第72話 三頭の見せ方
美緒は、乾草代の黒丸の横に「セリ」と書き足した。
鉛筆の字は、いつもより濃かった。
乾草代。
獣医代。
輸送費。
セリ前の細かな出費。
紙の上では、どれも同じ数字に見える。だが、合計欄の線だけは、榊原ファームの体力を確実に削っていた。
「条件を切ったら、値段で殴られるんだね」
「そういう返事だった」
「帳簿は殴られ弱いよ」
美緒は支払い表を閉じなかった。
「でも、値段に飲まれたら、もっと痛い」
恒一は返事をせず、厩舎へ向かった。
まず、アオバノミチ。
馬房の中で、乾草を噛んでいる。
人の気配に耳だけを向けるが、顔は上げない。
派手ではない。
だが、崩れない。
馬房から出して通路を歩かせると、首の使い方が柔らかかった。踏み込みは深く、歩幅に大きな狂いがない。通路の奥で誰かが咳をしても、耳を少し動かすだけでリズムを崩さなかった。
「こいつは歩かせる」
美緒が横で頷いた。
「紙より、歩き」
「ああ」
「値段より、使い方」
「そこを見ない相手には売らない」
次に、ハルノトーチ。
通路に足音が近づくと、すぐに首を高くした。
見られることを知っているような立ち方をする。
光が当たると、馬体は映える。
高く見える馬だ。
だが、外の車の音に反応して首を上げたあと、前脚の置き方が一瞬だけ浅くなった。
繋ぎが硬く使われ、膝へ余計な力が乗る。
痛いわけではない。
けれど、急がせれば、その小さな硬さが積み重なる。
ハルノトーチが鼻を鳴らした。
美緒が作業表を抱え直す。
「見せたら、値段は上がるかもしれない」
「ああ」
「脚元の話をしたら、下がるかもしれない」
恒一は、ハルノトーチの前脚から目を離さなかった。
「言う」
通路に、乾草を噛む音だけが残った。
「聞かれなくても?」
「聞かれなくても」
美緒は唇を噛んだ。
「それで帰られたら?」
「帰る相手には渡せない」
ハルノトーチは、そんな話を知らずにこちらを見ていた。
目は強い。
だからこそ、人間が急がせてはいけない。
美緒は作業表の余白に、短く書いた。
明日来る人が、この目を見てどこを見るか確認する。
恒一が横目で見た。
「それも書くのか」
「書く。私も見る」
美緒はハルノトーチの顔から、前脚へ視線を落とした。
「値段じゃなくて、どこを見てる人か。そこを見ないと、また帳簿だけ見ちゃうから」
最後に、シラユキノハナの馬房へ行った。
当歳牡馬は、母の影から通路を見ていた。
近づくと、母の肩の横に半歩戻る。
だが、逃げ込むわけではない。
前脚を置き直し、床を確かめるように小さく体重を移す。
シラユキノハナは耳だけを動かした。
「この仔は見せない」
恒一が言うと、美緒が少し驚いた顔をした。
「佐伯さんにも?」
「今は見せない」
「売らない馬なのに?」
「売らない馬だからだ」
美緒は馬房の中を見た。
当歳牡馬が母の腹の下へ半歩戻り、そこで止まる。
「値段をつけられるの、嫌だね」
「ああ」
「でも、見せた方が榊原ファームの未来は伝わるかもしれない」
「伝える相手を間違えると、未来じゃなくて材料になる」
美緒は作業表の余白に書いた。
非売。母仔移動なし。見学対象外。
少し迷ってから、その下にもう一行足す。
未来は、見せるものではなく残すもの。
「綺麗すぎる?」
「いや」
美緒はペン先を止めたまま、馬房の中を見ていた。
当歳牡馬は母の腹の下から、また半歩だけ顔を出す。
黒い目が、通路の人間を見ている。
「書くって、残すことなんだね」
美緒は小さく言った。
「忘れないためだけじゃなくて、誰かに勝手に持っていかれないようにするため」
恒一は何も言わなかった。
美緒はもう一度、作業表の文字をなぞった。
「じゃあ、残す。私が書いて残す」
事務所へ戻ると、三雲が来ていた。
佐伯からのメモも届いている。
美緒は三枚の紙を机に並べた。
当歳牡馬。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
それぞれの上に付箋を貼る。
見せない。
歩かせる。
脚元まで言う。
三雲がその三枚を見て、口元を曲げた。
「売るための作戦会議に、見せない馬が入ってるのが榊原さんらしいね」
