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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第71話 条件を切る

 条件書は、朝になっても机の上に伏せたままだった。


 美緒はそれを開かなかった。


 開かなくても、金額は覚えている。

 乾草代の黒丸が、少し薄く見えた金額だった。


「見ないの?」


 恒一が言うと、美緒は帳簿を閉じずに答えた。


「見たら、楽になれる方ばっかり考えるから」


「楽にはなる」


「うん。そこが嫌」


 美緒は条件書の端を指で押さえた。


「共同監修名義。黒峰系育成先の推薦。配合相談窓口の優先一本化。言葉だけ見ると、協力に見える」


「ああ」


「でも、こっちの名前が残るのに、決める場所が少しずつ向こうになる」


 恒一は条件書を手に取った。


 紙は軽い。

 だが、昨日の封筒より重く感じた。


「少し厩舎へ行く」


「その紙、持って?」


「ああ」


「誰に見せるの」


「売らない馬に」


 美緒は一瞬だけ黙った。


 それから、帳簿を閉じて立ち上がる。


「私も行く」


 シラユキノハナの馬房は、朝の光がまだ浅かった。


 シラユキノハナは奥ではなく、仔の少し前に立っている。

 当歳牡馬は母の横で、通路を見ていた。


 派手な仔ではない。


 首を高く見せるわけでもない。

 人を呼ぶような愛嬌を振りまくわけでもない。


 ただ、四肢の置き方が静かだった。


 一歩、母の影から出る。


 通路の金具が鳴ると、耳だけが動いた。

 母の腹の下へ逃げ込むほどではない。

 前脚が床につく。

 少し間を置いて、後ろ脚がついてくる。


 戻りが乱れない。


 恒一は条件書を持ったまま、その足元を見た。


 視界に文字が浮かぶ。


---


シラユキノハナの当歳牡馬

心肺:A

成長力:A

母系継承価値:A

将来配合価値:A-

気性傾向:慎重/母依存やや強

脚元反応:安定

推奨:自家保留

総評:派手さはないが、母系を榊原ファーム内で次代へつなぐ価値が高い。早期売却より、自家保留による将来配合の選択権維持を推奨


---


 自家保留。


 その四文字は、売上にはならない。


 だが、選択権になる。


 シラユキノハナの血を、次にどう使うか。

 どの種牡馬を選び、どの馬主に見せ、どの時期まで待つか。


 それを榊原ファームの中に残せる。


 美緒は仔の足元を見ていた。


「その仔は売らないんでしょ」


「ああ」


「なら、売れる馬で取るしかないじゃない」


 声は責めていなかった。


 でも、帳簿を見ている声だった。


「アオバノミチで取る。ハルノトーチでも取る。でも、丸ごと渡して取るわけじゃない」


 美緒は条件書へ目を落とした。


「どこを切るの」


「共同監修名義は不可」


「強いね」


「説明資料は榊原ファーム名義で出す。向こうが金を出しても、見立てまで共同にはしない」


「育成先は?」


「黒峰系の推薦は聞く。ただし決定権は渡さない。馬に合わなければ断る」


「配合相談窓口は」


「一本化しない」


 美緒は息を吐いた。


「ほとんど切ってる」


「金額は残す」


「向こうが飲むかな」


「飲まないかもしれない」


「飲まなかったら、乾草代の黒丸は濃いままだよ」


「分かってる」


 仔が母の腹の下へ半歩戻った。


 シラユキノハナが耳だけを動かす。

 仔の首が母の肩に触れ、そこで止まった。


 恒一は条件書を折らずに持ち直した。


「この仔を残すなら、うちが何を見て、どう残すかまで残さないと意味がない」


 美緒は柵に手をかけなかった。


 その代わり、作業表の余白に小さく書いた。


 売らない馬が、売る馬の条件を決める。


「嫌なことばっかり増える」


「でも、これを間違えると、次はもっと嫌になる」


 事務所へ戻ると、三雲が来ていた。


 佐伯も一緒だった。


 佐伯は条件書を一読し、眼鏡の位置を直した。


「相手は悪い条件を出しているわけではありません」


「分かっています」


「だから厄介です。悪条件なら切ればいい。これは、受けた後で効いてくる条件です」


 三雲が苦笑した。


「共同監修って言葉、便利だよね。半分名前を残して、半分主導権を持っていける」


 美緒が条件書の該当箇所に線を引いた。


「榊原ファームの名前は残す。でも、中身は向こうも監修。見た目は協力ですね」


「外からはそう見えます」


 佐伯は淡々と言った。


「ただ、次に同じような資料を出す時、榊原ファーム単独の見立てか、黒峰側の監修つきかを見られるようになります」


「うちの紙が、うちだけの紙じゃなくなる」


