第69話 信用では乾草は買えない
請求書の支払期限には、黒い丸がついていた。
乾草代。
飼料代。
獣医代。
種付け関連費用。
シラユキノハナは受胎した。
ミカヅキノユメは、前に進んだ保留。
タチカゼは走らせずに残した。
どれも、牧場としては間違っていない。
だが、請求書はそれを読まない。
「桐生さん、半額は期限日に入れてくれって」
美緒が帳簿を開いたまま言った。
「残りは、販売候補が動いた時点で再相談。次の乾草は量を絞る」
「ああ」
「乾草は届く。でも、次は減る」
美緒は黒丸の日付を爪で押さえた。
「信用は残った。でも、乾草は信用だけじゃ買えない。お金が要る」
事務所の空気が少し冷えた。
そこへ、三雲が封筒を抱えて入ってきた。
「嫌な紙、持ってきたよ」
「嬉しい紙は?」
「混ざってる。だから嫌なんだ」
三雲は机に三枚の問い合わせメモを並べた。
アオバノミチ。
ハルノトーチ。
そして、馬名が書かれていない一枚。
担当者名はある。
会社名もある。
けれど、馬の名前だけがない。
美緒が眉を寄せた。
「これ、どの馬の話?」
「そこが問題。向こうは先に説明資料を全部見たいって」
「全部?」
「配合方針、育成方針、見立て、リスク、管理記録。要するに、榊原さんの説明の中身を先に欲しい」
恒一はその紙を見た。
馬を見たい、ではない。
資料を見たい。
そこに引っかかった。
「この会社、馬の名前を一度も聞いてない」
三雲が赤鉛筆で、紙の端に線を引いた。
「僕なら、ここは切る」
美緒が帳簿から目を上げた。
「でも、資料だけで判断したい買い手もいるんじゃないの?」
「いるよ。でも、馬名を聞かない相手に、こっちの見立てを全部渡すのは危ない」
「盗まれる?」
「盗まれる、までは言わない。でも、使われる」
三雲はアオバノミチの紙を指で叩いた。
「こっちは安い。堅実に使いたい馬主筋。ただ、価格は強くない」
次に、ハルノトーチの紙を動かす。
「こっちは高値気配あり。見映えをかなり褒めてる」
「いい話じゃないの?」
美緒が言うと、三雲は首を振った。
「見映えばかり褒めてる。脚元リスクと気性の幼さに触れてこない」
恒一は、ハルノトーチの立ち姿を思い出した。
見映えはある。
馬体も目を引く。
だが、まだ心が先に走る。
急がせれば崩れる馬だ。
「高く売れすぎる危険、か」
「そう」
三雲が頷いた。
「アオバノミチは安く見られる危険。ハルノトーチは高く売れすぎる危険」
美緒は帳簿を見た。
「高く売れすぎるって、嫌な言葉ですね」
「高く売れたあと、合わない相手に壊されたら、榊原ファームの馬は扱いづらいって言われる」
「でも、安く売ったら乾草代が苦しい」
「だから、今日の話は嫌なんだよ」
恒一は机の上の資料を三つに分けた。
一枚目。
馬体写真、血統、簡単な特徴。
誰にでも出せる概要。
二枚目。
歩様、気性、育成上の注意、適性。
見学後に出す詳細。
三枚目。
配合の狙い、リスク、成長曲線、こちらの本音に近い育成方針。
本気の買い手だけに見せる資料。
美緒は三つに分かれた紙を見て、眉を寄せた。
「こんなに分けたら、隠してるって思われない?」
「思う相手もいる」
「それで帰られたら?」
「帰る相手に、三枚目は渡せない」
恒一は、いちばん厚い資料に手を置いた。
「これは、うちが何を見て、何を怖がって、どう育てたいかまで入ってる。相手を見てないうちに渡したら、馬じゃなくて、こっちの腹を開くことになる」
美緒は黙った。
黒丸の支払期限を見る。
それから、資料の厚みを見る。
「腹を開かなきゃ、お金が入ってこないかもしれない」
「ああ」
「でも、開いた相手が悪かったら、もっと持っていかれる」
「そういうことだ」
三雲が小さく笑った。
「嫌な商売でしょ」
「笑って言わないでください」
「笑わないと、やってられない時があるんだよ」
美緒はため息をつき、概要資料の端に付箋を貼った。
誰にでも見せる。
次の資料には、別の付箋。
見学後。
最後の資料には、少し迷ってから書いた。
本気の相手だけ。
その文字は、やけに強かった。
昼過ぎ、馬名を書かなかった会社から返事が来た。
