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潰れかけ牧場を継いだ俺は、馬の才能と配合相性が見える――見捨てられた血統で勝ち上がり、生産界ごとひっくり返す  作者: ビッグサム


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第65話 白い母系が、ひとつ残る

 玲奈が検査道具のケースを開けた。


 金具の小さな音。

 手袋をはめる音。

 美緒が抱えた作業表の紙が擦れる音。


 朝の厩舎では、そのどれもが大きく聞こえた。


 シラユキノハナは馬房の中で静かに立っていた。


 乾草は減っている。

 水桶も悪くない。

 立ち位置は、通路側へ寄りすぎず、奥へ下がりすぎてもいない。


 恒一は一歩下がった。


 期待が、馬に触れない距離まで。


「入ります」


 玲奈が短く言った。


 美緒は作業表を胸に抱えたまま、唇を結んでいた。

 指先が、紙の端を白くしている。


「美緒」


 恒一が低く呼ぶと、美緒は肩を小さく震わせた。


「分かってる。声、出さない」


 強がった声だった。


 検査は、長くはなかった。


 それでも、待っている時間は長かった。


 玲奈の表情は変わらない。

 シラユキノハナも、いつも通りに見える。


 震えているのは、人間だけだ。


 やがて、玲奈が道具を下ろした。


 手袋を外す音がした。


 美緒が息を止める。


 玲奈はシラユキノハナをもう一度見て、それから恒一たちへ向き直った。


「確認できました」


 美緒の顔が崩れかけた。


 だが、泣かなかった。


 泣きそうな顔のまま、作業表を握り直す。


「……受胎、ですか」


「はい。シラユキノハナ、受胎確認です」


 美緒の唇が震えた。


 声にはならなかった。


 それでも、すぐにペンを取る。


 字は少し歪んだ。


 シラユキノハナ、受胎確認。


 その一行を見た瞬間、恒一の胸の奥が熱くなった。


 父の代から続いてきた血。

 金に困っても、売らずに守ろうとした馬。

 残せるかどうか分からなかった未来。


 それが、まだ見えないほど小さな形で、腹の中にいる。


 恒一は馬房の柵に手をかけかけて、止めた。


 まず、水桶を見る。


 減っている。


 次に、乾草。


 少し食べている。


 立ち位置。


 崩れていない。


 玲奈がその視線を見て、小さく頷いた。


「喜ぶ前に水桶を見るのは、悪くありません」


「癖です」


「良い癖です」


 美緒が鼻をすすった。


「泣くなら短くって言われたから、まだ泣かない」


「無理はするな」


「無理じゃない。書くことがある」


 美緒は涙をこらえたまま、作業表に新しい欄を作った。


 玲奈がすぐに言う。


「ここからが大事です。高齢牝馬ですから、受胎確認は終点ではありません」


「管理項目、お願いします」


 美緒の声は震えていた。

 だが、ペンは止まらない。


「食い、水、立ち位置。体温は必要時。接触人数は固定。急な見学は入れない。飼料変更も一気にしない」


 玲奈は淡々と続ける。


「喜びの見学会にしないこと」


「……分かってます」


「分かっているなら、書いてください」


 美緒は書いた。


 受胎確認後。見学制限継続。接触人数固定。飼料変更なし。


 書き終えると、袖で目元をこすった。


「泣く暇もない」


「それでいい」


 恒一が言うと、美緒は涙目のまま、少しだけ笑った。


「兄さんが言うと腹立つ」


 その時、恒一のスマホが震えた。


 片桐だった。


『どうだった?』


「確認できました」


 電話の向こうで、短く息を吐く音がした。


『そう。なら、次は守る番ね』


「分かっています」


『今日は浮かれすぎないこと。人を増やして、馬を落ち着かなくさせるのが一番馬鹿らしいわ』


「玲奈さんにも言われました」


『でしょうね。美緒ちゃん、泣いた?』


「まだ耐えています」


『偉いわね。あとで三十秒だけ泣かせなさい』


 電話が切れた。


 美緒がこちらを見る。


「何て?」


「あとで三十秒だけ泣け、と」


「短い」


「片桐さんだからな」


 美緒は作業表を閉じずに、鼻をすすった。


「その三十秒は、あとで使う」


 昼前、佐伯からも連絡が入った。


『聞きました。おめでとうございます』


「ありがとうございます。ただ、まだ守る段階です」


