第80話 渡す前に線を引く
朝のハルノトーチは、昨日より静かだった。
馬房の奥で乾草を噛んでいる。
人の気配に耳を立てるが、前へ出てこない。
派手に見せようとしないぶん、左前の置き方がよく見えた。
玲奈はしゃがみ込み、球節の上に手を当てた。
「熱は強くありません」
三浦が床を見る。
「腫れもないな」
「はい。ただ、輸送してから硬くなる可能性はあります」
恒一は作業表に書いた。
ハルノトーチ:朝確認。熱感強くなし。輸送後再確認必須。
美緒が横で、昨日の売却確認書を押さえていた。
「今日、育成先の人と話すんだよね」
「ああ」
「黒峰側から照会が入ってるって話も、こっちから言う?」
「言う」
「先に?」
「先に」
美緒は少しだけ頷いた。
「後から知る方が嫌だもんね」
「それもある」
「それ以外は?」
「こっちが隠したと思われる」
ハルノトーチが鼻を鳴らした。
売れた馬だ。
けれど、まだ馬房の中にいる。
引き渡す前に線を引かなければ、引き渡した後の扱いまで曖昧になる。
事務所へ戻ると、三雲が通話の準備をしていた。
画面には、久住側の育成担当者の名前が出ている。
橘育成センター。
担当、橘宗吾。
三雲が言った。
「黒峰側の照会は、一般的な育成方針について。名目は普通。でも、内容はハルノトーチに寄ってる」
「どこまで聞かれてる」
「脚元リスクのある馬の調教開始時期。急仕上げを避ける場合の坂路負荷。見映えのある馬をどう抑えるか」
美緒の眉が寄った。
「それ、ほぼハルノトーチじゃん」
「そういうこと」
三浦が腕を組んだ。
「向こうも馬を見たんだろ。見たうえで、こっちの言葉を先に拾いに来てる」
恒一は、ハルノトーチの確認書を机に置いた。
左前の所見。
急仕上げ不可。
輸送後確認。
立たせすぎ注意。
育成開始時の負荷段階。
紙は一枚では済まなかった。
それでも、足りないよりはいい。
通話がつながった。
画面の向こうに、五十代ほどの男が映る。
作業着の襟に、乾草の欠片がついていた。
「橘です」
「榊原です。ハルノトーチの件で」
「資料は拝見しました。かなり細かいですね」
橘は嫌そうではなかった。
だが、笑ってもいなかった。
「細かすぎますか」
「いいえ。細かい方が助かります。ただ、売る側がここまで書くのは珍しい」
三浦が小さく息を吐いた。
恒一は答えた。
「書かないと、見映えで急がせる馬です」
橘は画面の向こうで少し頷いた。
「それは分かります。昨日の映像でも、立ち方は目を引きました」
「立たせすぎないでください」
「そこも資料にありました」
「輸送後、左前を見てから運動量を決めてください」
「ええ」
橘は一度、手元の紙を見た。
「黒峰側からも、一般的な照会が来ています」
美緒の指が止まる。
橘は続けた。
「こちらとしては、買い手である久住さんと榊原さんから正式に受けた資料を優先します。黒峰側からの照会には、個別馬に関する回答はしません」
事務所の空気が少しだけ緩んだ。
だが、恒一はすぐには頷かなかった。
「その方針を、確認書に残せますか」
橘の眉が動いた。
「文章で?」
「はい。ハルノトーチに関する育成情報は、久住さん、橘育成センター、榊原ファームの三者間で扱う。第三者への個別共有はしない」
橘は少し黙った。
その沈黙の間に、外で馬が床を鳴らした。
美緒が支払い表の端を押さえる。
売った後まで口を出すのかと思われるかもしれない。
だが、ここを曖昧にすれば、黒峰側は「一般的な話」として、また名前を変えて入ってくる。
橘が顔を上げた。
「分かりました。久住さんにも確認します」
「お願いします」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「売った後の馬に、売り手がここまで線を引くのは、相手によっては嫌がられます」
三雲が画面を見た。
美緒の肩が少し固くなる。
恒一は、机の上の確認書を見た。
「嫌がられても、書きます」
「理由は?」
