第15話 静かな厩舎にだけ見えるもの
見学のルールを貼り出してから、厩舎の空気が少し変わった。
入り口の板に、玲奈が書いた紙を留めてある。
見学は一日一組
牝馬・仔馬への接触は管理者立会い必須
大声・急な動作禁止
見学順は一歳馬 → 母馬 → 仔馬
馬房前の滞在時間制限あり
たったこれだけだ。
だが、紙一枚あるだけで、人は少しだけ勝手を控える。
美緒は最初、その紙を見て笑った。
「ほんとに病院の貼り紙みたい」
「それでいい」
恒一は答えた。
「ここは、人が好きに入っていい場所じゃない」
「前は、そんな線を引く余裕もなかったのにね」
「今も余裕はない」
「でも、引かないと壊れるって分かるようにはなった」
「……そうだな」
朝の見回りをしながら、恒一はフユノホシの馬房の前で足を止めた。
牝馬は少し首を上げたが、前みたいにすぐ硬くはならない。隣の空き馬房がまだ効いている。人の気配を拾っても、慌てて飲み込まれない。
視界に文字が浮かぶ。
⸻
フユノホシ
気性安定:B
環境変化耐性:低
接触人数負荷:高
馬房間隔効果:有効
推奨対応:限定見学継続/現状維持
⸻
「少し戻ったな」
低く呟くと、フユノホシは鼻先をわずかに寄せた。
こういう小さい変化は、値段にはならない。
だが、値段になる前の価値は、だいたいこういうところにある。
その時、軽トラの音が近づいてきた。
三雲だった。
「おはよう」
「今日は誰だ」
恒一が聞くと、三雲は少しだけ肩をすくめた。
「一人だけ。先に釘は刺してある」
「誰」
「繁殖牝馬を持ってる馬主。勝つかどうかより、“残るかどうか”で見る人」
「また厄介そうだな」
「厄介じゃない人間は、地味な牝馬をわざわざ見に来ないよ」
たしかにそうだった。
助手席から降りてきたのは、五十代半ばくらいの女性だった。背筋がまっすぐで、コートは質がいいのに目立たない。靴の泥を入り口でちゃんと落としてから、厩舎へ目を向ける。
「片桐です」
短くそう名乗る。
「榊原です」
「紙、見ました」
片桐は入り口の貼り紙を見たまま言う。
「少なくとも、無駄に触らせる牧場ではなさそうですね」
「そうしたくないので」
「牝馬を雑に見せない牧場は、思ったより少ないんです」
その一言で、恒一は少しだけ肩の力が抜けた。
分かる人間は、入る前から分かる。
「順番、決めているんでしょう?」
片桐が言う。
「はい。一歳馬から見てもらって、そのあと母、最後に仔です」
「ええ。その方がいい。こちらも見間違えずに済む」
フユノホシの前へ案内する。
牝馬は知らない相手に少しだけ耳を動かしたが、すぐに呼吸を戻した。片桐は柵の前で立ち止まり、距離を詰めすぎない。馬を見る人間の立ち方だった。
「……薄いわね」
第一声はそれだった。
「はい」
恒一は答える。
「でも、崩れてはいない」
片桐は続けた。
「線が細い時期はある。問題は、薄いのに誤魔化していないかどうか」
美緒が横で少しだけ目を見開く。
「誤魔化していない、ってどういうことですか」
「首だけでよく見せている馬もいるし、気持ちだけで前に出る馬もいる。脚元に力が入りすぎている馬もいる。薄い時期ほど、そういう無理が見えやすいの」
恒一は黙って聞いた。
この人も、見る目の種類が違う。
値段じゃなく、残り方を見る人間の目だ。
「歩かせて」
片桐が言う。
恒一が静かにフユノホシを出す。
牝馬は一瞬だけ周囲を気にしたが、すぐ戻った。歩幅はまだ小さい。見映えもしない。だが、投げない。
片桐は一往復見て、小さくうなずく。
「今は売らない方がいいわ」
「そう思っています」
恒一が返す。
「ただ、持てるなら、ね」
「そこが一番痛いです」
片桐はそこで初めて、少しだけ笑った。
「正直ね」
「濁しても、馬も帳簿も良くなりませんから」
「いいわ。その返しは嫌いじゃない」
そこからは価格の話にならなかった。
代わりに、いつまで持つつもりか、どこを気にしているか、環境をどう見ているか、そういう話になった。
「人は入れすぎない方がいい」
片桐が言う。
「はい」
「牝馬は見せすぎると、値段より先に気配が痩せる」
「……気配が痩せる」
「ええ。馬体の数字より先に、目つきと食いに出ることがある」
「気をつけます」
「その意味では、空けた馬房をまだ埋めていないのは正解」
そこで恒一は少し驚いた。
「そこまで見ますか」
「牝馬を見るなら、馬そのものだけ見ていたら足りません」
フユノホシを戻したあと、シラユキノハナの馬房へ移る。
母馬は落ち着いていた。
仔馬は母の横で、まだ地味なまま少しずつ形を作っている。
片桐は最初、仔馬より先に母を見た。腹の張り、乳の具合、仔馬との距離、乾草の食い方。そういうところを一つずつ確かめる。
