第17話 信用は、現金より遅い
待つ価値がある。
片桐のその言葉は、たしかに重かった。
だが、重い言葉で乾草は買えない。
翌朝、榊原ファームの事務所に来たのは、飼料業者の桐生だった。
五十代半ば、無駄のない顔つきで、いつもは必要以上に喋らない。今日はその無駄のなさが、いつもより少しだけ硬かった。
「おはようございます」 恒一が頭を下げる。 「おはよう」 桐生は短く返した。 「少し話いいか」
その言い方で、だいたい分かる。
嬉しい話ではない。
美緒が黙って帳簿を閉じる。
事務所の空気が、ひとつ分だけ冷えた。
「来月分の乾草、前回と同じ条件では出しにくい」 桐生はまっすぐ言った。
やっぱり来たか、と恒一は思った。
今月分の一部はタチカゼの代金でなんとかした。だが、過去の遅れが完全に消えたわけではない。桐生の側だって商売だ。いつまでも待てるわけがない。
「理由は分かると思う」 「……はい」 「こっちも、待つだけ待ってるつもりだ」 「分かってます」
そこで嘘をついても仕方ない。
待つ価値がある。
そう言われた牝馬がいる。
春まで持てば値段が変わるかもしれない。
でも、その春まで乾草が要る。
その間を埋めるのが、いちばん苦しい。
「兄さん」 美緒が静かに言う。 「帳簿、出す?」 「出す」 恒一は答えた。
もう見栄を張る段階ではない。
どう苦しくて、どこまでなら動けるのか、見せるしかない。
美緒が帳簿を開き、今月の入出金と、タチカゼ売却後の反映分を桐生の前に置く。
赤線は前より薄い。
だが、まだ消えてはいない。
桐生はしばらく数字を追ってから、ひとつ息を吐いた。
「少しは動いたな」 「はい」 「でも、まだ薄い」 「はい」
認めるしかない。
「タチカゼの売却、決まったんだってな」 桐生が言う。 「もう話回ってるのか」 美緒が小さく呟く。 「この辺じゃ、回らない方が珍しい」 桐生は帳簿から目を離さないまま言った。
そうだろう。
一頭売れたくらいで劇的に変わるわけではない。
だが、動いた事実だけは先に広がる。
「なら、少しは信用してもらえませんか」 恒一が言う。 「してないわけじゃない」 桐生はすぐ返した。 「してなきゃ、今日ここで話してない」
その言い方は、厳しいがまっとうだった。
「ただな、榊原さん」 桐生が顔を上げる。 「信用と現金は別だ」 「……」 「信用は遅れて効く。現金は今すぐ要る。そこを間違えると、お互い苦しくなる」
痛いほどその通りだった。
信用は、ある。少しずつ。
タチカゼが売れた。
北斗へ流れた。
片桐も春を待つ価値があると言った。
だが、その全部が今月の乾草代に化けるわけじゃない。
まだそこまでは届いていない。
「条件を変えてくれませんか」 恒一は言った。 「前と同じ額を同じ間隔で入れるのは、正直きつい」 「何を出せる」 「今月はここまでなら」 美緒が横から具体的な数字を言う。 「来月は、タチカゼの残り反映と、動いている牝馬の線次第で上積みできます」 「牝馬?」 桐生の目が少しだけ動く。
恒一はそこで、片桐との話を全部は言わないまでも、嘘にならない程度に伝える。
「今すぐ売るつもりはない牝馬がいます。ただ、春まで持つ価値があると言われてる」 「今すぐ売らないのに、そこを当てにするのか」 桐生の声は厳しかった。
当然だ。
待てば高い。
それは裏を返せば、今は金にならないということでもある。
「当てにしてるわけじゃない」 恒一は首を振った。 「ただ、安く切って潰すつもりもない」 「……」
桐生はしばらく黙った。
事務所の中で、美緒も玲奈も何も言わない。
ここは恒一が、自分の判断で話す場所だと分かっているからだ。
「榊原さん」 桐生がゆっくり口を開く。 「それは正しい」 「……」 「正しいが、苦しい」 「はい」 「正しいだけで乗り切れるほど、こっちも甘くない」
その言葉に、恒一はわずかに唇を噛んだ。
待つことに価値がある。
それは本当だ。
でも、その本当が遅い。遅いから、待つ側は苦しい。
「だから条件を変える」 桐生が言う。
顔を上げる。
「来月の納入量を少し刻む。一回の量を減らして回数を分ける」 「……」 「その代わり、遅れたら次は止める」 「分かりました」 「あと、乾草だけじゃなく濃厚飼料の配分も見直せ。全部に同じだけ入れてたら持たない」
