第74話 アオバノミチを歩かせる
美緒は、見学者名簿のアオバノミチの横に「歩き」と書いた。
その下に、もう一行足す。
長く見る相手。
鉛筆の先は、そこで少し止まった。
「佐伯さん、何時?」
「午前十時」
「黒峰側は?」
「午後に返事が来る」
美緒は名簿を閉じず、横に支払い表を置いた。
乾草代。
獣医代。
輸送費。
セリ登録の残り。
数字は昨日と同じ場所に並んでいる。だが、ハルノトーチの提示額が一段落ちた分だけ、紙の上の余白が狭く見えた。
「兄さん」
「なんだ」
「アオバノミチで外したら、痛い」
「ああ」
「でも、歩かせるんだよね」
「歩かせる」
恒一は厩舎へ向かった。
アオバノミチは、馬房の中で乾草を噛んでいた。
人の気配に耳だけを向ける。
顔は上げない。
見られていることを、売りに来ない。
立ち姿だけなら、通路の足は止まらない。
背中の線も派手ではない。
肩も目立たない。
馬体写真だけなら、ハルノトーチの方が先に見られる。
だが、飼葉桶の前から半歩動いた時、首の使い方が柔らかかった。
力まない。
急がない。
前脚を置いたあと、後ろが自然についてくる。
アオバノミチ
歩様安定:A-
気性安定:B+
成長余地:A
早期完成度:C
総評:立ち姿では目立たない。だが、歩かせる相手には残る
恒一は表示を見て、資料の余白に短く書いた。
写真で売らない。歩かせる。
佐伯は、時間より少し早く来た。
背広ではなく、動きやすい上着だった。靴も、通路を歩く前提のものを履いている。
美緒が名簿を見たあと、佐伯の靴を見た。
「今日は歩くつもりで来たんですね」
「はい。資料を読んだら、歩かせないと分からない馬だと思いました」
「……それ、褒めてます?」
「褒めています。少なくとも、写真だけで決める馬じゃない」
佐伯はそう言って、アオバノミチの馬房の前で足を止めた。
馬は顔を上げない。
「地味ですね」
佐伯が言った。
美緒の指が、名簿の端で少し動く。
「はい」
恒一は答えた。
「売り場では損をしますね」
「します」
「それでも歩かせる」
「そこを見ない相手には、売れません」
佐伯は小さく頷いた。
「お願いします」
三浦が引き綱を受け取った。
アオバノミチは馬房から出る時、急がなかった。
扉の金具が鳴っても、耳を一度動かすだけで足を乱さない。
通路へ出る。
一歩目。
前脚が静かに入る。
二歩目。
首がわずかに下がり、背中が硬くならない。
三歩目。
後ろ脚が前の跡を追いすぎず、離れすぎもしない。
佐伯は馬体の張りではなく、蹄の置き場所を見ていた。
玲奈は歩いたあとの呼吸を見ている。
三浦は折り返しの手前で速度を少し落とした。
アオバノミチは、そこで引き綱にぶら下がらなかった。
「もう一度、反対から」
佐伯が言った。
三浦は何も言わず、向きを変える。
アオバノミチは、同じように歩いた。
見せるために大きく歩かない。
嫌がって小さくもしない。
通路の端で、別の見学者が小さく笑った。
「これ、セリで止まりますかね」
美緒の肩が少し動いた。
佐伯は返事をしなかった。
アオバノミチが戻ってくるまで待ち、馬の前を横切らずに一歩下がる。
「長く見たい馬ですね」
その言葉で、美緒が顔を上げた。
「高く見たい、じゃなくてですか」
「高く見るには、短い時間だと不利です」
佐伯はアオバノミチの前脚を見たまま言った。
「でも、長く使う前提なら、気になるところが少ない」
恒一は資料を差し出した。
「早く仕上げる馬ではありません」
「そうでしょうね」
「急がせると、たぶん良さが消えます」
「分かります」
佐伯は資料を受け取った。
美緒が支払い表を抱え直す。
「条件は、どのくらいになりますか」
佐伯はすぐには答えなかった。
アオバノミチが馬房へ戻り、乾草へ顔を落とすまで待った。
「正直に言います。黒峰さん側の事前条件ほどは出せません」
美緒の指が、支払い表の角を押さえた。
「どのくらい下がりますか」
佐伯が金額を言う。
事務所の空気が、一度止まった。
安くはない。
だが、黒峰側の数字には届かない。
乾草代の欄。
獣医代の欄。
輸送費の欄。
美緒の目が、順番にそこをなぞった。
「兄さん」
「ああ」
「金だけなら、黒峰側」
「そうだな」
「佐伯さんの条件だと、支払いを一つ先に送ることになる」
「分かってる」
「分かってて、どう見るの」
恒一は窓の外を見た。
アオバノミチが通路を歩いた跡が、薄く残っている。
敷き藁の粉が、蹄の形に少しだけ乱れていた。
紙には金額が残る。
通路には、歩いた跡が残る。
その時、美緒の端末が鳴った。
「黒峰側」
美緒は画面を見て、眉を寄せる。
「再条件。金額、上がってる」
「条件は」
「育成先の指定は推薦に変更。資料名義も榊原ファームを前面に出していいって」
「配合相談窓口は」
美緒は画面を下へ送った。
そこで指が止まる。
「優先権は残ってる」
三雲が低く息を吐いた。
「そこは外さないか」
佐伯は何も言わなかった。
ただ、資料を閉じずに待っていた。
恒一はもう一度、アオバノミチの馬房を見た。
馬は乾草を噛んでいる。
人間の金額も条件も知らない顔で、ゆっくり噛んでいる。
「佐伯さん」
「はい」
「この馬を、いつまでに仕上げたいですか」
「急ぎません」
「二歳の早いところで結果を求められたら?」
「向かないと思います」
「セリで目立たなかったら?」
「目立たないでしょうね」
佐伯は少しだけ口元を動かした。
「だから、歩かせてもらったんです」
そこで、佐伯は資料の端を押さえた。
「ただ、私だけで決められる話ではありません。予算も、馬主側の判断もあります」
「分かっています」
「それでも、歩きを見た上で話を続けたい」
美緒は支払い表を見た。
すぐには返事をしなかった。
鉛筆を持ち、乾草代の横に小さく印をつける。
獣医代の欄にも、別の印をつける。
「支払い、組み直す」
「ああ」
「かなり痛いよ」
「分かってる」
「でも、歩きで見てくれる相手なら」
美緒はアオバノミチの名前の横に、丸ではなく線を引いた。
「交渉継続」
佐伯が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「まだ決めたわけじゃありません」
美緒が先に言った。
「うちは今、簡単に安く売れるほど余裕はありません」
「分かっています」
「でも、高くても持っていかれたくない条件もある」
「はい」
恒一はアオバノミチの馬房の前に立った。
「今日は歩いたな」
アオバノミチは耳だけを動かし、乾草を噛み続けた。
その足元には、さっき通路を歩いた時についた敷き藁の粉が、まだ少し残っている。
この馬は紙で売る馬ではない。
事務所に戻ると、名簿の上で黒峰側の数字と佐伯の資料が並んでいた。
通路には、アオバノミチの歩いた跡がまだ残っていた。
---
榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:47%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ牡馬:非売方針/見学対象外
- アオバノミチ:歩様評価上昇/長期育成前提
- ハルノトーチ:脚元リスク説明必須
- 黒峰側:再条件提示/配合相談優先権維持
- 佐伯側:条件理解あり/交渉継続
- 次の勝負:セリ場で二頭をどう見せるか