「この馬は、見映えで急がせると脚元に来ます。売った以上、決定権は買い手と育成先にあります。でも、こちらが見た危ない線を、見なかったことにはできません」
橘は黙って聞いていた。
「ハルノトーチは、派手に見える馬です。だから、紙を地味にします」
美緒が小さく息を吐いた。
橘は、そこで初めて少し笑った。
「派手な馬ほど、紙を地味に。分かりやすい」
画面の向こうで、紙をめくる音がした。
「久住さんには、こちらからも伝えます。黒峰側への個別回答はしません。榊原さんの確認書を基準にします」
「ありがとうございます」
「ただし、引き渡し後の状態が変わったら、こちらで判断します」
「もちろんです」
「そこまで縛られると、こちらも困る」
「縛りたいわけではありません」
恒一は言った。
「最初の踏み出しを間違えたくないだけです」
通話が終わると、美緒はすぐにメモを書いた。
橘育成センター:個別情報第三者共有なし。確認書基準。引き渡し後は育成先判断。
三浦が椅子に腰を下ろした。
「まともな育成先で助かったな」
「久住さんが選んだ相手です」
「黒峰側は?」
三雲が端末を見た。
「たぶん、次は別のところを触る」
「別のところ?」
「久住さん側が駄目なら、佐伯さん側。もしくは、牧場見学希望を増やす」
美緒が顔を上げた。
「見学?」
「セリで名前が少し出たからね。榊原ファームを見たいって人は増える。そこに黒峰側の人間が混じる可能性もある」
事務所が静かになった。
外では、アオバノミチが乾草を噛んでいる。
ハルノトーチが一度、床を鳴らした。
売れた二頭の足音が、まだ牧場の中にある。
美緒は支払い表の横に、新しい紙を出した。
見学希望者管理。
その一番上に、大きく書く。
シラユキノハナ当歳牡馬:見学対象外。
恒一はその文字を見た。
「そこから書くのか」
「そこから書く」
美緒は顔を上げなかった。
「二頭が売れたから、次は残す馬を見に来る人が増える。見せない馬を先に決めないと、また後手になる」
三浦が頷いた。
「当歳牡馬は出すな」
「出さない」
恒一は答えた。
美緒は続けて書いた。
ハルノトーチ:引き渡し関係者のみ。
アオバノミチ:佐伯・久我側確認のみ。
シラユキノハナ当歳牡馬:非売、見学不可、資料非開示。
その下に、少し迷ってからもう一行足す。
見せる馬と、残す馬を同じ紙にしない。
恒一は何も言わなかった。
美緒はペン先を止めたまま、厩舎の方を見た。
「売れたのに、仕事増えたね」
「増えたな」
「でも、潰れるための仕事じゃない」
「ああ」
「守るための仕事だね」
その言葉のあと、しばらく誰も動かなかった。
支払い表の乾草代には、小さな丸がある。
ハルノトーチの確認書には、左前の注意が並んでいる。
見学希望者管理の紙には、まだ一行目しか埋まっていない。
それぞれ別の紙なのに、全部が同じ牧場を守るためのものだった。
事務所の端で、三雲の端末が鳴った。
今度は黒峰側ではなかった。
新規見学希望。
件名だけで、美緒の顔が引き締まる。
差出人の会社名を見た三雲が、少しだけ目を細めた。
「知らない名前だけど、所在地が黒峰側の育成提携先と近い」
美緒は見学希望者管理の紙を、机の中央へ寄せた。
乾草代の丸の横に、新しい黒丸が増える。
支払いは少し進んだ。
だが、守る紙は一枚増えた。
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榊原恒一
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:49%
榊原ファーム
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- ハルノトーチ:橘育成センターと引き渡し条件確認/第三者共有なし
- アオバノミチ:佐伯・久我側への引き渡し準備継続
- シラユキノハナ牡馬:非売/見学不可/資料非開示
- 黒峰側:育成先照会から見学希望ルートへ移行の可能性
- 次の勝負:見学希望の中に混じる黒峰側ルートを見抜けるか