「外すと、基準がずれる」
「黒峰側は?」
「当歳牡馬は見せない。資料も出さない」
「正解。あっちは紙の使い方が上手い。非売馬まで紙にされたら、あとが面倒だ」
美緒はアオバノミチの紙を指で押さえた。
「この馬は?」
「歩かせる。長く使う前提の相手を優先する」
三雲が頷く。
「佐伯さんのところは、その見方ができる。黒峰側は、値段で押してくる」
「値段で押されたら?」
美緒の声は低かった。
恒一はアオバノミチの資料に一行書き足した。
最低条件:長期育成方針の承認。
「ここを越えないなら、売らない」
「乾草代は?」
「苦しい」
「兄さん」
「でも、ここを捨てたら、次に売る馬も値段だけで見られる」
美緒は反論しなかった。
次に、ハルノトーチの紙を見た。
「明日、見学希望が来てる」
「相手は?」
「見映えを褒めてる。脚元のことは聞いてない」
三雲が苦い顔をする。
「一番高くなりやすくて、一番怖いやつだね」
「だから、先に言う」
恒一はハルノトーチの資料に書いた。
脚元リスク説明必須。急仕上げ不可。待てる相手のみ。
美緒がその文字を見て、息を吐いた。
「これを見せて、それでも買う人がいるかな」
「いるかどうかを見る」
「売れるかどうかじゃなくて?」
「売っていいかどうかだ」
事務所の中が、少し静かになった。
外から、乾草を噛む音が聞こえる。
三雲が小さく言った。
「高く売れる馬を、売っていいかどうかで見る牧場は少ないよ」
「だから残るんだろ」
恒一が返すと、三雲は笑わなかった。
「そうだね。そこは、たぶん武器になる」
三雲はハルノトーチの見学希望欄を見て、指先で紙を軽く叩いた。
「ただ、明日の相手の名前は確認した方がいい」
美緒が顔を上げた。
「名前?」
「表に出てる担当者名と、実際に見る人が違うことがある。特に高値を匂わせる時はね」
恒一の目が細くなる。
「黒峰側か」
「まだ分からない。でも、調べて損はない」
夕方、佐伯に資料を送った。
アオバノミチは概要と歩様確認の予定。
ハルノトーチは脚元リスクを明記。
当歳牡馬は非開示。
佐伯からの返事は短かった。
承知しました。アオバノミチは歩きを見ます。ハルノトーチは、リスク説明込みで聞きます。
美緒が画面を見て、肩の力を少し抜いた。
「聞いてくれる相手もいるんだね」
「いる」
「でも、明日来る相手がそうとは限らない」
「ああ」
売らない馬。
歩かせる馬。
脚元まで説明する馬。
恒一は頭の中で、明日の盤面を静かに組み上げた。
---
榊原ファーム見学管理
シラユキノハナ当歳牡馬:非売/見学対象外/資料非開示
アオバノミチ:歩様確認可/長期育成方針の承認を最低条件
ハルノトーチ:脚元リスク説明必須/急仕上げ不可
黒峰側:価格勝負継続の可能性
佐伯側:条件理解あり
総評:三頭の見せ方を分けることで、売却候補と自家保留馬の価値を守る方針を明確化。ただし、見せない判断は短期売却機会を減らす可能性あり
---
見せない判断は、値段を削るかもしれない。
だが、見せすぎれば、馬の時間を削る。
夜、恒一はアオバノミチの馬房の前に立った。
アオバノミチは乾草を食べていた。
人の気配に耳を向けるが、食べるのをやめない。
今日も、地味だった。
けれど、残る馬だった。
「明日は、もっと見られる」
アオバノミチは耳だけを動かした。
「それでも、いつも通り歩け」
乾草を噛む音が返ってくる。
隣の馬房で、ハルノトーチが一度だけ床を鳴らした。
明日は、あの脚元まで説明する。
それで売れるかどうかではない。
売っていい相手かどうかを、見る。
事務所の明かりは、まだ消えていなかった。
美緒が、明日の見学者名簿を調べていた。
---
榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:46%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- シラユキノハナ牡馬:非売方針/見学対象外
- アオバノミチ:長期育成前提で評価上昇
- ハルノトーチ:脚元リスク説明必須
- 黒峰側:価格勝負継続
- 次の勝負:ハルノトーチの脚元まで説明して売れるか




