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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第67話 触らない管理

 朝、ミカヅキノユメの馬房の前に、小田切が立っていた。


 近すぎない。

 だが、遠くもない。


 通路の端で、馬房の中を見つめている。

 上着のポケットに入れた指先が、布の内側で小さく動いていた。


 ミカヅキノユメは、馬房の真ん中より少し奥にいた。


 乾草は、昨日よりわずかに減っている。

 水桶も減っている。

 だが、完食ではない。


 耳は、まだ忙しい。


 恒一は作業表を見た。


 朝。乾草少量。水分摂取あり。立ち位置やや奥。耳反応多め。


 悪くはない。


 でも、良いとも言わない。


「見ているだけのつもりでした」


 小田切が、こちらを見ずに言った。


「近づきすぎていましたか」


「今の距離なら、大丈夫です」


「でも、長いですね」


 恒一は少しだけ黙った。


「少し」


 小田切は苦く笑った。


「分かっていても、足が止まりません」


 責められる響きはなかった。


 ただ、待つことに疲れた人間の声だった。


 事務所へ戻ると、美緒が作業表を広げていた。


 鉛筆で丸をつけたミカヅキノユメの欄。

 その隣に、シラユキノハナの受胎後管理表。


 二枚が並んでいる。


「小田切さん、来てたね」


「ああ」


「私も行きたかった」


 美緒はペンを机に置いた。


「心配してるのに、何もしないのが一番きつい」


 恒一は作業表を見た。


 乾草。

 水。

 立ち位置。

 耳。


 書かれているのは、小さな変化ばかりだ。


「何もしないんじゃない」


 恒一は言った。


「余計なことをしない」


 美緒はすぐに返さなかった。


 唇を結び、作業表の端を指で押さえる。


「それ、分かるよ。でも、手が空くと、心配がこっちに来る」


 美緒は自分の胸を軽く叩いた。


「何かしてた方が、こっちは楽なんだよ」


「馬は楽じゃない」


「……ずるい言い方」


「正しい言い方だ」


 美緒は少しだけ睨んだ。


 だが、反論はしなかった。


 玲奈が来たのは、昼前だった。


 検査道具は持っていない。

 記録板と、薄い紙だけを持っている。


「今日から確認を絞ります」


 玲奈は事務所の机に紙を置いた。


 確認時間:朝・昼・夜。

 接触者:恒一、玲奈、美緒。小田切は距離を保って短時間。

 確認項目:乾草、水、立ち位置、耳、便、発汗。

 不要事項:追加検査、長時間滞在、声かけ増加、飼料変更。


 美緒が紙を見て、顔をしかめた。


「小田切さん、短時間って書くんですか」


「書きます」


「可哀想じゃないですか」


「可哀想です」


 玲奈はあっさり言った。


「でも、ミカヅキノユメのためです」


 美緒は黙った。


 玲奈のこういうところは、冷たい。

 けれど、馬のために冷たい。


「美緒さんもです」


「私も?」


「はい。見に行く回数を増やさないでください」


「……行ってません」


「行きたい顔をしています」


 美緒は目をそらした。


「顔まで見ないでください」


「馬は見ています」


 その一言で、美緒は黙り込んだ。


 昼の確認では、ミカヅキノユメは乾草へ鼻を寄せた。


 一度、通路を見る。

 耳が動く。


 だが、後ろへは下がらない。


 乾草を一本噛む。


 もう一本。


 美緒が息を吸いかけたので、恒一は手で制した。


 美緒は口を閉じ、作業表に書いた。


 昼。乾草少量摂取。後退なし。耳反応あり。


 字は丁寧だった。


 喜びすぎないために、丁寧に書いているように見えた。


 小田切には、電話で報告した。


『食べましたか』


「少量です」


『奥には』


「下がっていません」


『……見に行っても?』


 小田切の声が少し詰まった。


 恒一はすぐには答えなかった。


「夕方、短時間だけなら」


『短時間』


「はい。馬房の前で声をかけすぎない。近づきすぎない。長く立たない」


『分かりました』


 少し間があった。


『心配しているのに、近づけないんですね』


「はい」


『きついですね』


「きついです」


『でも、そうします』


 電話を切ると、美緒が小さく言った。


「みんな、待つの下手だね」


「上手い人はいない」


「馬の方が上手いのかな」


「どうだろうな」


 夕方、小田切は本当に短時間だけ来た。


 馬房から二歩離れた場所で止まる。

 声をかけない。

 手も伸ばさない。


 ただ、見た。


 ミカヅキノユメは耳を動かしたが、奥へは下がらなかった。


 乾草へ戻る。


 少しだけ噛む。


 小田切は、それ以上近づかなかった。


 代わりに、小さく頭を下げた。


 馬にではない。

 たぶん、自分の中の焦りにだ。


 夜、事務所の机に作業表が並ぶ。


 シラユキノハナの受胎後管理表。

 ミカヅキノユメの判定保留表。

 タチカゼの次走白紙。


 どれも終わっていない。


 美緒は昼と夜の欄を見比べた。


「少し食べた。奥にも下がってない。でも、この紙、安心していい顔してない」


「安心の紙じゃない」


 恒一は確認時間を指でなぞった。


「朝、昼、夜。人を増やさず、触らず、変えずに見られた日の紙だ」


 美緒はしばらく黙った。


 それから、作業表の余白に書いた。


 触らない管理。


 夜の最後の確認で、ミカヅキノユメは馬房の奥ではなかった。


 真ん中に立っていた。

 乾草は、昼より少しだけ減っている。


 完食ではない。


 だが、食べた。


 視界に文字が浮かぶ。



---


ミカヅキノユメ

受胎判定:保留

食欲:少量回復

水分摂取:維持

立ち位置:馬房中央

環境警戒:中程度

耳反応:やや多め

接触制限反応:良好

推奨対応:接触人数固定継続/確認回数維持/再確認まで刺激抑制

総評:判定保留後、大きな崩れはなし。接触を増やさない管理により、食いはわずかに戻る。安心は不可だが、再確認まで維持できる可能性あり



---


 安心は不可。


 また、その言葉だった。


 だが、昨日よりは少しだけ前を向いている。


 翌朝。


 再確認の日。


 ミカヅキノユメは馬房の奥ではなく、通路側に立っていた。


 こちらを見ている。


 耳は動く。

 それでも、逃げない。


 美緒が作業表を抱え直した。


「声は小さく。でも、見るところは見逃さない」


「それでいい。騒ぐな」


 美緒は小さく頷いた。


 玲奈の車が、厩舎前に入ってくる。


 ミカヅキノユメは首を上げた。


 だが、その場から動かなかった。


 再確認の朝が来た。



---


榊原恒一


牧場経営力:A-


配合読解:B


繁殖観察:A


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B+


交渉・信頼:A


牧場再建度:46%



榊原ファーム


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:上昇


牧場ブランド:B


倒産危険度:高



補助表示


ミカヅキノユメ:判定保留後管理/食い少量回復


シラユキノハナ:受胎確認/高齢牝馬管理継続


タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙


セリ候補:買い手候補整理中


次の勝負:ミカヅキノユメ再確認で保留を保てるか

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