第76話 名前を借りない
黒峰側からの返信は、朝になって届いた。
美緒は、事務所の机に資料を三枚並べた。
こちらが送った返信文。
黒峰側の修正文。
昨日の支払い表。
その横に、外したままのクリップが一つ置かれている。
「一応、飲んだ形にはなってる」
「一応か」
「二頭一括は外す。配合相談の優先協議も外す。育成先は推薦まで。決定権は榊原ファーム側」
美緒はそこで指を止めた。
「でも、下に一文ある」
恒一は紙を見た。
小さな文字だった。
販売後の育成経過について、黒峰側提携先への情報共有を希望。
「名前を変えてきたね」
「ああ」
「優先協議じゃなくて、情報共有」
「中身は同じだ」
美緒は赤鉛筆で、その一文の下に線を引いた。
「これ、何を送ることになるの」
「左前の戻り。調教後の息の入り。育成先がどこまで待つか。次にどこを伸ばすか」
「それ、ほぼ育成方針じゃん」
「そうだ」
「売ったあとまで、こっちの紙が向こうに行く」
美緒の声が低くなった。
三雲は、腕を組んだまま紙を見ていた。
「黒峰側からすれば、かなり譲ってるように見える。金額も落としてない」
「だから嫌なんだろ」
三浦が言うと、事務所の空気が少し重くなった。
金額は助かる。
乾草代。
獣医代。
輸送費。
セリ場での滞在費。
支払い表の上では、黒峰側の数字だけが強かった。
美緒は支払い表を見たあと、赤線を引いた小さな文字を見る。
「この一文、消せるかな」
「消す」
恒一は答えた。
「情報共有は、買い手本人と育成先に限る。黒峰側提携先には出さない」
「それを送ったら?」
「条件が落ちるかもしれない」
「乾草屋さんへの電話、確定に近づくね」
「ああ」
美緒は唇を結んだ。
怒っているわけではない。
数字を見ている。
金額が一段落ちれば、誰に頭を下げるかまで見えている。
その時、外から馬運車の音がした。
セリ場へ向けた輸送の準備が始まっている。
厩舎へ行くと、ハルノトーチが馬房の前で首を上げた。
玲奈が左前を確認している。
「熱は?」
「強くありません。腫れもありません。ただ、昨日より少し硬く使おうとしています」
「出せるか」
「出せます。でも、見せ方は絞ってください」
三浦が引き綱を手にした。
「セリ場で立たせっぱなしにはしない」
「お願いします」
ハルノトーチは、そんな話を知らずに耳を立てている。
見られることを知っている馬だ。
だから、人間が止めなければならない。
恒一は作業表に書いた。
ハルノトーチ:展示短時間。歩様確認場所指定。左前再確認。
美緒がその横に書き足す。
見映えで焦らない。
次に、アオバノミチの馬房へ向かった。
アオバノミチは乾草を噛んでいた。
馬運車の音にも、耳を一度動かすだけだった。
「こっちは変わらないね」
美緒が小さく言った。
「変わらないのが売りになる」
「でも、セリ場でそれを見てくれる人が残るかどうか」
「残す」
「どうやって」
「紙を先に出さない。歩かせる時間をこっちで決める」
三浦が頷いた。
「人が引いたあとだな」
「ああ」
「派手な馬を見終わって、まだ通路に残ってる連中だけに歩かせる」
「そこで見ない相手には売らない」
アオバノミチが、乾草を噛む音を一度だけ止めた。
すぐにまた噛み始める。
恒一はその音を聞いてから、資料の端に書いた。
歩様確認は、見学者を絞る。
事務所へ戻ると、三雲が顔を上げた。
「黒峰側への返信、送る?」
「送る」
「強いままだよ」
「弱く書くと、情報共有の名前で戻される」
美緒が赤鉛筆を置いた。
「黒峰側提携先への共有はしない。売却後の連絡先は、買い手本人または正式な育成先のみ」
「これでいい」
三雲が端末を操作した。
送信音が鳴った。
すぐには返信は来ない。
かわりに、佐伯から短い連絡が入った。
馬主側、金額差で迷っています。
ただ、アオバノミチの歩きは見たいとのことです。
美緒は画面を見て、息を吐いた。
「佐伯さん側も楽じゃないね」
「金額では黒峰側に負けてる」
「でも、歩きは見たい」
「ああ」
その時、三雲の端末が鳴った。
別の見学者からだった。
榊原ファームは、黒峰側と組むのですか。
資料名義が変わるなら、見方を変えたいです。
美緒の顔が強張った。
「もう噂になってる」
三浦が舌打ちした。
「早いな」
「早いんじゃなくて、流した奴がいるんだろ」
美緒は端末を握ったまま、机の上の透明ファイルを見た。
まだ何も渡していない。
まだ何も留めていない。
それなのに、榊原ファームの名前だけが、先にセリ場へ歩いていく。
恒一は、机の上の二枚の資料を見た。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
その間に、外されたクリップ。
まだ留めていない。
留めていないのに、外ではもう留まったことにされている。
「美緒」
「うん」
「セリ場用の表示を直す」
「何を書く?」
「榊原ファーム単独資料。育成方針は買い手本人にのみ説明。黒峰側との共同名義なし」
美緒はすぐに書き始めた。
字は濃かった。
榊原ファーム単独資料。
共同名義なし。
売却後情報共有は正式な買い手・育成先のみ。
「これ、かなり喧嘩売ってるように見えない?」
「喧嘩じゃない」
恒一は言った。
「馬の名前で、牧場の名前を貸さないだけだ」
外で、馬運車の扉が開く音がした。
ハルノトーチが一度、床を鳴らす。
アオバノミチは、乾草を噛み続けている。
美緒は二枚の資料を別々の透明ファイルに入れた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
それぞれの表に、榊原ファームの名前だけが入っている。
クリップは使わなかった。
その時、美緒の端末が短く鳴った。
黒峰側からの返信は、一行だけだった。
承知しました。では、セリ場で。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:47%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ牡馬:非売方針/見学対象外
- アオバノミチ:歩様確認は見学者を絞る方針
- ハルノトーチ:展示短時間/左前輸送前確認
- 黒峰側:情報共有名目で主導権維持を試みる
- 佐伯側:馬主側が金額差で迷い/歩様確認希望
- 次の勝負:セリ場で黒峰側との噂をどう消すか




