第66話 ミカヅキノユメ、判定保留
ミカヅキノユメの乾草は、朝まで少し残っていた。
完食ではない。
水桶は減っている。
立ち位置も悪くない。
馬房の奥に張りついているわけでもない。
それでも、耳が忙しかった。
通路の足音。
外の車の音。
隣の馬が鼻を鳴らす音。
そのたびに、ミカヅキノユメの耳が細かく動く。
美緒は作業表の昨日の欄と今朝の欄を、指で何度も往復した。
「食べてないわけじゃない。水も飲んでる。でも、ここの差が嫌」
昨日より、乾草が残っている。
たったそれだけの差が、紙の上ではやけに大きく見えた。
「シラユキノハナの時みたいに、すっきりしないね」
「馬が違う」
「分かってる」
美緒の声は、少し荒かった。
「分かってるけど、同じ牧場の朝なのに、こんなに違うんだね」
玲奈が厩舎に入ってきた。
手には検査道具のケース。
昨日と同じケースなのに、今日は音が重く聞こえた。
小田切も来ていた。
馬房から少し離れた場所に立っている。
近づきたいのを、我慢している距離だった。
「今日も、長く触りません」
玲奈はミカヅキノユメを見ながら言った。
「食いは鈍い。水は飲んでいる。立ち位置は悪くない。ただ、耳が忙しい。検査そのものより、検査前後の刺激に注意します」
小田切が静かに聞いた。
「昨日の乾草の残りは、やはり気になりますか」
「気になります」
玲奈ははっきり答えた。
「ただ、それだけで悪いとは決めません」
小田切は頷いた。
頷いたが、顔は硬い。
検査が始まった。
ミカヅキノユメは首を上げた。
一度、後ろへ下がる。
だが、馬房の奥へ逃げ切る前に止まった。
恒一は何も言わなかった。
美緒も声を出さない。
小田切の指が、上着の裾を握っていた。
検査は終わった。
玲奈はすぐに結果を言わなかった。
道具を片づける。
手袋を外す。
記録板を見る。
親指で、記録板の端を一度だけ押さえた。
その沈黙が、一番こたえた。
美緒が口を開きかけて、飲み込む。
玲奈は顔を上げた。
「現時点で、明確な陽性とは言えません」
小田切の肩が、わずかに落ちた。
美緒のペンも止まる。
「陰性、ですか」
「そうとも言いません」
玲奈の声は静かだった。
「判定は保留です。もう一度、間を置いて確認します」
保留。
その言葉は、喜びでも失敗でもなかった。
だから余計に、置き場所に困る。
美緒が作業表に書こうとして、手を止めた。
「延期したのが……」
言いかけたところで、恒一は美緒を見た。
強くではない。
ただ、止めた。
美緒は唇を噛み、ペンを握り直した。
「ごめん。今のは、馬に言うことじゃない」
「紙にも書かなくていい」
「うん」
玲奈が頷いた。
「輸送の判断が悪かったとは、現時点では言えません。種付けはできました。大きく崩れず戻りました。ただ、受胎はまだ確認できない。それだけです」
「それだけ、か」
小田切が低く呟いた。
「それだけが、重いですね」
恒一は小田切へ向き直った。
「ごまかしません。今日の時点では、受胎確認とは言えません」
「はい」
「水は飲んでいます。立ち位置も悪くありません。ただ、乾草の減りが鈍い。耳も忙しい。ここから数日、接触を増やさずに見ます」
小田切はミカヅキノユメを見た。
馬は乾草の方へ鼻を向けている。
食べるかと思ったが、すぐには食べない。
「もう一度、待ちます」
小田切はそう言った。
短い言葉だった。
落胆していないわけではない。
だが、投げていない。
「この馬には、待つ時間が要るんでしょう」
美緒が作業表に書いた。
ミカヅキノユメ。受胎判定保留。再確認予定。接触人数固定。乾草・水・立ち位置を継続確認。
字は少し硬かった。
昼、ミカヅキノユメは乾草を少しだけ食べた。
完食ではない。
それでも、食べた。
美緒は声を出さずに、作業表へ追記した。
昼。乾草少量摂取。水分摂取あり。耳の反応多め。
「泣くより、待つ方がしんどいね」
美緒がぽつりと言った。
「昨日は、三十秒だけ泣けたのに」
「今日は泣く場所がないな」
「うん。良くも悪くも決まってないから」
ミカヅキノユメは、まだ落ち着き切っていない。
だが、崩れてもいない。
その中間で、牧場は待つしかない。
夕方、玲奈が管理項目を絞った。
「確認は朝、昼、夜。人は増やさない。小田切さんにも、馬房前で長く立たないよう伝えてください」
「分かりました」
「心配で見に来る回数が増えると、この馬には逆効果です」
美緒が苦い顔をする。
「心配してるのに、近づかない方がいいって、嫌ですね」
「嫌でも、馬にはその方がいい」
玲奈は短く返した。
慰めはなかった。
だから信用できた。
夜、事務所の机には二枚の紙が並んだ。
シラユキノハナの受胎確認。
ミカヅキノユメの判定保留。
美緒はその二枚を見比べた。
「こっちは守る重さ」
シラユキノハナの紙を指で押さえる。
「こっちは、待つ重さ」
ミカヅキノユメの紙に、鉛筆で丸をつけた。
「赤じゃないんだな」
「うん。まだ決まってないから」
外の厩舎から、ミカヅキノユメが小さく鼻を鳴らす音がした。
視界に文字が浮かぶ。
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ミカヅキノユメ
受胎判定:保留
食欲:やや鈍い
水分摂取:維持
立ち位置:安定
環境警戒:中程度
耳反応:多め
推奨対応:接触人数固定/確認回数制限/再確認まで刺激抑制
総評:明確な陽性とは言えない。水分摂取と立ち位置は維持しているが、食いの鈍さと警戒反応が残る。再確認まで状態を崩さない管理が必要
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明確な陽性とは言えない。
その文字は、白くも黒くもなかった。
だから、苦しい。
恒一は作業表を閉じた。
シラユキノハナは残った。
タチカゼは走らなかった。
ミカヅキノユメは、まだ答えを出していない。
牧場は今日も、決まらないものを抱えたまま夜を迎える。
再確認までの数日。
勝負は、何かをすることではない。
余計なことをしないことだった。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:B
繁殖観察:A
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A
牧場再建度:46%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇
牧場ブランド:B
倒産危険度:高
補助表示
シラユキノハナ:受胎確認/高齢牝馬管理継続
ミカヅキノユメ:判定保留/再確認予定
タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙
セリ候補:買い手候補整理中
次の勝負:再確認までミカヅキノユメを崩さない管理