「そうです」


 恒一は修正案を書いた。


 一、説明資料は榊原ファーム単独名義。

 二、育成先推薦は参考意見として受領。決定権は買い手および榊原ファーム協議。

 三、配合相談窓口の優先一本化は不可。個別案件ごとに協議。

 四、アオバノミチの育成方針は、急がせない長期方針を前提とする。


 美緒が横から見ていた。


「これ、向こうからしたら面倒な牧場だね」


「そう見えるだろうな」


「でも、丸呑みよりは、うちらしい」


 三雲が修正案を読み、少し笑った。


「金は欲しい。でも、首輪は嫌ですって文面だね」


「言い方」


「でも、そうでしょ」


 恒一は否定しなかった。


 佐伯が頷く。


「この線引きなら、交渉として成立します。強すぎますが、無礼ではありません」


「強すぎる?」


「はい。ただ、今の榊原ファームには必要な強さです」


 美緒が送信用の文面を整えた。


 送信ボタンの上で、指が止まる。


「押したら、金額が消えるかもしれない」


「ああ」


「押さなかったら、うちの紙が消えるかもしれない」


「そうだ」


 美緒は唇を噛んだ。


 それから、押した。


 送信済み。


 事務所の中に、音はしなかった。


 けれど、乾草代の黒丸が、少しだけ濃くなった気がした。


 返事は、夕方に来た。


 黒峰本人ではない。

 関係者からの短い文面だった。


 条件修正、確認しました。黒峰へ共有します。


 それだけ。


 美緒は画面を見たまま、肩を落とさなかった。


「怒ってはない」


「怒る相手なら、ここで終わりだ」


「終わらない方が怖い時もあるね」


「ああ」


 その十分後、もう一通来た。


 今度は、黒峰の名が入っていた。


 では、セリ本番で値段を見ましょう。


 美緒が息を止めた。


 三雲が低く口笛を吹きかけて、途中でやめた。


 佐伯は文面を見て、静かに言った。


「条件交渉から、競りに戻されましたね」


「金で来る、ということですか」


「はい。紙で縛れないなら、値段で押す。そういう返事です」


 恒一は窓の外を見た。


 厩舎では、シラユキノハナの仔が母のそばに立っている。


 アオバノミチは、たぶん今ごろ乾草を食べている。


 売らない馬。

 正しく売りたい馬。

 高く売れそうで危うい馬。


 全部が、同じ牧場の中にいる。


 視界に文字が浮かんだ。


---


榊原ファーム交渉状況

黒峰側条件:修正案送付済

共同監修名義:不可提示

育成先推薦:参考意見扱いへ変更提示

配合相談窓口:一本化不可提示

アオバノミチ:セリ本番で競合可能性上昇

資金繰り改善見込み:不確定

主導権維持:一時成功

総評:高額条件の丸呑みを回避。ただし黒峰側は条件支配から価格勝負へ移行する可能性が高い。セリ本番で主導権を守れるかが次の焦点


---


 価格勝負へ移行。


 それは、逃げ道ではなかった。


 むしろ、真正面から踏まれる道だ。


 美緒は帳簿を開き、乾草代の黒丸を見た。


「向こう、待ってくれないね」


「桐生さんも待ってくれない」


「馬も、待ちすぎたら変わる」


「ああ」


 美緒は黒丸の横に、小さく書いた。


 セリ本番。値段に飲まれない。


 その字は、少しだけ震えていた。


 夜、恒一はアオバノミチの馬房の前に立った。


 アオバノミチは水を飲み終え、乾草へ戻っていた。


 派手ではない。


 人の声に耳を向けたが、乾草から顔を離さない。

 ゆっくり噛み、また一歩だけ前脚の位置を直した。


 今日も崩れていない。


「値段が上がるかもしれない」


 アオバノミチは耳だけを動かした。


「でも、お前の行き先は、値段だけで決めない」


 馬は答えない。


 ただ、乾草を噛んだ。


 その音が、黒丸のついた支払期限よりも、今はずっと確かに聞こえた。


---


榊原恒一の現状


- 牧場経営力:A-


- 配合読解:B


- 繁殖観察:A


- 若駒評価:A


- 現場判断:A


- 資金繰り判断:A-


- 交渉・信頼:A


- 牧場再建度:46%


榊原ファーム経営状況


- 現金余力:低


- 資金繰り危険度:高


- 繁殖牝馬群期待値:上昇


- 牧場ブランド:B


- 倒産危険度:高


補助表示


- 黒峰側条件:修正案送付/セリ本番で価格勝負へ


- アオバノミチ:競合可能性上昇/主導権維持が課題


- シラユキノハナの牡馬:自家保留方針維持


- ハルノトーチ:高値気配継続/脚元リスク説明必須


- 次の勝負:セリ本番前に三頭の見せ方を整理する

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