第14話 見せない勇気
菅沼が帰った翌日から、厩舎の空気がまた少し変わった。
今度は馬のせいじゃない。
人のせいだ。
「兄さん、また電話」
事務所の机で帳簿を見ていた恒一は、顔も上げずに聞いた。
「誰だ」 「馬主じゃない。たぶん仲介」 「断っといてくれ」 「もう断った」 「早いな」 「三件目だから」
そこでようやく、恒一はペンを止めた。
「三件?」 「昨日の夕方から。『地味だけど後で変わる牝馬がいるらしい』って」 「……早すぎるだろ」 「この仕事で噂が遅い方が珍しいでしょ」
美緒の言うことは正しい。
タチカゼの件がまとまり、菅沼が来て、フユノホシを長く見た。
その事実だけで十分だ。誰かが見て、誰かが喋る。
それで“何かあるらしい牝馬”になる。
だが、その「何かあるらしい」は、牧場にとって薬にも毒にもなる。
「見るだけ見せて、値段だけ吊り上がるなら楽なんだけどね」 美緒が言う。 「そんな都合のいい話、あるわけないか」 「ないな」
恒一は窓の外を見た。
フユノホシは、昨日よりは落ち着いている。空いた馬房を間に挟んで、余計な刺激が減ったのが効いている。
だが、やっと少し戻っただけだ。
ここでまた見知らぬ人間を何組も入れれば、どうなるかは目に見えていた。
その時、事務所の戸が開いた。
「朝から渋い顔してるわね」
玲奈だった。
白衣の上にコートを羽織り、いつものように診療所帰りの顔をしている。
「フユノホシの件だ」 恒一が言う。 「また人が見に来たがってる」 「来たがってる、ね」 「昨日から三件」 「思ったより早いわね」
玲奈は帳簿より先に窓の外を見た。
「で、どうするの」 「今は見せない」 「即答ね」 「見せたら崩す」
そこには迷いがなかった。
金は欲しい。
見に来る相手の中には、もしかしたら悪くない縁もあるかもしれない。
だが、今は違う。
フユノホシはまだ細い。
空気の揺れをまともに拾う。
ここで“客が来るたびに少しずつ削れる馬”にしたくはなかった。
「兄さん」 美緒が聞く。 「本当に全部断るの?」 「ああ」 「それで機会を逃しても?」 「今のこいつは、機会を増やすほど値段が上がる馬じゃない。むしろ、見せすぎるほど安くなる」 「……」 「雑に見られて、薄いって言われて、まだ早いで終わる。それを何回もやったら、馬の方も人の方も擦り減るだけだ」
玲奈が小さくうなずく。
「正しいわね」 「褒めてるのか」 「半分は」 「残り半分は?」 「そういう判断、早くできるなら最初から苦労してないってこと」
返せなかった。
たしかにそうだ。
少し前の自分なら、人が来るだけで喜んでいた。
見に来る、値段がつくかもしれない、それだけでありがたかった。
でも今は違う。
見せる相手は選ぶ。
見せない方がいい時期がある。
それもまた、牧場主の判断だ。
「ルール決める」 恒一は言った。 「ルール?」 美緒が聞く。 「見学のか」 「ああ。誰でもは入れない。一日一組まで。仔馬と牝馬に触るのは俺か玲奈さんがいる時だけ。馬房の前で騒がない。見る順番も固定する」 「そこまでやる?」 「そこまでやる」
玲奈が口元だけ少し動かした。
「やっと分かってきたじゃない」 「何が」 「馬を見せるってことは、牧場の中身まで見せるってことよ」 「……」 「相手を選ばないってことは、牧場の空気を相手に委ねるのと同じ」
それは痛いほどよく分かった。
人は見て帰るだけかもしれない。
けれど馬は違う。匂いも、足音も、視線も拾う。
その一つ一つが、馬房の中に残る。
その日の午後、さっそく一人来た。
黒いワゴンから降りてきたのは、四十代くらいの男だった。上物のジャンパーに、よく磨かれた靴。いかにも“金はあるが、待つのは嫌い”という顔をしている。
「榊原さん?」 「そうです」 「中野です。三雲さんから聞いて」
聞いてない。
そう思ったが、三雲の名前が出たところで完全に追い返すわけにもいかない。恒一はひとまず事務所に通した。
「で、今日は何を見たいんですか」 恒一が聞くと、中野は笑った。
「何って、牝馬ですよ。面白いのがいるって聞いたから」 「今は見せてません」 「は?」 「今の時期は、限った相手にしか見せないことにしてます」
中野の顔が露骨に曇った。