概要だけなら今回は見送る、という短い文面だった。
美緒が画面を見て、唇を噛んだ。
「一社、消えた」
「消えたな」
「資料を守ったら、買い手が減るんだ」
美緒は帳簿へ目を落とした。
「減ったって、帳簿にはそのまま出るのに」
三雲は、赤線を引いた紙を折った。
「これは減ったんじゃない。残さなかったんだよ」
夕方、ハルノトーチの見学希望が入った。
相手は高値を匂わせている。
ただし、電話口で出た言葉は、馬体の見映えと雰囲気のことばかりだった。
脚元の話は出ない。
気性の幼さも聞かない。
恒一はメモに書いた。
見映え評価強い。リスク確認なし。要注意。
「高く買ってくれるかもしれない相手に、要注意って書くの、嫌だな」
美緒が言った。
「高いからこそ、見る」
恒一は答えた。
「安くても、高くても、馬を見ていない相手には売れない」
その時、三雲のスマホが鳴った。
短いやり取りのあと、三雲の顔が少しだけ変わる。
「もう一つ、来た」
「どこから」
「黒峰側の関係者」
事務所の空気が止まった。
「榊原ファームの説明資料を見たいって。買う気があるのか、探ってるのかは分からない」
美緒が机の上の三段階資料を見た。
「……どこまで見せるの?」
恒一は、まだ何も書かれていない封筒を取った。
「まず、馬を見るかどうかを聞く」
「資料じゃなくて?」
「資料だけ欲しいなら、概要まで」
三雲が頷いた。
「それでいい。黒峰さんのところは、紙の使い方が上手いからね」
恒一は窓の外を見た。
厩舎から、乾草を噛む音が聞こえる。
信用は増えた。
だが、現金は増えていない。
資料を渡せば、話は早く動くかもしれない。
だが、渡す相手を間違えれば、牧場の見立てまで削られる。
視界に文字が浮かんだ。
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榊原ファーム販売資料管理
概要資料:一般開示可
詳細資料:見学後に限定開示
配合・育成方針:本気の買い手のみ開示
アオバノミチ:安く見られる危険
ハルノトーチ:高値気配/見映え偏重の危険
黒峰側関係者:資料要求あり/開示範囲要判断
総評:信用を現金化する段階に入ったが、情報の出し方を誤れば馬と牧場の価値を削る可能性あり
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信用を現金化する段階。
その文字は、重かった。
夜、美緒は帳簿の横に三つの封筒を並べた。
概要。
見学後。
本気の相手だけ。
その下には、乾草代の半額入金日。
美緒は一番厚い封筒を持ち上げた。
「軽いのに、重いね」
「ああ」
「これを渡したら、話は進む。渡さなかったら、また一社減るかもしれない」
美緒は封筒を机に戻した。
「でも、渡す相手を間違えたら、うちが何を見てきたかまで持っていかれる」
「そうだな」
「紙なのに、馬房の扉みたい」
恒一は黙って美緒を見た。
美緒は苦く笑う。
「開ける相手を間違えたら、中の馬が落ち着かなくなる」
「ああ」
「明日、馬を見せるんだよね」
「先に馬を見せる」
美緒は概要の封筒だけを、机の端に寄せた。
「紙の前に、馬」
「ああ」
乾草の匂いが、事務所まで届いていた。
信用では乾草は買えない。
だが、信用を金に変えるにも、馬を置き去りにはできない。
明日、紙だけ欲しがる相手の前で、恒一は馬を歩かせる。
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榊原恒一の現状
- 牧場経営力:A-
- 配合読解:B
- 繁殖観察:A
- 若駒評価:A
- 現場判断:A
- 資金繰り判断:A-
- 交渉・信頼:A
- 牧場再建度:46%
榊原ファーム経営状況
- 現金余力:低
- 資金繰り危険度:高
- 繁殖牝馬群期待値:上昇
- 牧場ブランド:B
- 倒産危険度:高
補助表示
- 販売資料:三段階開示に整理
- アオバノミチ:安く見られる危険
- ハルノトーチ:高値気配/見映え偏重に注意
- 黒峰側関係者:説明資料要求あり
- 次の勝負:紙を渡す前に馬を見せる




