第73話 脚元まで売る
美緒は、見学者名簿の一番上に「ハルノトーチ」と書いた。
その横に、小さく丸をつける。
見映え。
脚元。
急仕上げ不可。
相手確認。
鉛筆の字は、昨日より少し細かった。
「名簿、調べた」
「どうだった」
「表の担当者名は出てる。でも、実際に誰が見るかは分からない」
「三雲は?」
「もう確認してる」
美緒は名簿を閉じなかった。
「高く買う人か、安く叩く人か、紙だけじゃ分からないね」
「今日はそこを見る」
「馬じゃなくて?」
「馬も見る。でも、人を見る」
恒一は厩舎へ向かった。
ハルノトーチは、馬房の奥で首を上げていた。
背中の線が通っている。
肩の出方も目を引く。
通路に人が立つと、耳を向けるのも早い。
セリ場で目立つ馬だ。
乾草は減っている。
食いは悪くない。
ただ、足を置き直した時、左前の球節が沈み、地面から離れる瞬間の戻りに、ほんの少しだけ間があった。
痛いわけではない。
けれど、急がせれば、その小さな硬さが積み重なる。
ハルノトーチ
馬体映え:A
脚元耐久:C-
早期負荷リスク:高
総評:見映えは高い。だが、脚元の扱い方まで含めて売らなければ崩れる
脚元まで含めて売る。
恒一は表示を見たあと、資料の余白に同じ意味の言葉を書いた。
急がせない相手に限る。
最初の見学者は、馬房の前に立った瞬間、表情を明るくした。
「これは映えますね」
「トモの張りもいい。セリ場で立たせたら、かなり目を引く」
「肩もきれいに出る。早めから動かしても面白そうだ」
玲奈の目が細くなった。
見学者は馬体の輪郭を見ている。
玲奈は、左前だけを見ていた。
恒一は資料の端を押さえる。
「早めから攻める馬ではありません」
「そうですか?」
「見映えはします。ただ、セリ後すぐ時計を出すような仕上げ方は避けてください」
「そこまで書くんですか」
「書きます」
見学者は資料へ視線を落とし、少し間を置いた。
「……正直なのは結構です。ただ、この書き方だと、こちらも見方を変えることになります」
美緒の指が、名簿の端で止まった。
値段が下がる。
その痛みは、分かっている。
ハルノトーチに高値がつけば、乾草代も獣医代も、セリまでの輸送費も少し楽になる。
美緒の視線は、提示額ではなく、その横に書いた乾草代の欄へ落ちていた。
「兄さん」
「なんだ」
「私、今の額でも一瞬ほっとした」
「ああ」
「だから、ちゃんと言って。私が帳簿だけ見ないように」
「分かってる」
脚元を見ない相手に売れば、馬の方が先に払う。
「隠して崩れたら、次からもっと下がります」
恒一は言った。
玲奈が短く続ける。
「歩かせましょう」
三浦が引き綱を受け取った。
ハルノトーチは通路へ出ると、見られていることを知っているように首を整えた。
歩き出しはいい。
反応も早い。
三歩目。
左前が地面を離れる時、球節の返りが半拍だけ遅れた。
見学者は、光を弾くトモの張りと全体のシルエットを見ていた。
玲奈は、蹄が地面から離れる一点だけを見ていた。
三浦は歩幅ではなく関節の戻りを見るために、二歩だけ速度を落とした。
「今のです」
玲奈が言う。
「このくらいなら、育成でどうにでもなるでしょう」
見学者は、まだ脚元へ視線を落としていなかった。
「どうにでもなる、で壊す人が多いんです」
玲奈の声は低かった。
事務所に戻ると、見学者は金額を一段下げてきた。
美緒が帳簿の角を押さえる。
爪の先が紙に食い込んでいた。
すぐには、誰も喋らなかった。
外で、ハルノトーチが鼻を鳴らす音だけがした。
「兄さん。これでも助かる額ではある」
「ああ」
「でも、最初に聞いてた感触より落ちる」
「分かってる」
美緒は怒っていない。
金を見ているだけだ。
恒一も、金を見ていないわけではない。
ただ、その金をどこから削っているのかを見ていた。
「脚元の記載を、少し丸くできませんか」
「できません」
「“育成時に配慮”くらいなら」
「それでは足りません」
「商売が固いですね」
「馬の脚は、丸く書いても強くなりません」
事務所の空気が止まった。
外から三雲の声がした。
「悪い。もう一人、連れてきた」
三雲の後ろに、薄いジャンパーを着た男がいた。
