第77話 セリ場で名前を戻す
セリ場の朝は、牧場より音が多かった。
馬運車の扉が開く音。
蹄がゴムマットを踏む音。
人の声。
紙袋を抱えた業者の足音。
美緒は、透明ファイルを二つ抱えていた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
二つのファイルは、最後までクリップで留めなかった。
「兄さん」
「なんだ」
「もう見てる人がいる」
美緒の視線の先で、二人の男がこちらを見ていた。
一人が手元の紙をめくる。
「榊原ファーム、黒峰さんと組むって聞いたけど」
声は大きくない。
だが、近くの人間には聞こえる。
美緒の指が、透明ファイルの角を押さえた。
恒一は、答える前に二枚の資料を机へ置いた。
表紙には、榊原ファームの名前だけが入っている。
「共同名義ではありません」
相手の男が、少し眉を上げた。
「黒峰さんの推薦が入るんじゃないの?」
「育成先の推薦は聞きます。決めるのは、買い手と育成先です」
「情報共有は?」
「正式な買い手本人と、正式な育成先だけです」
美緒が、横から一枚の表示紙を出した。
榊原ファーム単独資料。
共同名義なし。
売却後情報共有は正式な買い手・育成先のみ。
黒い文字は、昨夜より濃かった。
「ずいぶんはっきり書くんだね」
「曖昧にすると、馬が曖昧に扱われるので」
恒一が言うと、男はそれ以上聞かなかった。
だが、周りの視線は残った。
三雲が小さく笑った。
「まず一つ、名前は戻したね」
「戻しただけです」
「戻すのが一番面倒なんだよ」
最初に出したのは、ハルノトーチだった。
通路に出ると、すぐに人の目が止まった。
馬体は映える。
首の位置もいい。
セリ場の明かりを受けると、肩とトモの線が強く見える。
近づいてきた見学者が言った。
「これは目立つね」
「ええ」
恒一は、相手が馬体を褒め終える前に資料を差し出した。
「先に脚元の紙を見てください」
「先に?」
「はい」
資料の一枚目には、左前の確認事項を書いてある。
展示時間短縮。
歩様確認は静かな場所。
急仕上げ不可。
輸送後左前確認済み。
見学者は紙を見てから、ハルノトーチの前脚へ視線を落とした。
玲奈が横で言う。
「今すぐ悪い状態ではありません。ただ、見映えだけで急がせる馬ではありません」
「隠さないんですね」
「隠して売る馬ではありません」
ハルノトーチは耳を立てたまま、少し前へ出ようとした。
三浦が引き綱を短く持ち直す。
「長く立たせないぞ」
「お願いします」
恒一は頷いた。
ハルノトーチを下げると、何人かの視線が追った。
金額だけなら、もっと強く押せる馬だ。
だが、見映えで焦れば、脚元から削れる。
美緒は作業表に書いた。
ハルノトーチ、展示短縮済み。
その下に、小さく足す。
褒められてから紙を出さない。
次は、すぐにはアオバノミチを出さなかった。
人が多い時間帯は、派手な馬へ流れる。
通りすがりに見られ、地味だと言われ、紙の上で安く置かれる。
それでは、この馬を出す意味がない。
「まだ?」
美緒が聞いた。
「まだ」
「人、減ってきたよ」
「もう少し」
アオバノミチは馬房の奥で乾草を噛んでいた。
馬運車の音にも、人の声にも、耳を動かすだけで食べるのをやめない。
佐伯が来たのは、昼前だった。
隣には年配の男がいる。
佐伯が小さく頭を下げた。
「馬主の久我です」
久我は派手な挨拶をしなかった。
アオバノミチの馬房を見て、少し困ったように言う。
「写真だと、正直、残らなかった」
美緒の指が作業表の端で止まる。
久我は続けた。
「黒峰側の数字も聞いています。うちの上限だと、あちらと並べられたら見劣りします」
佐伯は口を挟まなかった。
「ただ、佐伯が歩きを見たいと言うので来ました」
「ありがとうございます」
恒一は、紙をすぐには渡さなかった。
「先に歩かせます」
三浦が引き綱を受け取る。
アオバノミチは馬房から出る時、急がなかった。
一歩目。
蹄が静かに床を捉える。
二歩目。
首を使い、背中が硬くならない。
三歩目。
後ろが自然についてくる。
久我は黙った。
佐伯も黙っている。
通路の端で、黒峰側の担当者がこちらを見ていた。
三浦は折り返しで速度を少し落とした。
アオバノミチは、引き綱に寄りかからない。
戻ってきた時、久我がようやく口を開いた。
「これは、写真では分からないね」
美緒の肩から、少しだけ力が抜けた。
「高く見えますか」
美緒が聞いた。
久我はすぐに答えなかった。
「高くは、見えにくい」
佐伯が横を見る。
久我は続けた。
「でも、長く置けば減りにくい馬に見える」
恒一は、そこで資料を渡した。
「早く作る馬ではありません」
「でしょうね」
「二歳の早い時計を求めるなら、向きません」
「佐伯から聞いています」
「それでも見ますか」
久我はアオバノミチの馬房を見た。
馬はもう乾草に戻っている。
「見ます。金額は、正直まだ苦しい」
「分かっています」
「でも、歩きは見ました」
その時、黒峰側の担当者が近づいてきた。
「榊原さん」
声は穏やかだった。
「うちの推薦名を外しても、今日の場では誤解が残るかもしれませんよ」
美緒が透明ファイルを抱え直した。
恒一は、アオバノミチの馬房から目を離さなかった。
「誤解なら、紙と馬で消します」
「時間がかかります」
「かけます」
黒峰側の担当者は、少し笑った。
「強いですね」
「強いわけじゃありません」
恒一は言った。
「名前を借りたら、楽になるだけです」
相手はそれ以上言わなかった。
去っていく背中を見ながら、三雲が低く呟く。
「今の、周りに聞かせに来たね」
「こっちも聞かせました」
美緒は資料の表紙を見た。
榊原ファーム。
その名前だけが入っている。
夕方前、見学者名簿には二本の線が引かれていた。
ハルノトーチ。
アオバノミチ。
それぞれ違う相手の名前が横にある。
まだ売れたわけではない。
まだ金も入っていない。
それでも、二頭の紙は別々のまま残った。
机の端に、使わなかったクリップが置かれていた。
その時、美緒がふと顔を上げた。
黒峰側の担当者が、別の買い手に何かを耳打ちしている。
相手の男は一度、榊原ファームの方を見た。
美緒はクリップから手を離した。
恒一は二頭の資料を、もう一度別々に置き直した。
机の上で、二枚の資料だけが少し離れて残っていた。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:47%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ牡馬:非売方針/見学対象外
- アオバノミチ:歩様確認済み/佐伯側馬主が評価
- ハルノトーチ:展示短縮/脚元説明済み
- 黒峰側:噂による外圧継続
- 佐伯側:金額差は残るが歩様評価上昇
- 次の勝負:セリ本番で二頭を別々に売り切れるか




