第70話 紙を渡さず、馬を見せる
下見の朝、事務所の机には三つの封筒が並んでいた。
概要。
見学後。
本気の相手だけ。
その横に、乾草代の半額入金日。
美緒は概要封筒を指先で叩いた。
「この薄いやつ一枚で、相手が帰ったらどうする?」
「帰る相手なら、最初から買い手じゃない」
「帳簿は、そんなきれいに割り切ってくれないよ」
美緒は黒丸のついた支払日を見た。
「でも、全部渡したら、うちの腹の中まで持っていかれる」
「今日は馬を見せる。紙は、その後だ」
午前十時、見学者が三組来た。
アオバノミチを見たい地方馬主筋。
ハルノトーチに高値を匂わせる業者。
それから、黒峰側の関係者が一人。
黒峰本人ではない。
だが、立ち方が似ていた。馬房ではなく、まず封筒を見る。
「先に資料を拝見できますか」
高値を匂わせていた男が言った。
恒一は一番薄い封筒を出した。
「概要です」
男は封筒を持ち上げ、紙の軽さを確かめるように少し振った。
「これだけでは、こちらも判断しづらい」
「判断する前に、歩くところを見てください」
「数字を先に押さえたいんです」
「数字で先に値段を決められると、この馬は損をします」
恒一はアオバノミチの馬房へ目を向けた。
「紙の上で勝つ馬じゃありません」
片桐は、厩舎の入口に立っていた。
いつからいたのか分からない。
ただ、アオバノミチの馬房を見ていた。
「地味な馬は、紙で売る前に歩かせろ」
片桐は封筒ではなく、馬房の中へ顎を向けた。
「ああいう馬は、写真で値段を決められると損をする」
アオバノミチは、馬房の中で静かに立っていた。
派手ではない。
首を高く見せる馬でもない。
目を引く模様もない。
だが、恒一はこの馬の歩きを知っている。
「出します」
三雲が頷き、アオバノミチを引いた。
通路に蹄の音が落ちる。
一歩目。
二歩目。
派手さはない。
だが、前へ出る時の迷いが少ない。
耳は落ち着いている。
人を探しすぎない。
通路の音に一度だけ反応したが、すぐ戻る。
最初に資料を求めていた男が、ようやく顔を上げた。
佐伯は通路の脇にいた。
腕を組まず、口も挟まない。
ただ、買い手たちの目が紙から馬へ移る瞬間だけを見ていた。
「……正直、地味ですね」
黒峰側の関係者は、悪びれずに言った。
美緒の眉が動く。
恒一は止めなかった。
「地味です」
「売り場では、目立たない」
「はい。でも、二度目に見た人は残ります」
「理由は?」
「歩きが崩れない。人を探しすぎない。急がせなければ、仕事を覚える馬です」
地方馬主筋の男が、そこで初めて資料を畳んだ。
「……短く使い潰す馬じゃないな」
「その見方をしてくれる相手に売りたいです」
美緒が小さく息を吐いた。
値段の話ではない。
でも、値段より先に必要な反応だった。
次に、ハルノトーチを出した。
こちらは、出た瞬間に空気が変わる。
見映えがする。
首を上げた時の形がいい。
光の当たり方ひとつで、馬体が大きく見える。
高値を匂わせていた男の声が、一段明るくなった。
「これはいい。写真よりずっと映える」
美緒の指が、袖を握る。
その声だけで、金額が少し上がったように聞こえた。
「映えます」
恒一は否定しなかった。
「でも、完成している馬ではありません」
「それはこれから仕上げればいい」
「急がせると、仕上がる前に崩れます」
ハルノトーチが外の車の音に首を上げた。
三雲は無理に引かなかった。
半歩、待つ。
その半歩のあと、ハルノトーチは前脚を置く位置が一瞬だけ浅くなった。
痛いわけではない。
だが、急がせれば乱れる。
「今のを、待てる相手に売ります」
男は黙った。
黒峰側の関係者は、その沈黙ごと見ていた。
下見が終わる頃、黒峰側の関係者が一枚の条件書を差し出した。
「正式な打診ではありません。持ち帰り前提です」
美緒の喉が、小さく動いた。
金額が見えたのだ。
アオバノミチを相場より高く評価する。
育成先は黒峰系を推薦。
説明資料は買い手側との共同監修名義。
榊原ファームの名前は残す。
今後の配合相談窓口を優先的に一本化。
ハルノトーチにも別枠で関心あり。
露骨な罠ではない。
むしろ、条件だけなら悪くない。
今月の支払いが、頭の中で何枚か消える額だった。
美緒は条件書を見たまま、しばらく動かなかった。
「……嫌だ」
「何が」
「楽になるって、思っちゃった」
紙を持つ指が少し震えている。
「この金額なら、乾草代の黒丸が少し薄く見える」
「ああ」
「でも、この子の歩いた理由まで、向こうの名前で説明されるかもしれない」
美緒はアオバノミチの馬房を見た。
「それ、すごく嫌」
恒一は条件書を見た。
それから、アオバノミチが歩いた通路を見る。
さっきまで蹄が置かれていた場所。
派手ではない馬が、静かに評価を変えた場所。
売れば、牧場は楽になる。
だが、紙と信用の主導権を、少しずつ渡すことになる。
片桐は何も言わなかった。
三雲も口を挟まない。
佐伯が、条件書の端を一度だけ見た。
「高い条件ほど、あとから細部が効きます」
それだけ言って、もう黙った。
恒一は条件書を裏返した。
即答しない。
黒峰側の関係者の眉が少し動く。
「持ち帰ります」
恒一は言った。
「馬を見たうえで出していただいた条件として、検討します。ただし、資料名義と相談窓口は、こちらの主導権に関わります」
相手は笑わなかった。
「黒峰に伝えます」
見学者たちが帰ったあと、アオバノミチは馬房で水を飲んでいた。
静かに。
何も知らない顔で。
美緒は条件書を抱えたまま、その横に立っていた。
「水、飲んでる」
「ああ」
「この子は、自分の値段なんか知らないんだね」
「ああ」
「それなのに、私たちはこの紙で、この子の行き先を決める」
恒一はアオバノミチを見た。
「だから、すぐには決めない」
視界に文字が浮かぶ。
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榊原ファーム販売交渉
アオバノミチ:相場以上の評価打診あり
条件:黒峰系育成先推薦/説明資料共同監修名義/配合相談窓口優先化
ハルノトーチ:別枠関心あり/見映え評価強い
資料主導権:要警戒
現金化効果:高
信用支配リスク:中〜高
総評:高額条件により短期資金繰りは改善可能。ただし資料名義・育成先・相談窓口を渡せば、榊原ファームの判断主導権が削られる可能性あり
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短期資金繰りは改善可能。
それは救いだ。
判断主導権が削られる可能性あり。
それが代償だ。
恒一は条件書を、机の上に伏せて置いた。
その横で、アオバノミチが水を飲む音だけが聞こえていた。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:A-
交渉・信頼:A
牧場再建度:46%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
アオバノミチ:相場以上の条件打診/歩様と気性で評価上昇
ハルノトーチ:高値気配継続/脚元・気性リスク説明済
黒峰側:資料名義・育成先・配合相談窓口で関与希望
ミカヅキノユメ:判定保留継続
次の勝負:高額条件を丸呑みせず、主導権を守る形に組み替えられるか




