第68話 答えを急がない
ミカヅキノユメは、馬房の奥にはいなかった。
通路側に近い場所で、こちらを見ている。
耳は動いている。
だが、昨日ほど忙しくはない。
乾草も、前より減っていた。
完食ではない。
それでも、ただ残っているだけではない。
何度か戻って、少しずつ食べた跡がある。
美緒は作業表を抱えたまま、しばらく黙っていた。
「昨日より、いい」
小さな声だった。
「でも、いいって書くの怖い」
「昨日より崩れていない、と書け」
「兄さんのそういう言い方、ほんと嫌」
「一番近い」
美緒は口を曲げ、作業表に書いた。
再確認朝。乾草減少。水分摂取あり。立ち位置通路側。耳反応あり。後退なし。
玲奈の車が厩舎前に止まった。
小田切も来ていた。
前回より、馬房から少し離れて立っている。
近づきたい顔をしているが、足は動かさない。
玲奈は検査道具を持って近づき、馬房の前で一度だけ止まった。
「今日は、前回より表情が硬くありません」
その一言で、美緒の肩が揺れた。
「それは……」
「期待しすぎないでください」
玲奈は先に釘を刺した。
「良くなった部分はあります。でも、結果を急ぐ材料ではありません」
美緒は作業表で口元を隠した。
「分かってるつもりなのに、顔が先に喜ぶんです」
「なら、その顔を馬に見せすぎないでください」
「はい」
検査は、前回より静かに進んだ。
ミカヅキノユメは首を上げた。
耳も動いた。
だが、後ろへ下がらない。
小田切が息を止めたのが分かった。
恒一も何も言わなかった。
人間が一番うるさい。
だから、黙る。
玲奈は記録板を見た。
すぐには言わない。
前回の欄と今日の欄を見比べ、ペン先で一点を軽く叩いた。
美緒の指が、作業表の端を握る。
「玲奈さん」
今度は小田切が先に言った。
声は前回ほど揺れていない。
「急ぎません。今のまま、聞かせてください」
玲奈は頷いた。
「前回より、状態は良いです。食いも戻りかけています。検査中の反応も、前より落ち着いていました」
小田切の喉が動く。
「ただし」
玲奈は言葉を切った。
「受胎確定とは言いません」
厩舎の空気が、少し沈んだ。
美緒は目を閉じた。
けれど、ペンは止めなかった。
作業表に、ゆっくり書く。
再確認。前回より状態改善。ただし受胎確定とは言えず。再々確認予定。
「また、保留」
美緒が呟いた。
「はい」
玲奈はごまかさない。
「保留です。ただ、前回と同じ保留ではありません」
小田切が顔を上げた。
「前に進んだ保留、ですか」
「そう言っていいと思います」
玲奈はミカヅキノユメを見る。
「でも、確定ではありません」
小田切はしばらく黙っていた。
その沈黙は、前回より短かった。
「分かりました」
彼は小さく頷いた。
「もう一度、待ちます」
美緒の肩から、細い息が抜けた。
「小田切さん、強いですね」
「強くはありません」
小田切は苦く笑った。
「前回、勝手に落ち込んで、馬房の前に立ちすぎました。今日は、少しだけ学びました」
恒一は作業表へ目を落とした。
馬だけではない。
人間も、少しずつ管理されている。
昼、ミカヅキノユメは乾草へ戻った。
一本。
少し間を置いて、もう一本。
美緒は声を出さず、ただ記録した。
昼。乾草少量摂取。通路側維持。人接近時、後退なし。
「待つってさ」
美緒が小さく言った。
「何度も負けるみたい」
恒一は馬房から目を離さなかった。
「勝ちに変えようとするから、きついんだろうな」
「じゃあ、これは何なの」
「明日も同じ馬房を見ることだ」
美緒は返事をしなかった。
紙に小さく書いた。
待つ。勝ちに変えない。明日も見る。
夕方、玲奈が次の再確認日を告げた。
美緒が馬房札を外し、日付を書き直す。
受胎確認予定。
その下に、さらに先の日付。
書く手が、一度だけ止まった。
「また先に伸びるんだ」
「伸びます」
玲奈は言った。
「でも、無理に今日で終わらせるよりいい」
美緒は黙って頷き、日付を書き切った。
恒一はその札を見た。
答えが先へ延びた札。
それでも、空白ではない。
前に進んだ保留。
今は、その言葉にすがるしかない。
視界に文字が浮かぶ。
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ミカヅキノユメ
受胎判定:保留継続
状態推移:前回より改善
食欲:少量回復
水分摂取:維持
立ち位置:通路側寄り
環境警戒:中程度
検査反応:前回より安定
推奨対応:接触人数固定継続/再々確認まで刺激抑制/管理記録維持
総評:明確な受胎確定には至らず。ただし食い、立ち位置、検査時反応は前回より改善。保留を保留のまま維持し、次回確認まで状態を崩さないことが最優先
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保留を保留のまま維持。
決まらないまま守る。
それが、今日の答えだった。
事務所へ戻ると、美緒が帳簿を開いていた。
机の上には、三枚の紙がある。
シラユキノハナの受胎確認。
ミカヅキノユメの保留継続。
タチカゼの次走白紙。
その横に、請求書。
乾草代。
獣医代。
種付け関連費用。
輸送費。
美緒は請求書の日付を指で押さえた。
「こっちは、保留してくれないんだね」
「ああ」
「受胎は待てる。馬は待てる。でも、支払い期限は待たない」
「そうだな」
美緒は鉛筆で、支払い期限に丸をつけた。
赤ではない。
だが、濃い丸だった。
「次は、こっちが来る」
恒一は頷いた。
ミカヅキノユメの答えはまだ出ない。
だが、請求書の答えは出ている。
期限は、確定して近づいている。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:46%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
ミカヅキノユメ:保留継続/前回より状態改善
シラユキノハナ:受胎確認/高齢牝馬管理継続
タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙
セリ候補:買い手候補整理中
次の勝負:支払い期限前に信用を現金化できるか