背広ではない。
靴の汚れ方も、馬を見る人間のものだった。
「久住です」
男は名刺を出す前に、机の上の資料を見た。
ハルノトーチの歩様メモのところで、指を止める。
「この資料、修正後にもらえますか」
「馬体じゃなくて、そこを見るんですか」
「馬体は外で見ました」
久住は静かに言った。
「左前、球節の戻りが少し遅いですね」
玲奈が久住を見る。
三浦は黙ったまま、引き綱を持つ手を緩めた。
「急がなければ悪い馬じゃありません」
久住は続けた。
「早めに見映えだけで作るなら、私は見ません。坂路を急に上げるのも嫌です。硬い馬場で続けて使うのも嫌です」
「……」
「馬体を作るより、調教後の戻りを見る育成先じゃないと難しい」
恒一は資料を久住の方へ向けた。
「今、そのまま書こうとしています」
「いいですね」
「売りにくい資料です」
「だからこそ、先に見ておきたいんです」
先の見学者が口を挟んだ。
「欠点を並べた資料を欲しがるんですか」
「欠点じゃありません」
久住はそちらを見ずに言った。
「扱い方です」
外で、ハルノトーチが鼻を鳴らした。
恒一は資料の一文を線で消した。
脚元リスクあり。
それだけでは足りない。
代わりに書く。
早期から攻めすぎないこと。
坂路負荷を急に上げないこと。
硬い馬場で続けて使わないこと。
見映えではなく、調教後の戻りを確認すること。
美緒が横から覗き込む。
「そこまで書くんだ」
「書く」
「値段、落ちるよ」
「落ちる相手には売らない」
「……」
「落とさずに読める相手を探す」
美緒は少し黙ってから、帳簿を閉じた。
「じゃあ、探す方に賭ける」
「ああ」
久住は資料を折らずに鞄へ入れた。
「セリ本番で、改めて話をさせてください」
「お願いします」
「ただ、こちらで決められる話ではありません。厩舎と馬主側の意向もあります」
「分かっています」
「今日は、買うと言いに来たわけじゃありません」
久住は、鞄の上から資料の角を軽く押さえた。
「この書き方をする牧場かどうか、見に来ました」
佐伯は、アオバノミチの資料を手にしたまま、そのやり取りを見ていた。
資料の端を指で押さえ、もう一度だけハルノトーチを見る。
「売る馬にも、守り方があるんですね」
「あります」
「売ったあとも?」
「売ったあとに壊れるなら、売れたとは言えません」
佐伯は小さく頷いた。
「アオバノミチの歩きも、同じように見ます」
「お願いします」
久住は帰り際、戸口で一度振り返った。
「一つだけ」
「何でしょう」
「これを見せる相手は選んだ方がいい」
「分かっています」
「脚元まで読む人間と、脚元を値引きに使う人間は違います」
恒一は頷いた。
三雲が、見学リストの久住の名前に丸をつけかけて、途中で止めた。
「こっちは、脚を見てます」
「だな」
「でも、まだ買い手じゃない」
「ああ」
三雲は丸ではなく、名前の横に短く線を引いた。
「候補、だね」
窓の外で、ハルノトーチがもう一度鼻を鳴らした。
見映えだけなら、もっと簡単に高く売れたかもしれない。
脚元まで出せば、値段は一度落ちるかもしれない。
それでも、恒一は資料を戻さなかった。
この馬は、馬体だけで売ってはいけない。
脚元まで売る。
そう決めた。
夕方、恒一はアオバノミチの馬房の前に立った。
アオバノミチは乾草を食べていた。
人の気配に耳を向けるが、食べるのをやめない。
今日も、地味だった。
けれど、明日はこの馬を歩かせる。
「次は、お前だな」
アオバノミチは耳だけを動かした。
事務所では、美緒が見学者名簿を開いたまま、久住の名前の横に引かれた線を見ていた。
鉛筆の先は、まだアオバノミチの名前の上で止まっていた。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:47%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ牡馬:非売方針/見学対象外
- アオバノミチ:長期育成前提で評価上昇
- ハルノトーチ:脚元リスク説明必須
- 黒峰側:価格勝負継続
- 次の勝負:アオバノミチを歩かせる相手選び




