第16話 待つ値段
待つのは、金のある人間の贅沢だ。
そう思っていた。
実際、榊原ファームには長く待つ余裕なんてなかった。
払うものは毎月来る。馬は毎日食う。待っているあいだにも、金は静かに減っていく。
だから恒一はずっと、待てない側の人間だった。
売れるなら売る。
今、値がつくなら取りにいく。
そうしなきゃ、そもそも来月がなかった。
なのに最近、その感覚が少しずつズレ始めている。
フユノホシは、待つことで守る馬だった。
シラユキノハナの仔も、今は値段にせず積んでいくしかない。
そして、そういう馬を見て「春にもう一度来る」と言って帰る人間がいる。
待つことが、ただの先延ばしじゃなくなり始めていた。
朝、事務所の机で帳簿を開きながら、美緒が言った。
「ねえ」 「なんだ」 「最近の兄さん、前より“今すぐ”に飛びつかなくなったよね」 「嫌味か?」 「半分は」 「残り半分は」 「前より牧場主っぽい」
褒められているのかどうか、よく分からない言い方だった。
「飛びつきたくないわけじゃない」 恒一はペンを置いた。 「飛びついた先で、安く終わるのが見えてきたんだよ」 「それ、前は見えてなかった?」 「見えてた。でも、見えてても取るしかなかった」 「今は?」 「見えてるなら、外せるものも出てきた」
言葉にすると、少しだけ重かった。
選べるようになった。
それは強さでもあるが、同時に、選んだ責任も増えるということだ。
その時、入り口の戸が開いて、乾いた風と一緒に三雲が入ってきた。
「おはよう」 「朝からどうした」 恒一が聞くと、三雲は肩をすくめた。
「悪い話と、悪くない話」 「悪い方から」 「片桐さん、次に来るの春って言ったよね」 「言った」 「その前に一回、血統表だけ見せてくれって」
恒一は少しだけ眉を寄せた。
「馬を見ずに?」 「馬は見ない。母系のメモと、フユノホシの近況だけ」 「……どういう意図だ」 「そこまでは知らない。でも、買う気がないならそこまで追わない人だよ」
美緒が帳簿から顔を上げる。
「それ、良い話じゃない?」 「半分はな」 三雲が言う。 「悪い方は?」 恒一が聞く。
三雲は少しだけ黙ってから答えた。
「黒峰スタッドも動いてる」
事務所の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
「何を」 「片桐さんのところに、別の牝馬を見せに行ったらしい」 「……」 「たぶん同じ土俵でぶつけてきてる。向こうは向こうで、牝馬の線を広げたいんだろうね」
当然といえば当然だった。
黒峰は大手だ。
頭数も、血統も、見栄えもある。
牝馬と母系の価値が動くと見れば、すぐに動いてくる。
「比べられるってことか」 美緒が言う。 「そういうこと」 三雲はうなずいた。 「しかも、向こうは最初から見せるための牝馬を出してくる。こっちはまだ“待つ牝馬”だ。簡単な勝負じゃないよ」
厳しい話だった。
派手さで比べられれば負ける。
金額の余裕でも負ける。
じゃあ何で勝つかといえば、やはり中身しかない。
「……血統表、出す」 恒一は言った。 「いいの?」 美緒が聞く。
「馬を見せるわけじゃない」 「でも、情報は出る」 「出す価値があるなら出す。そこまで隠して何も進まない方が困る」
三雲は少しだけ口元を緩めた。
「顔つき変わったね」 「最近みんなそれ言うな」 「前なら“全部見せるか、全部隠すか”だった。今は、出すものと出さないものを分けてる」 「……そうかもな」
その日の午後、恒一は父のノートとシラユキノハナの血統表、フユノホシの簡単な近況メモをまとめていた。
派手に飾る気はない。
だが、出すなら出すで、何を見てほしいかははっきりさせる。
母系の持続。
シラユキノハナの産駒伝達傾向。
フユノホシの成長の遅さと、崩れていないこと。
そのために見学を絞っていること。
嘘は書かない。
だが、見てほしい順番は作る。
「それ、何て言うんだろうね」 横で美緒が言う。 「何が」 「誇張じゃない。でも、ただの正直とも違う」 「見せ方だろ」 「血統表にも見せ方ってあるんだ」 「あるよ」 恒一は言った。 「何を先に見せるかで、相手の読み方は変わる」
