第78話 二枚の札
セリ場の空気は、午前より重くなっていた。
番号札を持つ手。
馬体写真を覗き込む顔。
小さく交わされる声。
壇上から響く、早口の金額。
美緒は、二枚の透明ファイルを抱えていた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
まだ、別々だ。
最初に呼ばれたのは、ハルノトーチだった。
通路へ出ると、すぐに人の目が止まった。
首を上げる。
耳を立てる。
肩とトモの線が、照明の下で強く見える。
「やっぱり映えるな」
誰かが言った。
恒一は、その声より先に資料を出した。
「脚元の説明紙を先に見てください」
相手の男が、少し笑った。
「セリの前に弱点を出すんですか」
「扱い方です」
玲奈が横で続けた。
「左前に注意が必要です。今すぐ悪い状態ではありませんが、急仕上げには向きません」
男は紙を見たあと、ハルノトーチの前脚へ視線を落とした。
長くは見なかった。
「これなら、少し下げて見た方がいいですね」
美緒の指が、ファイルの角を押さえた。
少し離れた場所で、黒峰側の担当者が別の買い手に何かを言っている。
「脚元の紙を先に出すってことは、売り急ぎかもしれない」
そんな声が、後ろから流れてきた。
三浦が低く言った。
「値引きに使われてるな」
「それでも出す」
恒一はハルノトーチを見た。
馬は、褒められることを知っている顔で立っていた。
だからこそ、安く急がせる相手には渡せない。
競りが始まった。
最初の声は、悪くない額だった。
すぐに別の札が上がる。
司会の声が跳ね、金額が一段上がるたびに、人の視線がハルノトーチの馬体と前脚を行き来した。
途中まで、値引き目当ての札も混じった。
美緒が息を詰める。
「下がる」
「ああ」
「でも、残ってる」
残っている札が一つあった。
久住だった。
久住は札を上げるたび、ハルノトーチの馬体ではなく、歩様メモを見ていた。
黒峰側の買い手が一度だけ札を上げかける。
担当者の口元が動いた。
その札は、上がらなかった。
久住が、もう一度札を上げる。
金額が止まった。
会場のざわつきが、一拍だけ薄くなる。
ハンマーの音が落ちた。
ハルノトーチは、久住側へ落ちた。
最高額ではない。
だが、脚元を読んだ相手だった。
黒峰側の担当者は、手元の資料を一度だけ折り曲げた。
すぐに表情を戻したが、その角だけが少し白く残った。
美緒は作業表に書いた。
ハルノトーチ、久住側。脚元説明込み。
ペン先が少し震えていた。
「黒峰の札じゃない」
「ああ」
「馬を見た札だった」
「そうだ」
次は、アオバノミチだった。
空気は、さっきより薄い。
馬体写真を見た者が、次の馬のページをめくる。
美緒の口元が固くなった。
「やっぱり、止まらない」
「歩かせる」
三浦が引き綱を持つ。
アオバノミチは、騒がしい通路へ出ても急がなかった。
一歩目。
蹄が静かに入る。
二歩目。
首を使い、背中が硬くならない。
三歩目。
後ろが自然についてくる。
佐伯が見ている。
久我も見ている。
黒峰側の買い手も見ている。
ただ、見ている場所が違った。
黒峰側の買い手は、周囲の反応を見ていた。
久我は、蹄の置き方を見ていた。
競りが始まった。
最初の額は低かった。
美緒の手が、ないはずの支払い表を探すように動いた。
乾草代。
獣医代。
輸送費。
紙はここにないのに、数字だけは頭に残っている。
黒峰側が札を上げた。
会場がざわつく。
「黒峰が来た」
「榊原、結局そっちか?」
小さな声が広がる。
久我の札は、動かなかった。
佐伯が何かを言う。
久我はアオバノミチを見た。
馬は通路の端で落ち着いている。
派手ではない。
だが、崩れていない。
久我の札が上がった。
美緒が息を止める。
黒峰側も上げる。
金額が、佐伯側の上限に近づいていく。
久我は一度、札を下げた。
佐伯は何も言わなかった。
ただ、アオバノミチを見ていた。
アオバノミチは、床を一度だけ鼻で確かめるように下を向き、すぐに顔を戻した。
久我が、もう一度札を上げた。
それが最後だった。
黒峰側の買い手は、担当者を見た。
担当者は笑っていなかった。
数秒。
誰も札を上げなかった。
ハンマーの音が落ちた。
アオバノミチは、佐伯と久我の側へ落ちた。
美緒は、すぐには書かなかった。
ペン先を作業表の上で止める。
支払いは、まだ軽くなりきらない。
それでも、二頭は同じ紙にはならなかった。
美緒は、ゆっくり書いた。
アオバノミチ、佐伯・久我側。歩様評価込み。
事務机へ戻ると、美緒は支払い表を開いた。
乾草代の横に、小さく丸をつける。
全部は消えない。
獣医代も、輸送費も、まだ残っている。
それでも、今日払えるものが一つ増えた。
「売れたな」
「うん」
「黒峰の紙にはならなかった」
「うん」
「二頭とも、馬を見た札だった」
美緒は二枚の作業表を並べた。
ハルノトーチ。
アオバノミチ。
その間に、クリップはない。
黒峰側の担当者が、遠くからこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、次の紙をめくっていた。
三雲が小さく言った。
「向こうは、これで終わりにしないよ」
「分かっています」
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:49%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低→やや低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- ハルノトーチ:久住側へ売却/脚元説明込み
- アオバノミチ:佐伯・久我側へ売却/歩様評価込み
- 黒峰側:直接取得失敗/外圧継続の可能性
- 次の勝負:売却後の支払い整理と黒峰側の次手




