第79話 丸をつけても消えない
セリ場から戻った夜、事務所の明かりは消えなかった。
机の上には、二枚の作業表が並んでいる。
ハルノトーチ。
アオバノミチ。
その横に、支払い表。
乾草代。
獣医代。
輸送費。
セリ場での諸費用。
美緒は乾草代の横に、小さな丸をつけた。
昨日より、少しだけ紙の見え方が違う。
だが、消えたわけではない。
「払えるのは、乾草代の今月分」
「全部か」
「全部は無理。半分先に入れて、残りは入金日を確認してから」
「獣医代は」
「玲奈さんのところは、今月末。輸送費は先に来る。セリ場の手数料もある」
美緒は鉛筆を置かなかった。
「売れたのに、軽くならないね」
「軽くはなった」
「うん。でも、軽くなっただけ」
恒一は、二枚の売却確認書を見た。
久住側。
佐伯・久我側。
どちらにも、榊原ファームの名前が入っている。
黒峰の名前はない。
それだけで十分だと思いたかった。
だが、紙は次の支払い日を待ってくれない。
三雲が椅子に座ったまま、売却条件を見直していた。
「ハルノトーチは、引き渡し前に左前の確認書をもう一枚つけた方がいい」
「追加で?」
「うん。久住さん側は分かってる。でも、後で別の人間が見た時に、言った言わないになるのが一番まずい」
玲奈が頷いた。
「私が書きます。今日の状態と、急仕上げ不可、輸送後の確認条件」
美緒がメモに書き足した。
ハルノトーチ:引き渡し前確認書。玲奈作成。
「アオバノミチは?」
三雲が紙をめくる。
「佐伯さん側は、歩様評価込み。久我さんも見てる。ただ、金額はかなり踏ん張ってる。入金条件をきっちり確認した方がいい」
「分割?」
「一部は契約時。残りは引き渡し時」
美緒の鉛筆が止まった。
「そこ、乾草代に間に合う?」
「ぎりぎり」
「ぎりぎりは嫌い」
「俺も嫌いだよ」
三雲は苦笑したが、目は笑っていなかった。
外で、馬房の戸が鳴った。
三浦が戻ってきた。
「二頭とも食ってる」
「ハルノトーチは?」
「少し立ち方を変える。悪いってほどじゃない。ただ、明日の朝も見る」
玲奈がすぐに立ち上がる。
「私も見ます」
「今から?」
「今見て、朝も見ます」
三浦は何も言わなかった。
現場の人間は、そういう時に止めない。
ハルノトーチは、もう売れた馬だ。
だが、まだ榊原ファームの馬房にいる。
売れたから終わりではない。
引き渡すまで、命はこちらにある。
恒一は立ち上がった。
「俺も行く」
美緒が支払い表を押さえた。
「兄さん」
「なんだ」
「乾草屋さんには、私が電話する」
「今日か」
「今日。売れたから払いますって言いたい。でも、全部じゃないから、ちゃんと言う」
美緒は一度、電話番号の横にある名前を見た。
「待ってもらうお願いじゃなくて、払える分と残る分を伝える」
「頼む」
「謝るのは私。兄さんは馬を見て」
「すまん」
「だから、それは今いらない」
美緒は受話器を取った。
恒一は、それ以上言わずに厩舎へ向かった。
ハルノトーチは、馬房の中で首を上げた。
人の気配に耳を立てる。
見られる姿勢を作る。
セリ場と同じ顔だった。
だが、左前を置き直す時の間は、まだ残っている。
玲奈が膝をつき、手を当てた。
「熱は強くありません」
三浦が床を見た。
「輸送で硬くなるな」
「なります」
「久住さんには、明日朝の状態も伝える」
恒一は頷いた。
ハルノトーチが鼻を鳴らした。
「お前は、派手に立たなくていい」
馬は分かっていない顔でこちらを見る。
「急がせない相手に行く。だから、明日まで余計なことをするな」
三浦が少しだけ笑った。
「馬に言ってもな」
「言わないよりましです」
隣の馬房では、アオバノミチが乾草を噛んでいた。