「この母、好きな人は好きでしょうね」
「好きじゃない人は?」
美緒が聞く。
「見た目で帰る人」
片桐は即答した。
恒一は思わず笑いそうになった。
ずいぶんはっきり言う。
「母系、古いでしょう」
「はい」
「でも、こういうのを急に切ると、あとで惜しくなる」
「……」
「手放した翌年に、よそで“なぜあれを残さなかったのか”と言われるタイプ」
その言葉は、妙に重かった。
シラユキノハナを残した。
昨日の仔も残した。
フユノホシも残すつもりだ。
その判断が全部、今のところまだ“金になっていない”だけで、間違いだとは限らない。
片桐はようやく仔馬へ目を落とした。
「地味ね」
「はい」
「でも、母に戻る時がいい」
美緒がすぐ反応する。
「戻る時、ですか」
「ええ。離れて、驚いて、でも慌てて飛びつかない。自分の脚で戻る。ああいう仔は、後で我慢を覚えやすい」
恒一の胸の奥で、少しだけ熱が走る。
自分が見ていたものと、同じだ。
「そういうの、見て分かるんですか」
恒一が聞く。
「全部は分からない」
片桐は言う。
「でも、そこを見ない人は、一生見ない」
その言葉は、ひどく静かで、ひどく正しかった。
事務所へ戻ったあと、片桐は血統表を見る前に、机の上の帳簿へ一度だけ目を落とした。
美緒が少し身を固くする。
「すみません。見せるつもりはなかったんですけど」
「見えてしまっただけよ」
片桐は言う。
「でも、机の上を綺麗に隠しすぎる牧場より、こういう方が信用できる時もある」
それからシラユキノハナの血統表を見て、フユノホシの簡単なメモも見た。
値段の話にはならない。
代わりに、片桐はゆっくりこう言った。
「今すぐ買う話はしない」
「はい」
「でも、春まで持っているなら、もう一度来る」
「……」
「その時に体が崩れていなくて、今みたいに空気を守れているなら、話は変わる」
菅沼と似ているようで、少し違った。
菅沼は“見る価値があるか”を量りに来た。
この人は、“持ち続ける覚悟があるか”を見ている。
「条件がありますか」
恒一が聞くと、片桐は小さくうなずいた。
「見せる相手を増やしすぎないこと。特に牝馬は」
「それは守ります」
「あと、母を痩せさせないこと」
「はい」
「仔馬の地味さに焦って、余計なことをしないこと」
「はい」
「それができるなら、今すぐ売れなくても、後で困らない馬になる」
その最後の一言が、妙に胸に残った。
今すぐ売れなくても困らない。
そう言い切れる人間は、自分たちの苦しさを知らないから言えることもある。
だがこの人は、たぶん違う。知った上で言っている。
見に来て、見て、値をつけずに帰る。
それなのに、何かを置いていく人間がいる。
片桐が帰ったあと、美緒が長く息を吐いた。
「……疲れた」
「お前、またそれか」
「見てるだけでも疲れるよ。値段が出ないのに、ずっと試されてる感じがした」
「見てただけじゃないでしょ」
玲奈が言う。
「今日はちゃんと空気を守ってた」
美緒は少しだけ笑った。
「それなら、ちょっとは仕事したかな」
恒一は窓の外を見る。
フユノホシは落ち着いている。シラユキノハナの仔も、さっきより静かだ。
見学のあとに厩舎が荒れていない。それだけで十分、小さな勝ちだった。
「兄さん」
美緒が聞く。
「今日の人、どうだった?」
「どうって」
「買わなかった。でも、兄さん、悪くない顔してる」
「……ああ」
恒一は少し考えてから答えた。
「牝馬を買う人間ってのは、いま目の前の馬を買うだけじゃないんだろうな」
「どういうこと?」
「母系も、時間も、管理も、全部まとめて見てる」
「面倒だね」
「面倒だ」
「でも、ありがたい?」
「かなりな」
机の上の赤線は、まだ消えない。
現金余力だって低いままだ。
なのに、不思議と朝よりは息がしやすかった。
買われなかった。
でも、見られた。
しかも、ちゃんと見られた。
それは今の榊原ファームには、小さくない。
窓の外、空いた馬房が静かに残っている。
いまはまだ、あそこに何も入れない。
空けておくこと。
見せないこと。
急がないこと。
前なら全部、負けに見えていた。
いまは違う。
守るために空ける場所がある。
待つために動かさない馬がいる。
それを分かる相手にだけ見せる。
その形が、ようやく牧場の中に根づき始めていた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:B
配合読解:D+
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B
牧場再建度:16%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