そこへ玲奈が入ってきて、机の上の紙を覗き込んだ。
「悪くない」 「そうか」 「少なくとも、“地味だけどたぶん面白いです”って顔で投げるよりずっといい」 「そんな投げ方はしない」 「昔はしてたかもしれないでしょ」 「……否定しきれないな」
玲奈はシラユキノハナのメモの端を指で叩いた。
「ここ、もう少し書いて」 「どこ」 「母体管理。前回分娩後に無理をさせてないこと。乳の出が安定してること。母として崩れてないって、牝馬を見る人には結構大きいから」 「分かった」
恒一は書き足す。
派手な情報じゃない。
だが、そういう地味な管理が、あとで母系の信用になる。
夕方前、三雲が再び来て、その紙を持っていった。
「返事は?」 恒一が聞く。
「すぐは来ないと思う」 「向こうも比較するか」 「するだろうね。黒峰も出してるなら、なおさら」 「……そうか」
焦るな、と自分に言い聞かせる。
黒峰は派手な牝馬を出せる。
こっちは待つ牝馬を出している。
同じ土俵に見えて、実は違う。
夜の見回りで、恒一はシラユキノハナの馬房の前に立った。
母馬は落ち着いて乾草を噛んでいた。
仔馬は、昨日より少しだけ脚がしっかりして見える。相変わらず地味だが、戻る時のためらいは少ない。
フユノホシも、静かだった。
空いた馬房を間に置いたまま、余計な刺激を拾いすぎない距離が保てている。
恒一の視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:B
環境変化耐性:低
成長力:A-
繁殖価値潜在:B+
現状評価:待機価値上昇
総評:急売非推奨。管理継続で評価上振れ余地あり
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待機価値上昇。
妙な言葉だった。
でも、たしかに今のフユノホシにはそれがいちばん近い。
いま売れば、まだ早い。
いま崩せば、先はなくなる。
いま守れば、春に意味を持つかもしれない。
「待つ値段、か」
小さく呟く。
その時、事務所の方から美緒の声が飛んだ。
「兄さん!」 「なんだ」 「電話!」
急いで戻る。
受話器を取ると、相手は片桐だった。
『榊原さん?』 「はい」 『送ってもらったメモ、見たわ』 「ありがとうございます」 『結論だけ言う』 「はい」 『春を待つ価値はある』
短い一言だった。
値段の話じゃない。
約束でもない。
それでも、胸の奥に落ちる重さは小さくなかった。
『ただし』 片桐が続ける。 『黒峰の牝馬の方が、今は見映えも説明もしやすい』 「……そうでしょうね」 『でも、あなたのところの方が、時間をかけた時の匂いがある』 「匂い、ですか」 『ええ。そういうのは、急いで売ると消える』
恒一は目を閉じた。
欲しかった言葉の一つだった。
勝った、ではない。
でも、負けていない。
『だから、春まで崩さないこと』 片桐が言う。 『見せすぎないこと。焦らないこと。そこが守れたら、もう一度行く』 「……分かりました」 『それと』 「はい」 『黒峰と同じやり方はしない方がいい。向こうは向こうの勝ち方がある。あなたのところまでそれを真似すると、薄い馬から先に消える』
その言葉は、きれいに腹に落ちた。
電話が切れたあと、事務所の中はしばらく静かだった。
「何て?」 美緒が聞く。
恒一は受話器を置いて、短く答えた。
「春を待つ価値はあるって」 「……」 「ただし、焦るなってさ」 「それ、かなり大きくない?」 「大きい」
玲奈が小さく笑う。
「待つのは贅沢だと思ってた顔してる」 「今も思ってるよ」 「でも?」 「待つ方が高い時もあるって、少しだけ分かってきた」
窓の外では、厩舎の灯りが静かに点いている。
派手な勝ちじゃない。
金が一気に増えたわけでもない。
それでも、静かな厩舎にだけ見えるものが、たしかに一つ増えた気がした。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B-
交渉・信頼:B
牧場再建度:48%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