セリ場から戻っても、食べるリズムは大きく変わっていない。
人が増えても、耳を動かすだけ。
恒一は、その前に立った。
「お前は歩いたな」
アオバノミチは、乾草を噛み続けた。
「写真じゃ残らなかったらしいぞ」
耳が少し動く。
「でも、歩きで残った」
乾草を噛む音が返ってくる。
事務所へ戻ると、美緒が電話を終えていた。
受話器を置いた手が、少し赤くなっている。
「どうだった」
「半分は明日振り込み。残りは入金確認後」
「怒られたか」
「怒られなかった」
美緒は支払い表を見た。
「でも、軽く笑われた」
「笑われた?」
「『売れたなら、次はいい乾草食わせてやれ』って」
美緒は口元を少しだけ緩めた。
「だから、払う。遅れた分も」
支払い表の乾草代の横に、もう一つ小さな印が増えた。
三雲の端末は、机の上で黙っていた。
誰も触らなかった。
売却確認書の上には、榊原ファームの名前が二つ残っている。
黒峰の名前は、どこにもない。
それでも、恒一は端末の黒い画面から目を離せなかった。
鳴らない間が、かえって嫌だった。
しばらくして、三雲の端末が短く鳴った。
画面を見た瞬間、三雲の眉が動いた。
「黒峰側」
美緒の手が止まる。
「何」
三雲は文面を読んだ。
「売却成立、おめでとうございます。今後、榊原ファーム産駒の育成経過に関する情報整理を、業界全体の品質向上のため共有できれば幸いです」
事務所が静かになった。
美緒が低く言う。
「また名前を変えた」
「ああ」
恒一は文面を見た。
配合相談ではない。
情報共有でもない。
今度は、業界全体の品質向上。
「返す?」
三雲が聞いた。
「返す」
「どう返す」
恒一は、二枚の作業表を見た。
ハルノトーチ。
アオバノミチ。
どちらも、馬を見た相手へ渡る。
その紙を、別の誰かの都合でまとめ直す必要はない。
「買い手本人と育成先には、必要な情報を渡す。業界向けの共有資料は作らない」
美緒がすぐに書いた。
字は濃かった。
買い手本人・育成先のみ。
業界共有資料なし。
三雲が端末を操作する。
「送るよ」
「お願いします」
送信音が鳴った。
今度も、すぐには返信が来なかった。
外では、アオバノミチが乾草を噛んでいる。
ハルノトーチが一度、床を鳴らした。
机の上では、乾草代の横に小さな丸がついている。
丸は増えた。
だが、支払い表はまだ白くならない。
その夜遅く、三雲の端末がもう一度鳴った。
黒峰側ではなかった。
久住側の育成先からだった。
ハルノトーチの引き渡しについて、事前確認したい事項があります。
美緒が顔を上げた。
「久住さんのところ?」
「育成先から」
三雲は文面を下へ送った。
「左前の確認書。輸送後のチェック。あと……黒峰側から、一般的な育成方針の照会が入っているらしい」
玲奈の顔が固くなった。
三浦が低く言った。
「そっちへ回ったか」
恒一は、ハルノトーチの作業表を見た。
もう売れた馬だ。
だが、まだ守る線は残っている。
「明日、久住さん側と直接話します」
美緒は、作業表の余白に書いた。
育成先確認。黒峰側照会あり。
乾草代の丸の横で、その文字だけが濃く残った。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:49%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- ハルノトーチ:久住側へ売却成立/引き渡し前左前確認書作成
- アオバノミチ:佐伯・久我側へ売却成立/入金条件確認中
- 乾草代:一部支払い予定/残額あり
- 黒峰側:育成先側へ一般照会
- 次の勝負:久住側育成先との確認で、黒峰側の横入りを防げるか