「随分強気だな」 「そう見えるならすみません」 「売る気がないってこと?」 「そうじゃない。ただ、今は雑に見せる時期じゃない」 「雑?」 「見る側が悪いって意味じゃありません。馬の状態の話です」
中野は椅子に深く座り直した。
「零細が選り好みしてると、あとで困るんじゃないか」 「もう困ってますよ」 恒一は淡々と答えた。 「その上で、困るやり方を一つ減らしてるだけです」
一瞬、事務所の空気が冷えた。
美緒が横で息を止める。
玲奈は口を挟まない。ここは恒一が答える場だと分かっているからだ。
中野は数秒だけ黙ったあと、鼻で笑った。
「じゃあ、見せられる時になったらそっちから声かけて」 「分かりました」 「その頃には、こっちも気が変わってるかもしれないけど」 「それは仕方ないですね」
男は不機嫌そうに立ち上がり、そのまま帰った。
車の音が消えてから、美緒がようやく言った。
「……あれ、結構痛くない?」 「痛いよ」 「なのに断った」 「ああ」 「強くなったのか、意地になってるのか分からないね」 「両方だろ」
それは本音だった。
機会は惜しい。
だが、惜しい機会に飛びつくたびに、牧場の空気が削れていくなら、いずれ残す馬まで削る。
それは避けたかった。
夕方、厩舎を見に行く。
フユノホシは昨日よりさらに落ち着いていた。
耳の動きが減り、視線の忙しなさも薄い。恒一が近づくと、警戒より先に鼻先を寄せてくる。
視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:B- → B
環境変化耐性:低
接触人数負荷:高
推奨対応:限定見学継続/馬房間隔維持
総評:雑に見せない管理が有効
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「効いてるな……」
小さく呟く。
「何が?」 後ろから来た美緒が聞く。
「見せないこと」 「そんなにはっきり?」 「こいつの場合はな」
フユノホシは相変わらず地味だ。
今すぐ値段が跳ねるような顔はしていない。
だが、その分だけ、雑に扱われると損が大きい。
「牝馬を買う人間って」 美緒が柵にもたれながら言う。 「やっぱり、牡馬を見る人間とは違うんだね」 「違う」 恒一はうなずく。 「牡馬は“今いくらで売れるか”が前に出ることが多い。牝馬は、“持った後にどう残るか”まで見るやつがいる」 「分かる人じゃないと無理?」 「無理だな」
そこで視線をシラユキノハナへ移す。
母馬は落ち着いて乾草を噛んでいた。
仔馬はその横で、まだ地味なまま少しずつ形を作っている。
菅沼が最初に母を見た意味が、今なら少し分かる。
牝馬を見る人間は、一頭を買うんじゃない。
一頭の先に繋がる時間ごと買う。
だから厄介で、だからありがたい。
事務所へ戻ると、玲奈が紙を一枚差し出した。
「何だそれ」 「見学メモ」 「もう作ったのか」 「必要なんでしょ」 「……助かる」
そこには簡単な項目が並んでいた。
見学は一日一組
牝馬・仔馬への接触は管理者立会い必須
大声・急な動作禁止
見学順は一歳馬 → 母馬 → 仔馬
馬房前の滞在時間制限あり
美緒が横から覗き込んで笑う。
「病院の注意書きみたい」 「実際そんなものよ」 玲奈が言う。 「人間が好き勝手していい場所じゃないんだから」
恒一はその紙を見ながら、少しだけ考えた。
たぶん、こういうことなんだろう。
いい馬を作るっていうのは、配合を当てることだけじゃない。
値段のつく相手を見抜くことだけでもない。
馬が崩れない場所を作り続けることでもある。
外はもう暗い。
厩舎の灯りだけが点いている。
窓の向こうの静かな馬房を見ながら、恒一は小さく息を吐いた。
売るために見せる。
残すために見せない。
その線引きが、少しずつ牧場の形になり始めていた。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:D+
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B
牧場再建度:42%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