『ええ。だからこそ、見せる相手を増やしすぎない方がいい』


 佐伯の声は穏やかだった。


『受胎確認は、外へ出せば強い情報です。けれど、今は広げすぎない方がいい。興味本位の見学が増えれば、馬にも牧場にも負荷がかかります』


「分かっています」


『第一交渉権の話も急ぎません。まずは母体優先で』


「助かります」


『ただ、これで榊原ファームを見る目は変わります』


「良い意味で、ですか」


『良い意味です。でも、それだけではありません。残せる牧場だと思われれば、次は守れるかを見られます』


「……はい」


『おめでとうございます。けれど、ここからですね』


 電話を切ると、美緒が帳簿を開いていた。


「信用は上がる」


「ああ」


「でも、現金は増えてない」


「ああ」


「むしろ、増えるのは管理費」


「そうだな」


 美緒は帳簿の端を指で押さえた。


「嬉しいのに、数字だけ冷たい」


「数字はいつも冷たい」


「でも、今日はちょっと腹立つ」


 美緒はそう言って、ようやく目元を拭った。


「三十秒、今使っていい?」


「ああ」


 美緒は事務所の椅子に座り、机に顔を伏せた。


 声は出さなかった。


 肩だけが、小さく震えた。


 三十秒も経たないうちに、美緒は顔を上げた。


「終わり」


「短いな」


「守る時間は、もっと長いから」


 恒一は何も返せなかった。


 夕方、シラユキノハナの馬房へ行く。


 乾草を噛む音が、朝より少しはっきり聞こえた。


 恒一は柵に触れず、一歩引いた場所で止まった。


「残ったな」


 シラユキノハナは耳を動かした。


「でも、これからだ」


 毎日の水桶。

 毎日の乾草。

 毎日の立ち位置。

 高齢牝馬の体調。

 費用。

 人手。

 不安。


 それを全部抱えて、ようやく春へつながる。


 視界に文字が浮かんだ。



---


シラユキノハナ

受胎確認:陽性

母体状態:安定

食欲:維持

水分摂取:良好

年齢リスク:高

管理重要度:上昇

見学制限:継続推奨

推奨対応:接触人数固定/飼料変更慎重/定期確認強化

総評:受胎確認により母系継続の可能性が生まれた。ただし高齢牝馬のため、管理負荷とリスクは上昇。成功ではなく、守る段階へ移行



---


 守る段階へ移行。


 その文字が、今日のすべてだった。


 事務所に戻ると、机の上には三枚の紙が並んでいた。


 シラユキノハナの受胎確認。

 タチカゼの次走白紙。

 ミカヅキノユメの受胎未確認。


 美緒は三枚の紙を、机の上で少しだけずらした。


「残った紙と、止まった紙と、まだ白紙みたいな紙」


「……全部、今日の牧場だな」


「片づいた紙、ひとつもないね」


「ああ」


「でも、捨てたい紙もない」


 美緒は新しい作業表を一枚出した。


 シラユキノハナ用の、受胎後管理表。


 最初の欄に、ゆっくり書く。


 白い母系、管理開始。


 その文字は、少しだけ震えていた。


 夜、ミカヅキノユメの馬房を確認した時だった。


 乾草が、少し残っている。


 完食ではない。


 水は飲んでいる。

 立ち位置も悪くない。


 だが、乾草の残りが、恒一の目に引っかかった。


 美緒も気づいた。


「……残ってる」


「ああ」


「少しだけ?」


「少しだけ」


 玲奈へ送るため、美緒が作業表に書く。


 ミカヅキノユメ。乾草やや残り。水分摂取あり。立ち位置安定。翌朝要確認。


 シラユキノハナの紙をまだ片づけていない机に、ミカヅキノユメの記録が一枚増えた。


 それでも、今日の一行は消えない。


 シラユキノハナ、受胎確認。


 その文字だけが、事務所の紙の上に残っていた。



---


榊原恒一の現状


牧場経営力:A-


配合読解:B


繁殖観察:A


若駒評価:A


現場判断:A


資金繰り判断:B+


交渉・信頼:A


牧場再建度:46%



榊原ファーム経営状況


現金余力:低


資金繰り危険度:高


繁殖牝馬群期待値:上昇


牧場ブランド:B


倒産危険度:高



補助表示


シラユキノハナ:受胎確認/高齢牝馬管理継続


ミカヅキノユメ:乾草やや残り/受胎未確認


タチカゼ:出走見送り継続/次走予定白紙


セリ候補:買い手候補整理中


次の勝負:ミカヅキノユメの受胎確認前管理

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