていた。
それから、歩かせてくれと言う。
恒一が中に入って、静かに出す。
フユノホシは少しだけ首を高くしたが、すぐ戻った。踏み込みはまだ軽い。形も薄い。ぱっと見で値が乗るタイプではない。
それでも、菅沼は一度だけ目を細めた。
「こっちだな」
低く言う。
三雲が肩をすくめた。
「やっぱり、そこを見ますか」
「牡の方は、もう線がついたんだろ」
「ええ」
「なら今日は、こっちを見る」
恒一の胸の奥で、何かが小さく緊張した。
フユノホシを見る人間は多くない。
見ても、大抵はすぐ切る。地味で、まだ線が細く、値段の説明がしづらいからだ。
だがこの男は違う。
「まだ売るには早い」
「そう思います」
恒一が返す。
「でも、持っていれば面白い」
「……」
「ただし、持てるならだ」
その最後の一言が、きれいに痛かった。
持てるなら。
金があれば、残せる。
時間があれば、待てる。
余裕があれば、育つまで見られる。
だが榊原ファームには、その全部が足りない。
「兄さん」
美緒が息を詰めるように小さく言った。
恒一は何も答えなかった。
まだ、相手の言葉の続きがあると分かっていたからだ。
菅沼はフユノホシの前から動かずに続ける。
「聞くが」
「はい」
「この牝馬、今ならいくらで出す」
空気が張った。
三雲が視線だけで恒一をうかがう。
玲奈は腕を組んだまま黙っている。
恒一は一瞬だけ、事務所の帳簿を思い出した。
乾草代は払えた。
獣医の当面も凌げる。
だが余裕ではない。全然足りない。
ここでまとまった額が入るなら、楽になる。確実に、少しは楽になる。
その誘惑は、ちゃんと重かった。
だが視界に浮かぶ文字もまた、消えない。
⸻
フユノホシ
脚元耐久:B
気性安定:B-
成長力:A-
繁殖価値潜在:B+
環境変化耐性:低
推奨方針:安値売却非推奨
総評:急がず持てば価値化。今はまだ説明しづらい
⸻
安値売却非推奨。
あまりにも嫌な言葉だった。
分かっている。分かっているからこそ、苦しい。
「今は出しません」
恒一は言った。
美緒がほんの少しだけ息を止めたのが分かった。
三雲も何も挟まない。
菅沼は表情を変えなかった。
「値を聞いても?」
「聞くだけなら」
「今の見た目で、こちらが出せるのはこの辺だ」
口にされた額は、安すぎるというほどではなかった。
むしろ、この馬の“今”だけを見れば、悪くない。
十分に、苦しい牧場なら心が揺れる額だった。
実際、恒一の胸も一瞬だけ揺れた。
今月がもっと楽になる。
レッドアークの先も少し軽くなる。
空いた馬房のこと、シラユキノハナの仔のこと、全部を考えれば、この金は小さくない。
だが――やはり違う。
「悪い額じゃありません」
恒一は正直に言った。
「だろうな」
「でも、今のままでは出せません」
「理由は?」
「安く見られすぎる」
そこで、菅沼が初めて少しだけ笑った。
「言うな」
「言います」
「普通は、そこで濁す」
「濁して売るほど、余裕がある牧場じゃありません」
菅沼はうなずいた。
「いい」
「……」
「今すぐ買えないのは惜しいが、安く拾う馬でもないな」
恒一は返事をしなかった。
こういう人間は、褒めた直後に平気で試す。
案の定、菅沼は次の一手を出した。
「なら、こうしよう」
「何でしょう」
「今は買わん。その代わり、来年の春まで持ってみろ」
「春まで、ですか」
「その時点でまだ残していて、体が崩れていなくて、こちらが見たい形になっていたら、もう一度話をする」
三雲が小さく目を細める。
玲奈も、少しだけ顔を上げた。
これは悪くない。
悪くないどころか、かなりありがたい話だった。
今すぐの金にはならない。
だが、“見る価値がある牝馬”として保留されたことになる。
それは値段以上に、牧場の信用へ効く。
「条件がある」
菅沼が続ける。
「何でしょう」
「雑に人を見せるな。変に馬を触らせるな。薄い時期の牝馬は、見せ方を間違えると、それだけで損をする」
「分かっています」
「ならいい。ここで人を入れすぎたら、せっかく残しても値を落とす」
また顔だ。
どうやら、この世界では思った以上に全部顔に出るらしい。
その場で話はまとまらなかった。
だが、壊れもしなかった。
事務所へ戻り、菅沼はシラユキノハナの血統表をもう一度だけ見てから言った。
「牡を一頭売っただけでは、まだ牧場の信用にはならん」
「はい」
「だが、売った後に何を残すつもりかは見た」
「……」
「雑に切り売りしていく顔じゃない。そこは覚えておく」
それだけ言って、男は帰った。
車が見えなくなったあと、事務所の空気がようやく少し緩む。
「……すごい人だったね」
美緒が最初に言う。
「疲れた」
「お前、見てただけだろ」
「見てる方が疲れることもあるの。兄さんが値段に揺れるところまで見えたし」
玲奈が小さく笑った。
「でも、悪くなかったわね」
「ああ」
恒一はうなずく。
「今すぐ金にはならない。でも、ただ見に来て終わりじゃなかった」
「むしろ、そっちの方が大きいかもね」
美緒が言う。
大きい。
たしかに大きい。
一頭売れた。
それだけでは、まだ“たまたま”で終わる。
だが、牝馬を見る人間が来て、母系を見て、フユノホシを保留に置いた。
それは、牧場そのものを見に来たということだ。
窓の外では、空いた馬房が静かに残っている。
フユノホシは落ち着いて乾草を噛み、シラユキノハナの仔は、少しだけ昨日より脚取りがしっかりしていた。
目に見えるほど大きくは変わらない。
だが、変わっていないわけでもない。
「兄さん」
美緒が帳簿を閉じる。
「今すぐ楽にはならないけど」
「ああ」
「でも、前みたいに“来月どうする”だけで終わってない」
「……そうだな」
売る。
残す。
見せる。
空けておく。
預ける。
その全部が、やっと一つの形になり始めている。
恒一は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
まだ細い。
だが、ようやく線になってきた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:B-
配合読解:D+
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B
牧場再建度:14%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