玲奈がそこで初めて口を開いた。
「それ、私も言おうと思ってた」 「どこを削れる」 恒一が聞く。
玲奈はすぐ答える。
「シラユキノハナは今の乳量ならまだ維持。仔馬も急にはいじらない。問題は一歳の配分」 「フユノホシか」 「タチカゼが抜けた分、そこは少し組み替えられる。気性を崩さない範囲でね」 「……」 「要するに、“待つ馬”と“今つくる馬”で入れ方を変えるの」
桐生が小さくうなずいた。
「そういうことだ」 「全部を同じように食わせる余裕はもうない」 美緒も帳簿に何か書き込む。 「でも、全部を一律に削ると、価値まで薄くなる」 「だから分ける」 恒一が言った。
口にした瞬間、その考えが腹に落ちる。
待つ牝馬。
今つくる仔。
維持して次へ繋ぐ母。
全部、同じ“馬”でも、同じ時間ではない。
なら、かける金の意味も同じじゃない。
「兄さん」 美緒が言う。 「今、分かった顔した」 「したか」 「した」 「……まあ、少しな」
桐生はそのやり取りを見て、初めて少しだけ口元を緩めた。
「少しは、前より話ができるようになったな」 「前はできてなかったみたいに言うな」 「できてなかった」 玲奈が即答する。 「お前まで乗るな」
だが否定しきれなかった。
前の自分なら、ただ「待ってくれ」としか言えなかったかもしれない。
今は違う。何を守りたいのか、どこに金を使うのか、少しずつ説明できるようになっている。
桐生は立ち上がった。
「じゃあ、次の納入はこの条件でいく」 「ありがとうございます」 「礼は早い」 桐生は首を振る。 「ちゃんと払ったら、その時に言え」 「……分かりました」
事務所を出ていく背中を見送りながら、恒一は小さく息を吐いた。
助かったわけではない。
ただ、今日もひとつ、首はつながった。
「信用は遅れて効く、か」 美緒が呟く。 「その通りだな」 恒一は言った。
タチカゼの売却。
片桐の言葉。
フユノホシを見せすぎないこと。
全部、今すぐ現金にはならない。
だが、話をする余地にはなった。
それは前より、ずっと大きい。
昼過ぎ、恒一はフユノホシの馬房の前に立った。
牝馬は落ち着いて乾草を食んでいる。
少し前なら、人の出入りで耳が忙しかった。今は違う。間に空き馬房があり、見学も絞られ、厩舎の空気が静かになった。
視界に文字が浮かぶ。
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フユノホシ
気性安定:B
成長力:A-
繁殖価値潜在:B+
現状評価:待機価値上昇
推奨対応:飼料配分最適化/静穏維持
総評:急がず守るほど、春の価値が残る
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守るほど、価値が残る。
それは、金のない牧場にはひどく酷な言い方だった。
だが、間違ってはいない。
その時、シラユキノハナの仔が少しだけ勢いよく動き、母から離れて、でも慌てず戻った。前より一歩が安定している。
恒一はじっと見た。
「兄さん」 美緒が後ろから来る。 「また見てる」 「見るだろ」 「分かる?」 「少しはな」 「どこが」 「焦りが減った」 「仔馬の?」 「俺のだよ」
自分で言って、少しだけ可笑しかった。
焦って売る。
焦って見せる。
焦って全部を同じように扱う。
そういうやり方では、たぶんこの牧場はもう持たない。
待つ値段。
見せない値段。
静かな厩舎の値段。
そういうものまで含めて、ようやく牧場の経営になってきた気がした。
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榊原恒一
牧場経営力:B
配合読解:C-
繁殖観察:B
若駒評価:B
現場判断:B+
資金繰り判断:B
交渉・信頼:B
牧場再建度:51%
榊原ファーム
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:再編中
若駒資産価値:B-
自家保留価値:A-
牧場ブランド:E+
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先候補:北斗トレーニングファーム




